第80話 帰る場所
星渡り大橋の完全修理から、一夜が明けた。
朝の橋には、すでに何台もの荷車が行き交っていた。東星町からは加工品や日用品が運ばれ、西星町からは薬草や木材が積まれていく。橋の中央ですれ違う荷車の御者たちは、まだ少し珍しそうに互いの荷物を眺めていた。
百年間、壊れた状態で使われ続けてきた橋である。
それが今日からは、ごく普通の道になる。
修は中央塔の前に立ち、最後の確認を行った。
【対象:星渡り大橋】
【損傷率:8%】
【構造安全性:正常】
【通行機能:正常】
【水路調整機構:正常】
【東西水量比:50:50】
【継続保守:可能】
損傷率はゼロではない。
それでいい、と修は思った。
二百三十一年前の橋を新品同様にすることが目的ではない。これからも使い続けられ、壊れた時には次の職人が直せる。その状態まで戻すことが、この橋に必要な修理だった。
「ご主人様!」
後ろからリペが駆けてくる。
手には、いつものしゃもじが握られていた。
「西星町からお弁当をいただきました!」
「朝飯食べたばかりだろ」
「これは帰り道用です!」
「まだ出発してないぞ」
「準備は早い方がいいです!」
橋の修理で学んだ言葉を、都合よく使っている。
修は笑いながら振り返った。
その向こうからミレアが歩いてくる。腰には、修が直した父親の金槌が下がっていた。
「もう行くの?」
「はい。気になることもありますから」
「七つ目ね」
修は頷いた。
第六の遺産、星渡りの天秤。
そこで手に入れた最後の言葉。
『六つの音を持って、帰れ。』
『七つ目は、旅の先にはない。』
帰る場所といえば、修にとって思い当たる場所は一つしかなかった。
リペア工房。
そして、その町に立つ時計台だ。
「ミレアさんは?」
「私?」
「これからどうするか、考えるって言ってたでしょう」
ミレアは橋を見る。
昨日までの彼女は、壊れた橋を守る橋守だった。
だが、橋は直った。
だからといって、橋守という仕事そのものがなくなるわけではない。むしろ完全修理された今後こそ、定期的な点検と整備が必要になる。
それでも、同じ仕事ではなかった。
「しばらくは橋守を続ける」
ミレアは答えた。
「ただ、前みたいに『壊れたまま維持する橋守』じゃない。これからは、ちゃんと使い続けるための橋守」
「いいですね」
「それと、東にも弟子を取ろうと思ってる」
修は少し驚いた。
「東星町から?」
「橋の半分は東にあるんだから、橋守が西にしかいない方がおかしいでしょ」
確かにそうだった。
これまで橋は一つなのに、修理は東と西で分断されていた。その結果、互いの修理記録すら十分に共有されていなかった。
「今度から修理記録も一冊にする。東と西で同じものを持つ」
「それがいいと思います」
「あなたのおかげ」
「俺は橋を直しただけですよ」
「またそれ言う」
ミレアは呆れたように笑った。
「じゃあ、そういうことにしておく」
バルドも見送りに来た。
その顔には疲れが残っていた。
昨夜は東星町の工房を回り、水量が五割になった後の状況を確認していたらしい。
「どうでした?」
修が尋ねる。
「大混乱……と言いたいところだが、思ったより何とかなった」
金属工房では循環槽が予定通り稼働し、製紙工房も三段階の再利用を始めている。宿屋では清掃用水への再利用が定着し始め、農地でも夜間の掛け流しをやめた。
もちろん問題がないわけではない。
「染色工房が一軒、昨日の夕方に水が足りなくなった」
「やっぱり出ましたか」
「雨水槽への配管が細すぎた。今朝から交換してる」
修は少し安心した。
問題が起きたことに、ではない。
問題が起きた時、自分がいなくても町の人たちが直し始めていることにだ。
「それなら大丈夫そうですね」
「ああ。ただ、五割で本当に一年を通して暮らせるかは、まだ分からん」
バルドは現実的だった。
今回の計算には雨量の変動や、工房の生産量が増えた場合まで完全には含まれていない。来年、再来年と状況を見ながら、さらに水の使い方を変える必要が出るだろう。
橋を直したから、すべての問題が解決したわけではない。
むしろ、新しい暮らしの始まりだった。
「困ったら呼んでください」
「また来るのか?」
「修理屋なので」
「出張料は取れよ」
「考えておきます」
「そこは即答しろ」
