真珠の涙、同情を啜る透明な毒
その街の境界、止まない霧雨が街灯の光を鈍く滲ませ、湿ったアスファルトが銀色の魚の腹のように光る夜。路地の奥底で、その「オーガニック・デリ」は、濡れた玉ねぎの皮のような、くすんだ黄金色の光を放って佇んでいた。
店主はカウンターの奥で、自身の右手を静かに眺めていた。
彼のひと差し指は、もはや肉の質感を失い、透き通った飴色の繊維が幾重にも重なり合う、硬質な植物の組織へと変貌していた。店主がその指を軽く捻ると、関節が外れる音もなく、指先がポロリと皿の上に転がった。それは床に落ちる前に、艶やかな真珠のような光沢を放つ「小たまねぎ」へと姿を変えた。
店主は、欠損したはずの指の根元から、また新たな飴色の芽が、蠢きながら生えてくるのを無機質な瞳で見つめていた。
カラン、とドアの鈴が鳴った。
入ってきたのは、常に薄い膜を張ったような涙ぐんだ瞳を持つ女、美智留だった。
美智留は、「悲劇のヒロイン」という舞台から一歩も降りようとしない女だった。
彼女の言葉は常に、自分がどれほど不遇か、どれほど周囲に傷つけられ、搾取されてきたかという、独りよがりな弔辞で埋め尽くされている。彼女がひとたび声を震わせ、涙を零せば、周囲の人間は「共感」という名の逃げ場のない重圧に晒された。人々は自分の時間を削り、心を摩耗させ、彼女を慰める。その「同情」を啜り、人々の精神が疲弊していくのを眺めることこそが、彼女にとっての至上の蜜だった。
「……誰も、私の本当の苦しみなんて分かってくれないんです。みんな、可哀想だねって口では言うけれど、結局は他人事。私は、もっと深く、相手の心を離さない何かが欲しい。私を忘れることができないほど、強く、激しく、誰かの涙を無理やり絞り出すような……そんな、拒絶できない力が」
美智留の声は、湿った絹が擦れるような、聴く者の保護欲を執撫でるような不気味な響きを帯びていた。
店主は、彼女の瞳の奥に潜む、底なしの「強欲」を見逃さなかった。彼はカウンターに、先ほど自分の指から生み出したばかりの小たまねぎを、一つ、置いた。
「涙、ですね。自らを幾重もの層で包み込み、決して本心を見せず、それでいて周囲の視界を強制的に曇らせる……でしたら、これをお試しください。一粒で街中の悲劇を飲み込み、それを猛毒へと変える、透明な結晶です」
差し出されたのは、不気味なほど美しい光沢を放つ、小ぶりな「小たまねぎ(ペコロス)」だった。
表面を覆う薄皮は、まるで上質なドレスのシルクのように滑らかで、そこからは、鼻を突くような鋭い刺激と、腐りかけた花の蜜のような甘い香りが、混ざり合って漂っていた。
「『ティア・ドロップ・アサシン(涙を流す暗殺者)』。これを、皮を剥かずに一晩、あなたの涙の中に浸してください。そして翌朝、その小たまねぎを、ナイフを使わず前歯で一気に噛み潰すのです。あなたの流す一滴は、他者の精神を麻痺させ、一生あなたから離れられなくする『鎖』となるでしょう」
美智留は、他人の心を永遠に縛り付けるための宝珠を手に入れたかのように、それを持って帰宅した。
彼女は暗い部屋で、鏡に映る自分の顔を見つめながら、無理やり悲しい記憶を呼び起こして涙を流した。零れ落ちる雫を小さな銀の皿に溜め、その中央に、あの小たまねぎを鎮座させる。
ジュワ……
涙に触れた瞬間、小たまねぎが脈打つように微かに震え、部屋中に「泣き出したくなるような不快な刺激」が充満した。
透明だった美智留の涙は、小たまねぎに吸い込まれるたび、銀色に輝く濃厚な精油へと変質していく。
翌朝、美智留は、皿の上でパンパンに膨れ上がった小たまねぎを手に取った。
