死ねない呪い
「私は、死ぬことができないの」
カーテンを閉めきった四畳半ほどの狭いアトリエで、灯りはテーブルに置かれたリンゴみたいな丸い蝋燭が一つだけ。その小さな炎に照らされて、青みゆきの影が揺れていた。
僕は、胸の奥に冷たいものと熱いものが一緒に落ちてきたような、うまく言葉にできない感情に包まれていた。恐怖なのか、性的興奮なのか、あるいはその中間あたりの。
「死ねないって……どういう意味です?」
間抜けな質問だと自分でも思う。けれど、他に言葉が浮かばなかった。
「呪いよ。そういう呪いにかかってるの」
普段ならここで何かを察して逃げ帰っていただろう。彼女がどれだけ美しかろうと、まともな判断力があるなら距離を置くべき相手だった。でも、今回はそうはいかない。
「その代わりにね、この力を授かったのよ」
青は切れ長の目を伏せてペインティングナイフをとると、イーゼルに掛けられたキャンバスに大胆に滑らせた。
そこには若い男の肖像があった。油彩で、その質感はまるで過去からそのまま切り取ってきたかのようにリアルだった。蝋燭の灯りだけの薄暗い部屋で、絵の中の男の黒目がちな瞳は絵の中で濡れたように煌めいていた。
「それでは今から、この人を殺します」
青はそう言うと、ナイフで鮮血のように赤い絵の具を掬った──。
◇
「呪いの儀式は人類の歴史が始まった時から存在したと思うよ。丑の刻参りや、不幸の手紙とか、恋を成就させるおまじないだって呪いの一種だ。呪いは『まじない』とも読むしな。時代によって形を変えながら脈々と続いている。人間の歴史は恨みの歴史だよ」
成瀬はAランチの唐揚げを頬張りながら言った。
僕らは大学の学食の、いつものたまり場で昼食を食べていた。窓の外では、雨が降っている。中庭の芝が濡れて、鈍く光っていた。
「彼女は『自分が呪われてる』って言ってたよ。『死ねない呪い』らしい」
「いいじゃん。不老不死」
成瀬はまったく動じない。
成瀬幾九。大学の同期で同じサークルメンバーでもある。瘦せ型、黒髪に黒目勝ちの瞳、初対面の印象は『狡猾なカラス』だった。自称霊能力持ちだが、過去のある事件以降、僕はそれが嘘だと確信していた。世の中にこんな変な人間は、そう多くはないはずだけど、僕の周りにはやけに多い。このままいくと、いつか自分も普通の世界からはみ出すんじゃないか。……いや、もう片足は突っ込んでいる。そんな気がしていた。
「で、俺はどう殺されるんだ? ちゃんとイケメンに描いてあったか?」
成瀬は笑いながら訊く。
「写真のような精密な絵を描いて、同じくらいの時間をかけてゆっくり殺していくらしい。直接の死因は分からないよ」
「なるほど、九相図みたいなもんか。洒落てる」
九相図とは、死体が朽ちていく様子を描いた仏教絵画だ。鳥や獣に食われ、腐り、微生物に分解されて、最後は骨になる。もし、そこまで丁寧に描いていくのだとしたら、たしかに儀式っぽい。効果がありそうな気がしてくる。
「……体は、何ともないのか」
「あるわけないだろ。お前、まさか本気で信じてるのかよ、呪い」
成瀬は笑い飛ばす。少しでも心配した自分を呪ってやりたくなってくる。
そもそも、事の発端は、成瀬の言葉からだった。
「活動の邪魔をしてる奴がいる。調査するから、手を貸してくれ」
それはある噂の検証だった。若い女子の間で流行っている『当たる占い師』──その裏の顔が『呪いの代行者』だというのだ。呪われた人が実際に死んだとか、眉唾な話。馬鹿馬鹿しいと思ったが、過去のことで成瀬に借りがあった僕はしぶしぶ承知した。
成瀬はすでに、占い師の連絡先を突き止めていた。裏に依頼に必要なのは、呪いたい相手の『鮮明な写真』と『体の一部』。それから、どんな結果になっても『一切口外しないこと』と『二度と占い師の前に現れないこと』という条件を飲むことだった。
「口外禁止なのに噂になるのか?」とツッコミを入れたが、「その条件は逆に噂を広めるために付与するんだよ」と当然のように返された。「まあまあ大変だったよ、手当たり次第に女子高生に話しかけてたから、職質されまくった」と、成瀬は笑っていて、僕は心底、呆れた。
その後、僕は成瀬に、三万円と、小さなビニールパックに入った髪の毛、それにキメ顔の自撮り写真が入った封筒を渡され、占い師『青みゆき』に会うことになってしまったというわけだ。
喫茶店に現れた彼女は、美大生であると自己紹介した。二十代だろう、思ってたよりも若くて驚いた。切れ長の目と長い黒髪。古風な花柄のワンピースを着た、悲しげな顔立ちの美女だった。
