第99話 修理屋、通常営業に戻る
アルド大時計台の修復が完了した翌朝。
町には、いつもと変わらない朝が訪れていた。
パン屋の煙突からは白い煙が上がり、商店街では店主たちが開店の準備をしている。広場には昨日の式典で使われた飾りがまだ残っており、片付けを手伝う人々の声が聞こえていた。
午前七時。
ゴォォォォン――。
時計台の鐘が、町に朝を告げた。
修は工房の二階で、その音を聞きながら目を覚ました。
「……七時か」
以前なら、時計台の鐘が鳴ることなど珍しくもなかった時代があったのだろう。しかし修にとっては、昨日まで修理していた鐘が、今朝も当たり前のように鳴ったことが何より嬉しかった。
時計台は、もう修理の対象ではなくなった。
町の暮らしの一部に戻ったのだ。
修は窓を開け、朝の空気を吸い込んだ。
「さて、今日から通常営業だな」
そう呟いて階下へ向かうと、工房から何やら騒がしい音が聞こえてきた。
「エルクさん! もっと右です!」
「右って、どっちですか!」
「私から見て右です!」
「リペ先輩が回ってるから分からないですよ!」
修が階段を下りると、二人が大きな木製の看板を抱えていた。
看板には、見覚えのある文字が書かれている。
『大時計台スーパー完全復活祭』
「……まだあったのか、それ」
リペが振り返った。
「ご主人様! おはようございます!」
「おはよう。それで、何をしてるんだ?」
「昨日の看板を工房に飾ろうと思いまして!」
「昨日で祭りは終わっただろ」
「記念品です!」
エルクが困ったように笑った。
「倉庫から返してもらったんですけど、どこに置けばいいか分からなくて」
修は看板を眺めた。文字は大きく、色も派手で、工房の雰囲気にはまったく合っていない。
しかし、これを作るためにリペが何度も文字を書き直していたことも知っている。
「じゃあ、裏の倉庫に飾ろうか」
「お客様から見えません!」
「見せる必要があるのか?」
「あります! 歴史的資料です!」
「昨日作ったばかりだろ」
修は苦笑しながら、工房の奥にある壁を指差した。
「そこなら空いてるぞ」
「本当ですか!」
「ああ。ただし、次の看板を作る時は先に相談してくれ」
「分かりました! 次はもっと大きくします!」
「大きさの問題じゃないんだけどな……」
エルクが笑いながら看板を運び、リペはその後ろで得意げに指示を出していた。
こうして、修理工房の新しい一日が始まった。
⸻
午前八時。
修は工房の扉に掛かっていた札を裏返した。
『営業中』
時計台の修復が始まってからというもの、工房の仕事は必要最低限に抑えていた。急ぎの修理には対応していたものの、通常の依頼を受けるのは久しぶりだった。
「さて、今日は何が来るかな」
修が椅子に座ると、エルクが記録帳を開いた。
「修理依頼の受付は、俺が担当してもいいですか?」
「もちろん。まずは依頼内容を聞いて、状態を確認してくれ」
「分かりました!」
エルクは張り切って受付台の前に立った。
リペも隣に並ぶ。
「私も受付をします!」
「リペ先輩は何をするんですか?」
「お客様を元気にお迎えします!」
「それは助かりますね」
「そして、しゃもじを見せます!」
「それは必要ないと思います」
二人が話していると、工房の扉が開いた。
最初の客は、近所に住む年配の女性だった。
「おはよう、修さん。昨日はお疲れさま」
「おはようございます。ありがとうございます」
女性は小さな木箱を受付台へ置いた。
「今日はこれをお願いしたくてね」
箱の中には、古い裁縫道具が入っていた。
針山、糸巻き、指ぬき。そして、木製の糸巻き器が一つ。
女性は糸巻き器を取り出した。
「最近、これがうまく回らなくなっちゃって」
エルクが丁寧に受け取った。
「確認してもよろしいですか?」
「ええ、お願い」
エルクは糸巻き器をゆっくり回した。途中で引っかかる感触があり、軸の部分から小さな音がする。
「軸が少し傾いているみたいです」
修は隣から見守っていた。
「どう直す?」
エルクは考えた。
「軸を外して、摩耗した部分を確認します。必要なら木製の軸受けを作り直します」
「いいと思う。じゃあ、やってみよう」
エルクは作業台へ移動し、慎重に糸巻き器を分解した。
修が鑑定すると、木製の軸受けに摩耗が見つかった。
【木製糸巻き器】
【損傷率:24%】
【回転軸:正常】
【軸受け:摩耗】
【修復推奨:軸受け交換】
エルクの判断は正しかった。
「よく分かったな」
修が言うと、エルクは嬉しそうに笑った。
「時計台の軸を何度も見てましたから」
