血塗られた抱擁、愛欲を溶かす真紅の洪水
その街の境界、かつては恋人たちが愛を語らう公園であったというが、今は不自然なほど湿り気を帯び、壁という壁から「赤い汗」が染み出す場所。甘ったるい鉄錆の匂いが空気に凝固し、深呼吸をするだけで肺が温かい液体で満たされるような路地の先で、その「オーガニック・デリ」は、今にも破裂しそうな熟れすぎた心臓のように、ドクドクと不規則な脈動を打って佇んでいた。
店主はカウンターの奥で、自身の「循環」を制御していた。
彼が腕を振るたびに、指先からは皮膚を透過して「真っ赤な漿液」が溢れ出し、それが床を這う根を通じて街の地下水路へと流れ込んでいく。店主の身体は、もはや固形としての維持を拒んでいるかのように柔らかく、その肌の下では無数の「赤い果肉」が蠢いていた。
「……溢れ出していますね。抑えきれない愛という名の、自己中心的な溶解液が」
カラン、と水の中に石を投げ込んだような籠った音がして、ドアの鈴が鳴った。
入ってきたのは、美貌と富のすべてを手に入れながら、誰からも「本当の愛」を与えられていないと嘆く女、真由だった。
真由は「融合」を熱望していた。
彼女にとっての愛とは、相手を完全に所有し、自分の一部として溶け合わせることだった。彼女は幾度も恋をしたが、そのたびに相手の「個」が邪魔になり、最後には壊してしまった。彼女が欲したのは、自分と相手を隔てる皮膚という境界線を取り払い、ドロドロに溶け合って一つの液状の生命体になれるような、圧倒的な包容力だった。
「……寂しいの。どんなに抱きしめられても、結局は別の生き物でしかない。私は、相手の骨の髄まで、私の赤で染め上げたいの。私たちが溶けて、混ざって、境界線なんてどこにもない『温かい海』になりたい。そのためなら、私の形なんてなくなってもいいわ」
真由の声は、熟した果実が地面に落ちて潰れるときのような、湿った官能を孕んでいた。
店主は、真由の火照った首筋を、鋭い酸で溶かされるのを待つ獲物を見るような冷徹な目で見つめた。そこには、他者を飲み込もうとして自らも溺れかけている、赤い飢餓が見えた。店主はカウンターの下から、今にも皮が弾けそうな、異常なまでの瑞々しさを放つ塊を取り出した。
「抱擁、ですね。瑞々しい甘さで誘い込み、その強烈な酸で相手の形を溶かし、一つの赤いスープへと還元してしまう、血の果実……でしたら、これをお試しください。あなたが探し求めていた、究極の混濁です」
差し出されたのは、血管のような筋が表面に浮き出し、不気味に脈打つ巨大な「トマト(蕃茄)」だった。
それは野菜というよりは、地中から掘り出された「剥き出しの心臓」、あるいは「凝縮された血清の塊」のようにも見えた。表面を覆う薄い皮は、指で触れるだけで破れてしまいそうなほど張り詰め、そこからは、脳を麻痺させるような濃厚な芳香と、内臓を直接なでるような熱い湿気が、赤い霧となって漂っていた。
「『クリムゾン・メルティ(真紅の溶解)』。これを、一切刃物を使わず、あなたの『愛する者の記憶』を思い浮かべながら、手首で押し潰して全身に浴びてください。そして、その果汁があなたの毛穴からすべて吸い込まれるまで、熱い湯船の中で目を閉じるのです。あなたの愛は、世界を溶かす赤い洪水となるでしょう」
真由は、愛の成就を約束された秘儀を授かったかのように、それを持って帰宅した。
彼女は、浴室を真っ赤なキャンドルで埋め尽くし、全裸で浴槽に座った。あのトマトを胸に抱き、指先でその薄皮を愛おしそうに引き裂いた。
ブチュッ、ジュワアア……
潰れたトマトから溢れ出したのは、想像を絶する量の「赤い粘液」だった。
