第100話 修理屋の百年計画
アルド大時計台の修復が完了してから、一週間が経った。
町の人々はすっかり時計台のある暮らしに慣れ、朝七時、正午、夕方六時に響く鐘の音が、日々の生活の目安になっていた。広場を通る人々が時計盤を見上げる姿も珍しくなくなり、修復工事のために設置されていた資材置き場には、再び商人たちの荷車が並ぶようになっていた。
修の工房も通常営業に戻り、連日さまざまな修理依頼が持ち込まれていた。
そんなある朝、修は作業台の前で頭を抱えていた。
「……どうしてこうなった?」
机の上には、十七本の木製しゃもじが並んでいる。
新品が五本、使い古したものが八本、そして修理途中のものが四本。形も大きさも違うが、どれも料理に使う普通のしゃもじだった。
その前で、リペが得意げに胸を張っている。
「ご主人様! これで百年安心です!」
「何が?」
「しゃもじです!」
「それは見れば分かる」
リペは一週間前、看板を取り付けようとして愛用のしゃもじを折ってしまった。修が木目に沿って接合し、柄の内部に補強材を入れて修復したところ、以前より頑丈になったことに感動したらしい。
それ以来、リペは町中から古いしゃもじを集め始めたのだった。
「どうして十七本もあるんだ?」
「百年後のためです!」
「百年後に十七本で足りるのか?」
「……足りませんか?」
「いや、そういう話じゃなくて」
修は額に手を当てた。
エルクが笑いながら工房へ入ってくる。
「おはようございます、修さん。今日もしゃもじが増えてますね」
「おはよう。昨日より三本増えてる」
「順調ですね」
「何が順調なんだよ」
リペはしゃもじを一本持ち上げた。
「エルクさん! 今日から私たちの百年計画が始まります!」
「俺も参加するんですか?」
「もちろんです! まずは百年間、しゃもじを壊さず使う方法を研究します!」
修は思わず笑った。
「だったら最初に、釘を打つのをやめような」
「それはもう卒業しました!」
「本当か?」
「今は金槌を使っています!」
「最初からそうしてくれ」
工房に笑い声が響いた。
しかし、修はまだ知らなかった。
この何気ない百年計画が、思いがけない仕事へつながることを。
⸻
午前九時。
工房の扉が開き、一人の老人が入ってきた。
背中は少し曲がっていたが、足取りはしっかりしている。灰色の髪を後ろで束ね、使い込まれた革製の鞄を肩に掛けていた。
「ここが、時計台を直した修理屋かね?」
「はい。いらっしゃいませ」
修が答えると、老人は工房の中をゆっくり見回した。
「なるほど。思ったより普通の工房じゃな」
「普通の修理屋ですから」
「そうかそうか」
老人は笑い、鞄から小さな木箱を取り出した。
「では、これを見てもらいたい」
箱の中には、古い金属製の道具が入っていた。
長さは二十センチほど。細い金属棒の先に二枚の板が取り付けられ、中央には小さな歯車が組み込まれている。
修は初めて見る形だった。
「これは何ですか?」
「昔の測量道具じゃよ」
老人は椅子に腰を下ろした。
「わしの祖父が使っていたものでな。もう百年以上前の品になる」
修は道具を手に取り、慎重に動かしてみた。
二枚の金属板が連動して開閉する仕組みだったが、途中で引っかかり、片方の板が動かなくなる。
「なるほど。少し調べてもいいですか?」
「もちろんじゃ」
修は鑑定を行った。
【旧式角度測定器】
【製造年代:約百二十年前】
【損傷率:47%】
【回転軸:摩耗】
【連動歯車:一部欠損】
【目盛板:正常】
【修復可能】
【製造者刻印:判読困難】
「直せそうですね」
修が言うと、老人は嬉しそうに頷いた。
「そうか。それはありがたい」
「ただ、かなり古い道具なので、元の構造を確認しながら作業する必要があります」
「急ぎではない。時間をかけてくれて構わんよ」
修は頷き、修理記録帳を開いた。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「オルフェンじゃ」
「オルフェンさんですね」
老人は頷いた。
「昔は王国の測量局で働いておった。今は引退して、古い道具を集めて暮らしておる」
エルクが興味深そうに尋ねた。
「測量局って、道路や建物の位置を調べる仕事ですよね?」
「そうじゃ。橋を架ける時も、道路を作る時も、まずは土地を正しく測らねばならん」
オルフェンは机の上に置かれた測定器を見つめた。
「昔はこういう道具を使っておった。今ではもっと便利なものがあるがの」
修は小さく頷いた。