「なるほど。経験が役に立ったな」
エルクは新しい軸受けを削り出し、元の部品と寸法を合わせて取り付けた。最後に少量の油を差して回してみると、糸巻き器は滑らかに動いた。
「できました!」
女性は受け取ると、何度も回して確かめた。
「あら、すごい。こんなに軽く回るなんて」
「軸受けが摩耗していたので交換しました。しばらくは問題なく使えると思います」
「ありがとう。これ、母が使っていたものなのよ」
女性は糸巻き器を大切そうに箱へ戻した。
「もう捨てようかと思っていたんだけど、やっぱり直してもらって良かったわ」
エルクは少し照れくさそうに笑った。
「また何かあれば持ってきてください」
女性が帰った後、修は記録帳を開いた。
「最初の仕事、無事に完了だな」
「はい!」
「どうだった?」
エルクは少し考えた。
「時計台よりずっと小さい修理でしたけど、喜んでもらえると嬉しいですね」
修は頷いた。
「大きさは関係ないからな」
「そうですね」
その時、リペが受付台から顔を出した。
「ご主人様! 私にも修理させてください!」
「何を?」
「しゃもじです!」
「壊れてないだろ」
「壊れる前に直します!」
「それは手入れって言うんだよ」
⸻
昼前になると、工房には次々と客が訪れた。
椅子の脚がぐらつくという家具職人の妻。取っ手が外れた鍋を持ってきた料理人。蓋が閉まらなくなった木箱を抱えた少年。
修とエルクは手分けして作業を進め、リペは受付で客を迎えた。
もっとも、リペの場合は必要以上に元気な挨拶をするため、初めて訪れた客が驚くこともあった。
「いらっしゃいませ! 壊れたものなら何でもどうぞ!」
「何でも直せるのかい?」
「もちろんです!」
「リペ、勝手に約束するな」
修が慌てて口を挟む。
「直せないものもありますから、まずは見せてください」
客は笑いながら、壊れたランタンを差し出した。
修は状態を確認した。
【携帯用ランタン】
【損傷率:68%】
【燃料容器:亀裂】
【燃焼機構:劣化】
【修復可能】
【安全上の注意:燃料容器交換必須】
「燃料容器に亀裂がありますね。これは使わない方がいい状態です」
「そうなのか。昨日まで普通に使ってたんだけどな」
「火を使う道具なので、燃料が漏れると危険です。容器を交換して、燃焼部分も調整しましょう」
客は納得して頷いた。
「頼むよ」
修はランタンを預かり、エルクへ説明した。
「こういう道具は、動くようにするだけじゃ駄目なんだ」
「安全に使えるようにすることが大事なんですね」
「そういうこと」
エルクは真剣に頷いた。
時計台の修復で学んだことは、小さな道具にも通じていた。
⸻
午後一時。
工房の仕事が一段落した頃、町長が訪ねてきた。
「修、少しいいか?」
「どうしました?」
町長は一枚の書類を差し出した。
「王国技術院から正式な通知が届いた」
修が受け取ると、そこにはアルド大時計台の修復完了認定について記されていた。
【アルド大時計台】
【修復完了認定:承認】
【王国歴史技術遺産候補:継続審査】
【維持管理計画:受理】
「正式に認定されたんですね」
「ああ。これで修復工事に関する手続きも一段落だ」
町長は嬉しそうに笑った。
「それから、もう一つ頼みがある」
「何でしょう?」
「時計台の定期点検を、これからもお前の工房にお願いしたい」
修は書類から顔を上げた。
「もちろんです」
「引き受けてくれるか?」
「はい。ただ、俺一人で全部を見るわけにはいきません。石工や大工の人たちとも協力して、点検する形にしたいです」
「それで構わん。むしろ、その方が安心だ」
修は頷いた。
「じゃあ、点検計画を作っておきます」
町長はほっとした表情を浮かべた。
「助かるよ。これからも頼むぞ」
町長が帰った後、エルクが尋ねた。
「定期点検って、どれくらいの頻度でやるんですか?」
「毎日確認する部分もあれば、月に一度、半年に一度でいい部分もある。大事なのは、壊れてから慌てるんじゃなくて、壊れそうなところを早めに見つけることだ」
「なるほど」
「それに、全部を俺たちがやる必要はない。町の人が日常的に確認できることもあるからな」
エルクは記録帳へ書き込んだ。
修はその様子を見ながら、少し嬉しくなった。
これから先、時計台は町の人々によって管理されていく。
修理工房は、その一部を担う。
それで十分だった。
⸻
午後三時。
時計台の鐘が鳴る予定はなかった。
一日三回、朝七時、正午、夕方六時。それ以外の時間は、町の暮らしを邪魔しないよう静かに時を刻む。
修は工房の窓から時計台を眺めた。