成瀬の“生きている絵”が完成するまで、二週間かかった。本来なら、その次の工程を依頼者に見せるのはタブーらしい。けれど成瀬に「ダメ元でいいから、頼んでみて」と食い下がられ、恐る恐る打診してみたところ、あっさりOKが出た。
こうして僕は、儀式の見学者になった。
完成した絵は、想像以上にリアルだった。本物の成瀬が閉じ込められているような感覚さえあった。だが、“殺す”段階が始まった途端、耐え難い嫌悪感に襲われた。情けない話だけど、吐き気をこらえながら、しどろもどろの言い訳を並べて、青のアトリエを逃げ出した。それが数日前の話だ。
「……でもさ、成瀬。なんで“自分”を呪わせる必要があったんだ?」
僕はランチを食べ終えて、プラスティックの湯飲みからお茶をすすった。
「それはこれから分かる。じゃあ、行くか」
「行くって……どこへ?」
「決まってるだろ。青みゆきに会いに行くんだよ」
◇
『二度と占い師の前には現れないこと』という条件を、あっさり破るハメになった。状況がよく分からないまま、僕は成瀬に連れられて喫茶店へ来ていた。青みゆきに仕事を依頼した店だ。昼のピークを過ぎて、店内は午後の静けさに包まれている。窓際の席に腰を下ろすと、成瀬はさっさとアイスコーヒーを三つ頼んだ。
「青さんには、君の名前で連絡してある」
「いや、ちょっと待て。何をどう連絡したんだよ」
「まあまあ、焦るな。『呪いが効かないから金返せ』って送っただけだから」
「は? そんなのブロックして終わりだろ。なんで来る前提なんだよ」
「大丈夫、きっと来るさ」
成瀬は自信ありげに笑った。この笑顔に理屈では片づけられない何かを感じてしまう。
銀のトレイに乗ったアイスコーヒーが三つ運ばれてきた。僕は手をつけず、汗をかくグラスの曇りをじっと眺めていた。客はまばらで、会話もどこか控えめだった。窓の外では、曇天を背景に鳩が歩き、信号機が「とおりゃんせ」のメロディで歩行者を急かしている。成瀬は黙ったまま、ストローをかすかに鳴らしてコーヒーを一口飲む。
落ち着かなかった。あの日、青のアトリエで見た驚くほどリアルな成瀬の絵が、赤い絵の具で塗りつぶされていくイメージが頭の奥でじわじわと膨らんでいた。
「……やっぱり、来ないんじゃないか」と口にしかけたとき、
カランコロンと鳴る入口ドアに、彼女は現れた。
つばの広い帽子にサングラス。あの日と同じ花柄のワンピースを着ていたのですぐに分かった。彼女は店員に一言二言話すと、まっすぐこちらをテーブルへ向かってくる。成瀬の顔を見た瞬間、わずかに表情をこわばらせたが、すぐに隠した。
「どうぞ、座ってください」
成瀬は立ち上がり、僕の隣へ移動した。青みゆきは、向かいの椅子に静かに身を沈めた。サングラスを外してバッグにしまったが、長い髪の影に、表情のほとんどは隠れていた。
「初めまして。成瀬です。俺の顔、覚えてますよね?」
青みゆきはわずかに目を細め、「成瀬……」と呟いたきり、黙り込んだ。成瀬は少し間を置いて続ける。
「なぜ、呪いなんてこと、やってるんですか」
直球の質問だった。空気が変わる。青みゆきは視線を泳がせてから僕を見た。怒りでも困惑でもない、もっと深い戸惑いのような表情だった。
「これはどういうことなんですか。説明してください」
抑えてはいたが、声が震えていた。視線が、意図的に成瀬を無視している。困惑が瞳の奥の光で分かった。
「いや、その……すみません。僕も、よくわかってないっていうか……」
思わず謝ってしまった。成瀬がすかさず口を挟む。
「呪いなんて、ないんですよ」
静かだが、はっきりと断言する声だった。
「ありますよ」
「いや、ないです」
成瀬は動じない。
「俺は元気ですよ。あなたの呪いが本物なら、とっくに死んでるはずでしょ」
「私は、あなたを確実に殺しています。効果が表れるのはこれからですよ」
「あなたには、そんな力はないです。だから『自分の呪い』も解けないんだ」
その一言に、青みゆきの目が見開かれた。怒りと悲しみとが入り混じっているような揺れが浮かぶ。
「俺が解いてあげますよ。あなたの『死ねない呪い』を」
成瀬は一歩も引かなかった。相手が呪いを操る女だとしても、怯える気配すら見せない。
「ちょ、ちょっと待てよ、成瀬。いい加減に何をしたいのか説明してくれ」
唇をきっと噛んで、目を潤ませている青みゆきの表情にたじろぎ、僕は声が裏返っていた。成瀬はゆっくりとうなずく。
「青さん。あなたが描かれている絵は、まだ持っていますか?」
