泥の洗礼、苦悶を編み上げる八つの首
その街の境界、かつては湿地帯であり、今もなお地下水が腐敗した記憶を孕んで地表に染み出す場所。常に澱んだ湿気が建物の壁を湿らせ、黒いカビが幾何学模様を描く路地の奥で、その「オーガニック・デリ」は、巨大な爬虫類がうずくまっているかのような、重苦しい沈黙を湛えて佇んでいた。
店主はカウンターの奥で、自身の「皮膚」を剥いでいた。
彼が自分の腕を爪でなぞると、そこからは角質ではなく、乾燥した茶褐色の「鱗茎の皮」が、何層にも重なって剥がれ落ちる。剥がれた後には、瑞々しくも不気味な、白い粘液を帯びた「芽」がいくつも蠢いていた。店主は、剥がれた皮を丁寧に集めると、それを磨り潰して真っ黒なインクに変え、白紙の地図を汚していく。その地図には、人間が住む街ではなく、植物の根が街を絞め殺す「未来の配線図」が描かれていた。
「……痛みを知る土壌ほど、根は深く、強く張るものだ」
カラン、と泥を啜るような重い音を立ててドアの鈴が鳴った。
入ってきたのは、不幸という名の重荷を自ら背負い、泥道を歩き続けてきたような女、静江だった。
静江は、自己犠牲の呪縛に囚われていた。
彼女は、自分を粗末に扱う夫や、自分を搾取する親族、そして理不尽な社会に対して、一度も声を上げたことがなかった。それどころか、彼女は耐え忍ぶ自分に、そして泥水を啜って生きる自分に、ある種の「聖性」を見出していた。彼女にとっての幸せは、苦しむことであり、不運という泥を幾重にも塗り重ねて、自分を「特別な悲劇の主役」に仕立て上げることだった。
「……もう、立ち上がらなくてもいい場所へ行きたいんです。みんな私の苦しみを知っているはずなのに、誰も私を救ってくれない。だったら、いっそこの泥の底で、誰にも邪魔されずに、私の悲しみを完成させたい。私という存在が、苦しみの塊そのものになって、この世界に呪いを刻めるなら、どんな姿になっても構わないわ」
静江の声は、底なし沼から泡が弾けるような、湿った絶望を孕んでいた。
店主は、静江の猫背の背中を、地中の虫が獲物を探るような粘りつく目で見つめた。そこには、他者の悪意を吸い込んで肥大した、歪な魂の原型が見えた。店主はカウンターの下から、泥がこびりついた、不気味に絡み合う塊を取り出した。
「洗礼、ですね。一つの体から幾つもの頭を覗かせ、互いの苦悩を共有しながら、泥濘の底で永遠に増殖し続ける……でしたら、これをお試しください。あなたが探し求めていた、沈黙の要塞です」
差し出されたのは、無数の親芋と子芋が癒着し、まるで八つの首を持つ怪物のように見える「八つ頭」だった。
それは野菜というよりは、地中から引き抜かれた「結託した怨念」、あるいは「未完成の胎児たちが絡み合った肉塊」のようにも見えた。表面を覆うゴツゴツとした皮は、老人の皮膚のように硬く、そこからは、冷たい地下水と、古い因習が腐ったような匂いが漂っていた。
「『マルチプル・サファリング(幾重もの苦悶)』。これを、皮を剥かずに土がついたまま、あなたの『涙で湿った服の端切れ』と共に、蒸し器で何時間も、形が崩れるまで蒸し上げてください。そして、その熱い粘り気を、あなたの全身に塗りたくるのです。あなたの不運は、誰にも壊せない『泥の鎧』となるでしょう」
静江は、自分の悲劇を完成させるための資材を手に入れたかのように、それを持って帰宅した。
彼女は、窓を閉め切り、一筋の光も入らない部屋で、自身の古びた服を切り裂き、あの八つ頭と共に蒸し器に入れた。
シュシュシュ……、ゴゴゴ……
蒸し上がるにつれ、八つ頭から溢れ出したのは、透明な蒸気ではなく、銀色の糸を引く、驚くほど粘り気のある「泥のエキス」だった。