昨日まで、あの建物のことばかり考えていた。
中央機構の調整。
鐘楼の安全装置。
屋根の補修。
外壁の保存。
どれも大切な仕事だった。
しかし、今日の時計台は何も問題を起こしていない。
修はそれが嬉しかった。
「修さん」
エルクが声をかけた。
「何?」
「時計台のこと、気になりますか?」
「まあ、少しはな」
「俺もです。何か音がすると、つい時計台の方を見ちゃいます」
修は笑った。
「しばらくは仕方ないだろうな」
「でも、普通に動いてるっていいですね」
「ああ」
修は時計台から目を離し、作業台へ向き直った。
そこには、修理を待つ道具が並んでいる。
古い鍋。
壊れた椅子。
止まった懐中時計。
そして、取っ手の外れた木製の鞄。
「さて、次はこれだな」
修は懐中時計を手に取った。
エルクが隣に立つ。
「俺も見ていいですか?」
「もちろん」
修は懐中時計の蓋を開いた。
内部には小さな歯車が並んでいる。
「時計台と比べると、ずいぶん小さいですね」
「そうだな。でも、基本は同じだ」
修は鑑定を行った。
【懐中時計】
【損傷率:42%】
【主ゼンマイ:破損】
【歯車機構:正常】
【修復可能】
「ゼンマイが切れてるな」
「交換ですか?」
「ああ。ただし、元の部品を確認してからな」
エルクは頷き、工具を準備した。
その時、リペがやってきた。
「ご主人様!」
「何?」
「大発見です!」
「今度は何だ?」
リペは懐中時計を指差した。
「時計台の子供です!」
修は一瞬、言葉を失った。
エルクが吹き出す。
「確かに、小さい時計ですけどね」
「でしょう! 時計台のお父さんに会わせてあげましょう!」
「親子じゃないから」
「では、兄弟です!」
「違うって」
リペは少し考えた。
「……親戚?」
「もう好きにしてくれ」
三人は笑った。
⸻
夕方六時。
ゴォォォォン――。
時計台の鐘が、町に夕暮れを告げた。
修は作業台から顔を上げた。
朝と同じ、深く温かい音。
昨日のような大歓声はない。
町の人々はそれぞれの仕事を続け、店を閉める準備をし、家へ帰っていく。
しかし、鐘の音を聞いたパン屋の店主が窯の火を弱め、広場で遊んでいた子供たちが帰り支度を始める姿が見えた。
時計台は、町の日常に戻っていた。
修はその光景を眺めながら、静かに微笑んだ。
「これでいいんだよな」
エルクが隣に立つ。
「何がですか?」
「時計台のことだよ」
修は窓の外を指差した。
「昨日はみんなが鐘を聞いて喜んでくれた。でも、毎日お祭りをするわけじゃない。普通に鐘が鳴って、普通に暮らしていく。それが一番いいんだと思う」
エルクは頷いた。
「確かにそうですね」
「俺たちの仕事も同じだよ。直したものが、当たり前に使われるようになれば、それでいい」
二人はしばらく時計台を眺めていた。
その時、リペが工房の奥から叫んだ。
「ご主人様! 大変です!」
修は振り返った。
「今度は何だ?」
「しゃもじが折れました!」
リペの手には、真っ二つになった木製のしゃもじが握られていた。
修は思わず立ち上がった。
「何をしたんだ!?」
「看板を取り付けようとして、釘を打ったら……」
「しゃもじで釘を打つな!」
エルクが笑いをこらえながら尋ねた。
「どうします、修さん?」
修は折れたしゃもじを受け取った。
木目に沿って大きく割れている。
鑑定を行う。
【木製しゃもじ】
【損傷率:79%】
【柄:破断】
【使用継続:不可】
【修復可能】
修は小さく息を吐いた。
「まったく……」
リペが不安そうに見上げる。
「直りますか?」
修は笑った。
「もちろん」
そして、いつもの言葉を口にした。
「さて、どこが痛い?」
リペの胸の宝石が、ぱっと明るく輝いた。
「しゃもじです!」
「見れば分かるよ」
エルクが笑い出した。
修も笑った。
大時計台を直した翌日。
王国公認修理師が最後に手に取ったのは、壊れたしゃもじだった。
それでも修は、少しも嫌ではなかった。
大きな時計台も、小さなしゃもじも、誰かにとって大切なものであることに変わりはない。
工房の外では、夕暮れの町が静かに夜を迎えようとしていた。
修は作業台にしゃもじを置き、エルクへ声をかけた。
「よし、今日はこれを直して終わりにしよう」
「はい、師匠!」
「私も手伝います!」
「お前はもう釘を打つなよ」
「分かりました! 今度はしゃもじでネジを回します!」
「だから、そういう使い方をするな!」
三人の笑い声が、工房に響いた。
そして、町の中心では、アルド大時計台が静かに時を刻み続けていた。
修理屋の新しい日常は、こうして始まった。