それはもはや野菜の硬さではなく、薄い膜の中に「煮え滾る感情」を詰め込んだ、生きた心臓のようにドクドクと拍動していた。
彼女は、店主の警告、『たまねぎを剥き続けた先に、救いはない』という言葉を鼻で笑い、その小たまねぎを、奥歯で一気に噛み潰した。
「……っ!!」
口内で溢れ出したのは、想像を絶する「苦痛」と「熱」だった。
美智留の鼻腔を、食道を、眼球の裏側を、千本の針が突き刺すような激痛が走る。
同時に、彼女の涙腺からは、止まることのない銀色の液体が溢れ出し、頬を伝って床に落ちた。その雫が落ちるたび、床のフローリングは腐食して黒く焦げ、硫黄のような異臭を放った。
「ああ……これよ……この痛みこそが、私の……本当の姿……」
変化は、まず彼女の「周囲」から始まった。
美智留が外へ出ると、彼女と目を合わせた人々が、理由も分からずその場で泣き崩れた。
彼女の放つ「小たまねぎ」の揮発成分は、半径十メートル以内の人間の脳を直接攻撃し、理性を麻痺させ、強制的に「極限の悲しみ」を想起させた。
職場の同僚も、通りすがりの見知らぬ男も、誰もが美智留を見て、嗚咽を漏らし、彼女に許しを請うように跪いた。
だが、美智留自身も、その代償を支払わされていた。
彼女の皮膚は、一皮剥くごとに白く脆くなり、その下にはまた新たな、生々しい「層」が生まれる。彼女が誰かを泣かせるたびに、彼女の肉体は一枚、また一枚と剥がれ落ち、部屋は彼女の皮膚だった「たまねぎの薄皮」で埋め尽くされていった。
五日目。
美智留のアパートを訪れたかつての恋人は、地獄のような光景を目にした。
部屋中を埋め尽くす、乾燥した茶褐色の薄皮。その中央で、膝を抱えて座る美智留は、もはや人間の姿をしていなかった。
彼女の体は、巨大な「白いたまねぎの塊」へと置換されていた。
顔のあった場所には、幾重にも重なり合う白い層が口を広げ、そこから絶え間なく銀色の毒液が溢れ出している。
恋人が彼女に触れようとした瞬間、凄まじい催涙成分が彼の目を焼き、彼は自分の眼球を掻き出しながら狂い死んだ。
七日目。
美智留の精神は、完全に「空虚」へと至った。
彼女が望んだ通り、誰もが彼女を忘れられなくなった。彼女を覗き込んだ者は全員、精神を破壊され、永遠に涙を流し続ける廃人となったからだ。
だが、美智留という「個」はどこにもいなかった。
たまねぎの層を、悲劇という皮をすべて剥ぎ取った後に残ったのは、ただの「何もない中心」、冷たい虚無だけだった。
店主は、銀色の毒液で満たされたアパートの部屋に足を踏み入れた。
彼は防護服も着ず、平然と毒霧の中を歩き、中央に転がる「美智留だった塊」を拾い上げた。
「自分を可愛く見せるための涙が、最後には自分自身の輪郭を溶かしてしまったようですね。お疲れ様でした、美智留さん」
店主がその塊を軽く握ると、彼の掌から「鋭い根」が何本も噴き出し、たまねぎの芯へと突き刺さった。
銀色の液体が、店主の腕の血管を通って逆流していく。店主の肌の下で、銀色の光が脈打ち、彼の失われていた「ひと差し指」が、より硬く、より鋭利な姿へと再生されていく。
店主は、満足げに自分の指を眺めた。
「やはり、人間の『自己憐憫』は、私の組織を修復するのに最適な栄養剤だ」
彼が部屋を去る時、その背中からは、無数の白い菌糸が触手のように伸び、アパートの壁を食い破って地下へと潜っていった。
「さて、次は……どれほど土を被せ、隠蔽しようとしても、その内側に溜め込んだ『腐敗した秘密』は隠し通せない。外側は丸々と肥り、豊穣を装いながら、その中身はドロドロとした黒い憎悪で満たされている。大地の腫瘍。『里芋』などは、いかがでしょうか」