古い道具が新しい道具に置き換わるのは、自然なことだ。
それでも、古い道具には、その時代の技術や工夫が残されている。
「修理が終わったら、また使う予定なんですか?」
修が尋ねると、オルフェンは首を横に振った。
「いや。使う予定はない」
「そうなんですか?」
「ただ、捨てたくないだけじゃ」
老人は少し照れくさそうに笑った。
「祖父が使い、父が受け継ぎ、わしが保管してきた。今度は孫に渡したいと思っておる」
修は頷いた。
「分かりました。できるだけ元の姿を残して直します」
「頼むよ」
老人は立ち上がり、帰り際に時計台の方を見た。
「そうそう。時計台の修復、見事じゃったな」
「ありがとうございます」
「わしの祖父も、昔あの時計台の修理に関わったことがあるらしい」
修の手が止まった。
「本当ですか?」
「ああ。詳しいことは知らんが、昔から家に時計台の図面が何枚か残っておる」
修は思わず身を乗り出した。
「図面があるんですか?」
「あるとも。もう古い紙じゃがな」
「もしよろしければ、今度見せていただけませんか?」
オルフェンは少し驚いたようだった。
「そんなに興味があるのかね?」
「はい。今回の修復でも古い記録をたくさん調べましたが、まだ知らないことがあるかもしれません」
老人は嬉しそうに笑った。
「ならば、今度持ってこよう。どうせ家に眠っておるだけじゃ」
「ありがとうございます」
オルフェンが帰った後、エルクが修を見た。
「また時計台の話ですね」
「そうだな」
「修復は終わったのに、まだ新しいことが見つかるんですね」
修は笑った。
「歴史が長いからな。調べれば、まだまだ知らないことがあるんだろう」
エルクは頷いた。
「面白いですね」
⸻
昼過ぎ。
修とエルクは、オルフェンから預かった測定器の修理を始めた。
まず、外側の金属板を取り外し、内部の歯車を確認する。
欠けている歯は二か所。回転軸も摩耗しているが、目盛板は驚くほど良い状態で残っていた。
「この目盛り、すごく細かいですね」
エルクが言った。
「ああ。昔の職人も、かなり精密な加工をしていたんだな」
修は目盛板を光にかざした。
小さな数字が等間隔に刻まれている。
現代の測定器と比べても、決して粗雑なものではなかった。
「歯車を交換すれば動きそうですけど、どうします?」
エルクが尋ねる。
「まず、元の歯車を残せるか考えよう」
「欠けた部分だけ補修するんですか?」
「そうだな。ただし、強度が足りないなら交換する」
修は鑑定を行い、欠けた歯の周囲を調べた。
【連動歯車】
【損傷率:31%】
【欠損部:2か所】
【材質:旧式真鍮合金】
【部分補修:可能】
【補修後推定強度:実用範囲内】
「補修でいけそうだ」
修は小さな金属片を加工し、欠けた歯の形に合わせて取り付けた。
エルクは回転軸の摩耗部分を測定し、必要な寸法を記録する。
二人は相談しながら作業を進めた。
「修さん、この軸、交換した方が早いですよね?」
「早いのはそうだな」
「でも、元の部品を残すなら、補修した方がいいですか?」
「どちらがいいと思う?」
エルクは少し考えた。
「今回は、補修でいいと思います。実際に使う予定はないですし、元の構造を残すことに意味がある道具なので」
修は頷いた。
「俺もそう思う」
エルクは嬉しそうに笑った。
「判断が合いましたね」
「でも、使う予定があったら?」
「必要な精度と強度を確認して、場合によっては交換します」
「正解」
修は笑った。
「大事なのは、何のために直すのかを考えることだ」
エルクは頷き、修理記録帳へ書き込んだ。
⸻
午後四時。
測定器の修理が完了した。
修は金属板をゆっくり動かしてみた。
二枚の板は滑らかに開閉し、中央の歯車も問題なく回転する。
【旧式角度測定器】
【損傷率:5%】
【回転機構:正常】
【目盛板:正常】
【修復状態:良好】
「よし」
修は道具を木箱へ戻した。
エルクが嬉しそうに言った。
「百年以上前の道具が、また動くようになりましたね」
「ああ」
「でも、使わないんですよね」
「そうだな」
「それでも直す意味はあるんですね」
修は頷いた。
「もちろん。使うためだけが修理じゃないからな」
エルクは少し考えた。
「思い出を残すため、ですか?」
「それもある」
修は木箱の蓋を閉じた。
「誰かが大切にしてきたものを、次の人に渡せるようにする。それも立派な修理だよ」
エルクは静かに頷いた。
その時、リペがしゃもじを一本持って近づいてきた。
「ご主人様!」
「何?」
「私も百年後に残したいものがあります!」
「しゃもじだろ?」
