指先に、あわい緑の静寂を
その店は、路地裏の湿った影に溶け込むようにして佇んでいた。看板はない。ただ、入り口に置かれた古びた木箱に、泥を落としたばかりのような鮮やかな野菜が並んでいるだけだ。
ピアニストを目指す青年、佐倉は、その日、絶望の淵にいた。
「君の演奏は正確だ。だが、物理的な限界がある。指が短すぎるんだよ。ショパンのあの難所を、今の君の手で完璧に捉えるのは……残酷だが、不可能だ」
恩師の言葉が、耳の奥で腐った泥のように居座っている。
自分の才能の限界ではなく、身体の構造そのものに拒絶されたという事実。佐倉は無意識に自分の両手を見つめた。白く、細いが、確かに鍵盤の端に届くには数センチ、足りない。
「……何か、お探しですか」
不意に声をかけられ、佐倉は顔を上げた。
店の中から現れたのは、深緑色のエプロンをつけた、表情の読み取れない男だった。男の肌は妙に艶があり、どことなく土の匂いがする。
「あ、いや……」
「指、ですね。もう少し……あと、三センチほどでしょうか。しなやかに、真っ直ぐに伸びる力が必要だ」
心臓が跳ねた。なぜ、初対面の男にそれを見抜かれたのか。男は佐倉の答えを待たず、店の奥から一本の野菜を取り出してきた。
それは、アスパラガスだった。
しかし、佐倉が知っているそれとは、明らかに異質だった。長さは三十センチを超え、茎は恐ろしいほどに瑞々しく、先端の穂先はまるで宝石を散りばめたように繊細な鱗片で覆われている。
「これは『カストル・グリーン』。非常に成長が早く、強い直進性を持っています。これを、生のまま、ゆっくりと消化してください。あなたの指は、あなたが望む場所へ届くようになる」
佐倉は、吸い寄せられるようにそのアスパラガスを受け取った。代金を払おうとしたが、男は首を振った。
「成果が出た後に、あなたの『最高の演奏』を聴かせていただければ、それで十分です」
と。
その晩。佐倉は自室のピアノの前で、渡されたアスパラガスを口にした。
齧った瞬間、耳の奥でシャキリと、鮮烈な音が鳴った。溢れ出した水分は、驚くほど青臭く、同時に、大地そのものを飲み込んでいるような猛烈な生命力に満ちていた。
一本を食べ終える頃には、胃のあたりから不思議な熱が指先に向かって流れ出していくのを感じた。
変化が起きたのは、翌朝だった。
目が覚めると、右手の薬指に、微かな違和感があった。
痛みはない。ただ、指先がひどく瑞々しい。鏡を見ると、爪の生え際がわずかに淡い緑色に透けていた。そして驚くべきことに、昨日まで届かなかった鍵盤の幅に、指が軽々と届いているのだ。
「……伸びている?」
佐倉はピアノに向かった。
ポーンと、一音を鳴らす。
指先が鍵盤に触れた感触が、今までと違う。吸い付くような、それでいて反発するような、植物特有の弾力。
彼は夢中で弾き始めた。難攻不落だったフレーズが、嘘のように滑らかに指の下を通り過ぎていく。指が一本、また一本と、ゆっくりと、確実に「成長」していくのがわかった。
数日が過ぎた。
佐倉の変容は、もはや無視できない段階に達していた。
指は以前の倍の長さになり、関節の節々は、アスパラガスのあの独特な鱗片のような硬い皮に覆われ始めている。爪はすでに退化し、代わりに先端は尖った穂先のような形に整っていた。
服を着るのにも苦労し、ペンを握ることもできない。だが、ピアノを弾くときだけは、彼は神になれた。
しかし、代償は静かに、皮膚の下を浸食していた。
喉が渇く。いくら水を飲んでも足りない。
身体が、太陽の光を異常なほど欲するようになる。
そして、何よりも恐ろしいのは、ピアノを弾いていない時間の「静寂」だった。
指先から、ピシッ、ピシッという、植物が成長する際に立てる微かな音が聞こえるのだ。それは、彼自身の骨が、アスパラガスの繊維へと作り変えられていく音だった。
一週間後の夜。佐倉は、路地裏の店主との約束を果たすべく、無人のコンサートホールにいた。
月明かりがステージを照らす。
佐倉の手は、もはや人間のそれではない。十本の長い、瑞々しい「茎」が、手首から伸びている。皮膚の下には、血管の代わりに緑色の導管が走り、ドロリとした青臭い汁が全身を巡っている。
彼は椅子に座り、最後の一曲……ショパンの「幻想即興曲」を弾き始めた。
それは、この世のものとは思えない演奏だった。
長い指が、複雑な和音を完全に支配する。鍵盤を叩くたびに、穂先から香気が立ち上る。指はもはや、佐倉の意志を超えて、独自の生命体として舞っていた。
最高潮に達した時、佐倉は恍惚の中で叫んだ。
「これだ……これが、僕の求めていた……!」
その瞬間だった。
最後の一音、力強く低音の鍵盤を叩きつけたまま、彼の指は動かなくなった。
いや、動かないのではない。
指の先端から、細い、しかし強靭な「根」が幾千も噴き出し、ピアノの内部、弦と木材の隙間へと深く、深く潜り込んでいったのだ。
「あ、ああ……」
逃れようとしても、もう遅い。
指先から始まった緑の侵食は、手首を越え、肘を越え、肩へと這い上がっていく。
彼の皮膚は、急速に硬い繊維質の皮へと変わり、体内の水分はすべて土へと還るための養分となった。
翌朝。
管理人がホールに入ると、そこには誰もいなかった。
ただ、ステージ中央のグランドピアノに、見たこともないほど巨大で美しい「アスパラガスの群生」が、鍵盤を食い破るようにして根を張り、朝日を浴びて静かに揺れていた。
その穂先には、かつてピアニストが流した、一粒の涙のような露が光っていた。
路地裏の店では、店主が満足そうに、新しい野菜の種を袋に詰めている。
「次は……そうですね。目の眩むような、真っ赤なトマトにしましょうか」