それは真由の全身を包み込み、皮膚の境界を曖昧にしていく。浴室の温度は急速に上昇し、湿度は限界を超え、壁や天井からは赤い雫が滝のように流れ落ち始めた。
真由は、自分の肉が熱いゼリーのように溶け、浴槽の湯と、そしてトマトの果肉と混ざり合っていく快感に身を委ねた。
「ああっ……」
それは、全身の細胞が一度バラバラに解体され、再構築されるような衝撃だった。
真由の視界は真っ赤に染まり、彼女は自分が「街全体の血管」と直結したような、底なしの全能感に包まれた。
変化は、まず彼女の「身体」を液状化させた。
翌日、真由のアパートからは、絶え間なく赤い液体が溢れ出し、階段を、通路を、そして街路を飲み込んでいった。
その液体に触れた人間は、瞬時に服が、皮膚が、そして骨が溶け出し、叫び声を上げる間もなく真由の一部へと取り込まれていった。真由の声は、街中の排水溝から、蛇口から、そして人々の耳元から、湿った囁きとなって響き渡った。
三日目。
アパート一棟が巨大な「トマトの温床」へと変貌し、無数の赤い蔓が、溶け落ちた住人たちの肉を栄養にして空へと伸びていった。
「……ねえ……みんな……一つになりましょう……痛くないわ……とっても温かいの……」
五日目。
街の一角は、高さ数十メートルに及ぶ「赤い果肉の塔」に支配されていた。
塔の中心で、真由だったものは、もはや人間の形を留めていなかった。
巨大な透明な膜の中に、無数の人間の顔や手足が、トマトの種子のように浮遊している、美しくも悍ましい「血の池」。
彼女が脈打つたびに、街には温かい酸性雨が降り注ぎ、すべてをドロドロの赤いスープへと溶かし変えていった。
七日目。
真由の精神は、完全な「溶解」に至った。
彼女という「人間」は、もうどこにもいなかった。そこにあるのは、人々の愛着も憎悪もすべてを飲み込み、均質な「赤い無」へと還していく、地上に現れた「巨大な子宮」そのものだった。
街は音もなく赤い海に沈み、そこではただ、トマトの酸っぱい、しかしどこか懐かしい匂いだけが立ち込めていた。
店主は、腰まで赤い液体に浸かりながら、崩壊した街の静寂の中に足を踏み入れた。
彼は自身の体が液体に溶けるのを逆利用し、自分自身を「赤い海」の一部へと溶け込ませながら、中央に鎮座する「真由だったもの」の前に立った。
「愛という名の溶解液。これほどまでに効率よく人間を解体する手段を、私は他に知りません」
店主がそう言うと、彼の全身の皮膚がパカリと裂け、中から「半透明な赤い吸収膜」が四方八方に広がった。それは真由の核へと吸い付き、彼女が溶かし込んだ数千人分の「生命の原液」を、凄まじい圧力で店主の体内に吸い上げていった。
店主の身体は、もはや光を透過するほどに瑞々しく、しかしその奥底には、凝縮された「死の酸」が渦巻いていた。
店主の姿は、もはや人型を維持できず、巨大な『赤い宝石』を核にした、流動する植物の怪物へと変貌を遂げていた。
「私は料理人ではありません。私は、この星に溜まった個の固執を溶かし、一本の『完全な生命の樹』へと還すための、触媒なのです」
店主が真由の塊から離れると、そこには一滴の水分も残らず、ただ乾燥した真っ赤な「薄皮」だけが、風に吹かれてヒラヒラと舞い散るだけだった。
「さて、次は……どれほど美しく花を咲かせようとしても、最後には土に顔を伏せ、自らの首を落とす。太陽を追いかけ続け、そのあまりの眩しさに狂い、自身の影を呪いながら枯れていく、孤独な巡礼者。地中の奥底で、誰にも言えない『太陽の種子』を隠し持ち、来るべき死を待ち続ける、沈黙の隠者。落日の遺言。『菊芋』などは、いかがでしょうか」