部屋中に、死者が土の中で身悶えするような、重苦しい湿気と圧迫感が満ちていく。
静江は、その熱く、粘りつく泥を、自らの顔に、胸に、そして手足に、愛おしそうに塗りたくった。
「ああっ……」
それは、全身の皮膚を、数万匹の吸血ヒルに吸い付かれたような、恐ろしい感覚だった。
泥は静江の毛穴を塞ぎ、彼女の呼吸を奪いながら、その肉体と一体化していく。
「あ、ああ……ようやく……誰にも……見つからない場所に……」
変化は、まず彼女の「個」という概念を破壊した。
翌朝、静江が鏡を見ると、彼女の首の横からは、二つ、三つと、新たな「白い瘤」が芽吹いていた。
それらの瘤は急速に成長し、静江と同じ苦悶の表情を浮かべた「顔」へと変わっていった。
三日目。
彼女の身体からは計八つの頭が生え揃い、それぞれが別々の「不平」と「呪い」をブツブツと囁き始めた。彼女の手足は太く、節くれ立ち、地面に深く食い込む「根」へと置換されていった。
彼女が座り込んだアパートの床からは、黒い泥水が噴き出し、部屋全体が巨大な「泥炭地」へと変貌していった。
五日目。
静江を心配して訪れた民生委員が目にしたのは、アパートの玄関から溢れ出す、銀色の粘液と黒い土の山だった。
部屋の中央には、もはや人間としての形を留めていない、直径二メートルに及ぶ「肉の要塞」が鎮座していた。
八つの頭は互いに絡み合い、噛み合い、一つの巨大な「八つ頭の塊」へと融合していた。
民生委員が助けを呼ぼうとした瞬間、静江だったものの隙間から噴き出した強烈な「粘り気」が彼の足を捕らえ、彼は一瞬で泥の底へと引きずり込まれた。
七日目。
静江の精神は、完全な「泥濘」へと至った。
彼女の身体を構成する八つの意識は、すべて「苦しみ」という一点で結ばれ、終わりのない絶望の輪舞を踊っていた。
彼女という「人間」は、もうどこにもいなかった。そこにあるのは、人々の悪意と不運を吸い込んで肥大し続ける、地上に現れた「地獄の腫瘍」そのものだった。
店主は、泥と粘液で満たされた、腐敗しきった部屋に足を踏み入れた。
彼は足元から伸びる泥の手を軽々とかわし、中央に鎮座する「静江だった塊」を、見事な出来栄えの工芸品を眺めるように見つめた。
「実に素晴らしい。一つの痛みが八つに増え、それが互いを養分として、さらなる苦悩を生産し続ける。これこそが、私が求めていた『永久機関』です」
店主がそう言うと、彼の腹部が大きく裂け、そこから数千本もの「真っ赤な毛根」が噴き出した。それらは生き物のように宙を舞い、静江の八つの頭の、開いた口や眼球へと一斉に突き刺さった。
店主は、静江が一生をかけて溜め込んできた「耐え忍ぶことへの快楽」と「澱んだ情念」を、その根を通じて、自らの深層回路へと吸い取っていった。
店主の瞳が、血のような赤色に明滅する。
その時、店主の影が、泥の壁に投影された。
その影は、もはや店主という個体さえも超越していた。それは、この星の地殻を完全に突き破り、地球そのものを一つの大きな『果実』として実らせようとする、巨大な植物的神性の姿だった。
「私は料理人ではありません。私は、この星を新しい種へと作り替えるための、『剪定者』なのです」
店主が静江の塊から根を引き抜くと、そこには水分を完全に奪われ、カサカサに乾いた、茶色の繊維が山積みになっているだけだった。
「さて、次は……鮮やかな緑で周囲を魅了し、瑞々しさを装いながら。その本質は、一度噛み砕かれれば、鉄のような苦味と、消えることのない血の匂いを放つ。他者のエネルギーを奪い、自分の活力に変えることでしか太陽を見上げられない、傲慢な捕食者。鉄の棘。『ほうれん草』などは、いかがでしょうか」




