800メートル走の余熱
和美は、体育の授業にある「800メートル走」という種目を、心の底から疎んでいた。この世にあれを好む人間など一人も存在しないと、彼女は固く信じている。
何より嫌なのは、容赦なく吹き出す汗だった。
粘りつくような不快感もさることながら、自分の体から放たれる汗の臭いが、周囲にじわじわと広がっていくような気がしてならないのだ。
「……ふぅ」
授業後の女子更衣室。和美は隅の方で、制汗デオドラントスプレーをこれでもかと肌に吹き付けていた。白く煙るほど多めに使うことで、ようやく自分の「女の体」から立ち上る熱を、無理やり封じ込められる気がした。
そこへ、背後からふわりと柔らかな重みが重なった。
「更衣室で……あー、もうダメだぁ。和美、おんぶして……」
クラスメイトの結愛だった。走り終えた疲れからか、甘えるように和美の背中にくっついてくる。
「ちょっと、結愛! 私、汗臭いからやめてってば」
和美は慌てて身をよじったが、結愛は離れようとしない。それどころか、和美の肩に顔を埋めてクスクスと笑った。
「全然、臭くないよ。それよりスプレーのいい匂いがする。それに、みんな大汗かかされたんだから、条件はおんなじだってば」
「そうそう。和美って、ほんと恥ずかしがり屋さんだよね」
着替えをしていた他の女子たちも、面白がって会話に混ざってくる。
「わかる。和美、けっこうな頻度で顔が赤くなってるもんね。今もだよ?」
「っ……、それは、走った後なんだから当たり前でしょ」
図星を突かれ、和美の頬にさらに熱が引火する。
自分がどんな顔をしているか、鏡を見なくてもわかる。火照った体と、執拗に意識してしまう「女子同士の距離感」。かつての自分には無縁だった、この気恥ずかしさがたまらなく落ち着かなかった。
和美を肴にして、更衣室の空気が華やいでいく。
いじられるたびに赤くなって俯く和美の姿は、彼女たちの目には、いかにも年頃の少女らしい可愛らしさに映っているようだった。
「はい、おしゃべりはそこまで! 早くしないと次の授業に間に合わないよ」
鋭く通る声が、浮き立った空気を引き締めた。学級委員の美咲だ。
彼女がピシャリと制したことで、女子特有の密度の高いじゃれ合いは、潮が引くように終わりを告げた。
「……助かった」
和美は小さく息を吐き、急いで制服のブラウスに袖を通す。
美咲の規律正しさに感謝しながらも、鏡に映る自分の顔がなかなか元の色に戻らないことに、和美は人知れず困惑していた。