「違います!」
修は少し驚いた。
「違うのか?」
リペは胸を張った。
「この工房です!」
修とエルクは顔を見合わせた。
「工房?」
「はい! 百年後も、ここで修理をしていたいです!」
修は少し黙った。
百年後。
自分もエルクも、きっと今と同じようには働いていないだろう。
しかし、工房そのものは残せるかもしれない。
誰かが引き継ぎ、修理を続けていけば。
「そうだな」
修は笑った。
「残せるといいな」
「もちろん残します!」
リペは元気よく頷いた。
「そのために、百年計画を作りましょう!」
エルクが笑った。
「しゃもじの百年計画じゃなかったんですか?」
「しゃもじも工房も、両方です!」
修は苦笑した。
「ずいぶん大きな計画になったな」
「大丈夫です! まずは明日の予定から決めます!」
「百年計画なのに明日からか?」
「百年後は、明日の次の日の次の日の、そのまた次の日です!」
修は思わず笑った。
「……確かにそうだな」
エルクも笑った。
百年後の未来は、突然やってくるわけではない。
明日があり、その次の日があり、さらに次の日がある。
その積み重ねが、百年という時間になる。
修は工房を見回した。
古い作業台。
使い込まれた工具。
修理を待つ道具。
そして、リペとエルク。
「じゃあ、まずは明日も工房を開けるところからだな」
「はい!」
エルクが答えた。
リペも元気よく手を挙げた。
「百年計画、第一日目ですね!」
「今日が一日目じゃないのか?」
「では、今日からです!」
三人は笑った。
⸻
夕方六時。
ゴォォォォン――。
アルド大時計台の鐘が、町に夕暮れを告げた。
修は工房の窓から時計台を眺めた。
二百三十八年前に作られた時計台。
何世代もの職人が直し続け、今も町の中心で時を刻んでいる。
修はその姿を見ながら、静かに呟いた。
「百年後、か……」
その時、工房の扉が開いた。
「すみません!」
若い女性が入ってきた。
腕には、小さな木箱を抱えている。
「こちらで、古い魔道具も修理していただけますか?」
修は振り返った。
「もちろんです。まずは見せてください」
女性は木箱を作業台へ置いた。
蓋を開けると、中には小さな銀色の球体が入っていた。
表面には細かな模様が刻まれ、中央には青い宝石が埋め込まれている。
修は球体を手に取った。
「これは……?」
女性は少し不安そうに答えた。
「祖父の遺品なんです。何に使うものなのか、誰にも分からなくて」
修は鑑定を行った。
【名称:不明】
【分類:古代魔道具】
【製造年代:測定不能】
【損傷率:不明】
【内部構造:解析不能】
【特殊反応:検出】
修は目を見開いた。
「……鑑定できない?」
エルクが驚いた。
「そんなことがあるんですか?」
「俺も初めてだ」
リペが興味津々で覗き込む。
「ご主人様! 新しいガラクタですか!」
「まだガラクタと決まったわけじゃないぞ」
修は銀色の球体を見つめた。
これまで数えきれないほど多くの道具を鑑定してきたが、ここまで情報が表示されないものは珍しい。
しかも、球体の中央に埋め込まれた青い宝石が、かすかに光っている。
修は女性へ尋ねた。
「これについて、何か聞いていますか?」
女性は首を横に振った。
「いいえ。ただ、祖父が亡くなる前に、一つだけ言っていました」
「何と?」
女性は少し考え、ゆっくり答えた。
「この道具は、まだ壊れていない。ただ、目を覚ましていないだけだ、と」
修は球体を見つめた。
壊れていない。
目を覚ましていない。
それは、いったいどういう意味なのだろう。
修は小さく笑った。
「なるほど。面白そうですね」
エルクが隣に立つ。
「修さん、どうします?」
修は銀色の球体を作業台へ置いた。
「まずは調べよう。何に使うものなのか分からないと、修理のしようがないからな」
リペが両手を上げた。
「新しい冒険の始まりですね!」
修は笑った。
「まだ修理依頼を受けただけだよ」
しかし、胸の奥では、久しぶりに強い好奇心が湧き上がっていた。
アルドの七つの遺産を巡る旅は終わった。
時計台の修復も完了した。
だが、世界にはまだ知らない技術があり、直したことのない道具がある。
そして、それを必要としている人がいる。
修は工具箱を開いた。
「さて、どこが痛い?」
青い宝石が、かすかに輝いた。
その光は、まるで修の言葉に答えるかのようだった。
工房の外では、時計台が静かに時を刻み続けている。
百年後の未来へ向かって。
そして、修理屋の新しい物語も、また一つ動き始めようとしていた。