バルドが笑った。
修とリペは、東星町側から星渡り大橋を離れた。
来た時とは違う道を歩いているような気がした。
実際には同じ街道だ。
しかし背後では、東から西へ、西から東へと荷車が行き交っている。橋の中央で止められることも、風向きを待つこともない。
しばらく歩いたところで、リペが振り返った。
「小さくなりました」
遠くに星渡り大橋が見える。
「何が?」
「橋です」
「離れたからな」
「でも、最初に見た時はものすごく大きかったです」
修も振り返る。
峡谷を跨ぐ巨大な橋。
その中央に、小さく塔が見える。
「あれを直したんですよね」
「みんなでな」
「私は泥をいっぱい取りました!」
「助かったよ」
リペが嬉しそうに笑った。
「しゃもじも活躍しました!」
「してない」
「泥を一回すくいました!」
「その後ちゃんと洗ったか?」
リペが黙った。
修も黙った。
「……洗ったよな?」
「帰ったら洗います!」
「今洗え!」
街道の脇を流れる小川で、急遽しゃもじの洗浄が行われた。
帰り道は、行きよりもゆっくり進んだ。
急ぐ理由がなくなったからだ。
途中の小さな村で一泊すると、宿の主人から壊れた椅子を頼まれた。
【対象:食堂椅子】
【損傷率:18%】
【右後脚接合部:緩み】
「十分くらいですね」
「金は取ってくれよ」
主人が先に言った。
修は苦笑する。
「最近、それをよく言われます」
「修理屋が飯食えなくなったら、次に壊れた時困るからな」
確かに一理ある。
修は銅貨を数枚受け取り、椅子を直した。
隣ではリペが宿の子供にしゃもじを見せていた。
「これは伝説の――」
「普通のしゃもじだぞ」
修が遠くから訂正すると、子供が笑った。
「喋るゴーレムだ!」
「私は喋ります!」
「しゃもじも喋る?」
リペは少し考えた。
「修行中です!」
「変なこと教えるなよ」
旅の途中で、そんな小さな修理をいくつか引き受けた。
荷車の車輪。
宿の窓。
農具の柄。
子供のおもちゃ。
どれも遺産ではない。
世界の運命にも関係しない。
それでも修にとっては、星渡り大橋と同じ修理だった。
五日後。
見慣れた町並みが見えてきた。
「帰ってきましたー!」
リペが走り出す。
「だから走るな!」
「橋じゃないので大丈夫です!」
「そういうルールじゃない!」
町の入口にいた人々がこちらを見る。
最初に気づいたのはロイだった。
「あっ!」
少年が駆けてくる。
「修!」
「ただいま」
「遅い!」
「遠かったんだから仕方ないだろ」
「橋直した?」
「直したよ」
ロイの目が輝く。
「でっかい橋?」
「全長千二百八十四メートル」
「すげえ!」
「私も直しました!」
リペが胸を張る。
「何したの?」
「泥を取りました!」
ロイが少し考える。
「地味」
「重要です!」
「しゃもじで?」
「少しだけ!」
「やっぱり地味」
リペが衝撃を受けていた。
町長もやってきた。
「おかえり」
その一言を聞いた瞬間、修は少しだけ立ち止まった。
帰港の鐘。
第三の音を思い出した。
ただいま。
おかえり。
旅に出た者が戻る場所。
「ただいま戻りました」
修は改めて答えた。
リペア工房の前まで来ると、修は思わず笑った。
扉に紙が何枚も貼られている。
『鍋の取っ手が取れました』
『時計が遅れます』
『井戸の滑車を見てください』
『急ぎではありません』
『急ぎです』
さらに一番下には、ロイの字で大きく書かれていた。
『木剣強化希望』
「最後のは却下」
「まだ何も言ってない!」
後ろからロイの抗議が飛んできた。
修が扉を開ける。
久しぶりの工房だった。
作業台。
工具棚。
修理待ちの箱。
窓から差し込む光。
旅に出る前と、ほとんど変わっていない。
それなのに、妙に懐かしい。
リペが工房の中へ飛び込む。
「帰りました!」
「誰に言ってるんだ?」
「工房です!」
修は少し笑った。
「そうか」
それなら、自分も言っておこう。
「ただいま」
当然、工房は答えない。
しかし修には、それで十分だった。
その日の午後は、旅の荷物を片付けるだけのつもりだった。
ところが扉に貼られていた修理依頼を見た人たちが、「帰ってきたらしい」と聞きつけて次々とやってきた。
最初は鍋。
次は時計。
その次は農具。
気づけば作業台の横に十六個の修理品が並んでいた。
「増えてません?」
リペが尋ねる。
「増えてるな」
「旅に出る前より人気です!」
「宣伝した?」
「してません!」
「本当に?」
「今回は!」
今回は、という部分が気になった。
修は最初の鍋を手に取る。
取っ手が外れているだけだ。
【対象:鉄鍋】
【損傷率:4%】
【修理推定時間:6分】
「さて」
久しぶりに、いつもの言葉が自然に出た。
「どこが痛い?」
六分後。
鍋は直った。
次は時計。
その次は農具。
星渡り大橋を直した後でも、やることは変わらない。
むしろ修には、こちらの方が落ち着いた。
夕方。
八個目の修理を終えた頃だった。
カチッ。
工房の奥から、小さな音がした。
修の手が止まる。
「ご主人様?」
「今、何か聞こえなかったか?」
リペが耳を澄ます。
「何も聞こえません」
修は立ち上がった。
音がしたのは工具棚の辺りだ。
しかし、そこには異常がない。
もう一度。
カチッ。
今度は分かった。
「下だ」
「地下ですか?」
「いや……」
修は床を見る。
音は地下工房よりも近い。
作業台を動かす。
その下に、一本の細い線があった。
「こんなのあったか?」
床板の継ぎ目にも見える。
しかし鑑定すると、表示が現れた。
【対象:工房床下収納】
【製作者:アルド】
修の心臓が大きく鳴った。
「アルドさん?」
リペがしゃがみ込む。
「第七の遺産ですか!?」
「まだ分からない」
修は床板を調べた。
鍵穴はない。
取っ手もない。
ただ、小さなくぼみが六つ並んでいる。
修は旅で手に入れたものを思い出す。
六つの音。
それぞれの遺産から持ち帰った記録と継承の証。
「六つの音を持って、帰れ」
修が呟いた。
「ここだったのか」
六つのくぼみに、これまで手に入れた継承の証を順番に置いていく。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
そして、星渡りの天秤から受け取った六つ目。
カチッ。
すべてのくぼみが淡く光った。
床板がゆっくり横へ動く。
その下から現れたのは、小さな木箱だった。
豪華な箱ではない。
どこにでもありそうな、古い工具箱だった。
【対象:アルドの工具箱】
【損傷率:12%】
【製作年:約238年前】
【所有者:アルド】
【第七の遺産】
リペが目を輝かせる。
「第七の遺産!」
修は、すぐには箱を開けなかった。
表示の最後に、もう一行あったからだ。
【状態:未完成】
「未完成?」
リペが首を傾げる。
修も同じだった。
七つ目の遺産。
最後の遺産。
それが未完成。
箱を開く。
中に入っていたのは、使い込まれた小さな工具が数本と、一冊の薄いノートだった。
そして中央には、一つだけ空いた場所がある。
何かを収めるためのくぼみ。
しかし、そこに入るはずの物はない。
修はノートを開いた。
最初のページには、アルドの文字があった。
『七つ目の遺産を探している君へ。』
『残念だが、ここに七つ目はない。』
「え?」
リペが固まる。
修も思わず読み直した。
間違いない。
次の文章が続いていた。
『ここにあるのは、私の工具箱だ。』
『私が最後まで完成させられなかったものでもある。』
『六つの遺産を巡った君なら、もう分かっているはずだ。』
『職人が最後に残すべきものは、完成品ではない。』
修は次のページをめくった。
そこには、一枚の図面が挟まっていた。
町の時計台。
その中心部。
これまで、どの設計図にも描かれていなかった部分。
【時計台中央機構・最終部品】
その下に、アルドの文字。
『最後の部品は、私には作れなかった。』
『私が作ってはいけなかったからだ。』
修は息を止めた。
『七つ目の遺産は、次の修理屋が作れ。』
工房の外。
夕暮れの町に、時計台が立っている。
まだ止まったままの時計。
長い旅の始まりから、ずっとそこにあったもの。
リペが修を見る。
「ご主人様」
「うん」
「第七の遺産、ないんですか?」
修は図面を見つめたまま答えた。
「違う」
空白の部分。
未完成の工具箱。
止まった時計台。
そして、アルドが残した最後の仕事。
「これから作るんだ」
七つ目の遺産は、過去には存在しない。
伝説の職人が残したものでもない。
次の修理屋が。
今を生きる人たちと一緒に作るものだった。