その問いに、彼女はぴくりと反応した。
「……え、なんで、それを……」
「やっぱりあるんですね。『青さんの肖像画』……が。じゃあ、俺の顔を見て、何か気づきませんか?」
青みゆきは成瀬を見つめ、しばし沈黙したが、やがて、はっと息を飲む。
「あなた……成瀬。なるほどね。似ていると思ったわ」
二人のやり取りを聞きながら、僕は完全に蚊帳の外だった。理解が追いつかず、犬のように顔を左右に振って、二人の表情を交互に見つめることしかできなかった。
「悪い悪い。説明するよ」
成瀬はわざとらしく肩の力を抜いて、残っていたアイスコーヒーを一気に飲んでから話し始めた。
「憎い相手を絵に描いて、そして、絵の中で殺す。それがこの呪いの儀式だったな」
「……うん」
「もし途中で“殺すのをやめてしまったら”どうなると思う?」
「え……。未完成だから、何も起こらないんじゃないか?」
「本当にそうかな。時間をかけて、愛情を込めて丁寧に描いた絵には『命』が宿る。だからこそ『殺せる』んだ。逆に言えば、ちゃんと殺してやらないと、その命は絵の中で生き続ける。永遠に『囚われたまま』になる」
背筋が冷たくなった。
あの夜、アトリエで見た男の肖像画。リアルな瞳の不気味な光が脳裏に鮮明に蘇る。
「……だから、『死ねない呪い』ってわけか! 待てよ、ってことは、青さん自身もこの呪いを受けたってことか!?」
「そう、兄貴にね。俺の」
その言葉を聞いた瞬間、青みゆきは嗚咽を漏らし、テーブルに顔を伏せた。
「……成瀬、兄がいたのか」
「もういないよ。行方不明になって何年も経つ。生きてるのかどうかも分からない」
僕は混乱した。泣き崩れる青みゆきと、淡々と語る成瀬。情報の波が頭に押し寄せて、理解が追いつかなかった。
「呪いの絵の噂を聞いて、もしかしたら、と思ったよ。兄貴が昔、呪いを『証明する』ために考えた手法だったからな。占い師が女だって聞いたときはガッカリしたけど、君に調査を頼んで正解だったよ。やっぱり、兄貴の置き土産だったんだな」
青みゆきは顔を上げ、ハンカチで濡れた頬を押さえた。息を整えから口を開いた。
「あの人が、人を傷つけるために絵を描いていたなんて……信じたくなかった。でも、本当に死んじゃったのよ、描かれた人が、二人も……。そして、あの人も姿を消したの」
彼女は、成瀬の兄を愛していた。描かれることを、好意の証だと信じていた。けれど、血に染まった自分の肖像を見つけたとき、その幻想は音を立てて崩れ落ちた。
「兄貴はそういう人間だったよ。悪意とか、邪悪とか、何か得体のしれない禍々しいもの。そのものだった」
成瀬は何の感情も乗せずにサラサラと語った。
「でも、どうして青さんは、そんな呪いの儀式を引き継ぐようなことをしたんですか? 自分の呪いを解くためですか……?」
僕の問いかけに、青みゆきは、ハンカチを握りしめたまま、視線を落とした。
「……帰ってきてほしかったの」
◇
数日後、僕と成瀬は、学食のいつもの溜まり場で、だらけた時間を過ごしていた。久しぶりに空は晴れて、窓から見える中庭の芝生の上で学生が寝ころんでいる。
あれから、青みゆきは、占いも、あの“裏の稼業”からも足を洗ったようだった。成瀬の兄からは、結局なんの音沙汰もなかったらしい。
「なあ、成瀬。お前さ、青さんの呪いを解いてやるって言ってたよな」
「ああ、解いたよ」
「どうやってだよ。絵を完成させたら呪いで死ぬんだろ? お焚き上げでもしてもらったのか?」
「いやいや、だからさ、呪いなんてないって最初から言ってんだろ。気持ちの持ちようだよ。そもそも『死ねない』なんて、死んでみなきゃわからないだろ。せいぜい、おまじない程度よ」
言われてみれば、確かにそうだ。青さんは儀式をやめた時点で、もう呪縛から解放されていたのかもしれない。
「そりゃそうか。ていうか、青さんに殺されたはずの成瀬が、こんだけ元気なのが証拠だよな」
「あー、あれは俺じゃないよ」
「……は?」
「青みゆきが呪った相手、俺じゃないって言ったの」
「いや、でも、成瀬の写真と、髪の毛も、僕は確かに青さんに渡したぞ」
嫌な予感がした。
「あの写真は兄貴の若い頃のだし、髪の毛も兄貴のだよ」
自分の兄を悪魔のように語ったときと同じように、何の感情も感じなかった。
「だからもし呪いが本物なら、今頃、兄貴はあの世行きってことだな」
まるでジョークの一つでも披露したかのように語る成瀬に、僕は背筋が冷たくなるのを感じた。その軽快な笑顔の内側に、どこまでも深い淵があるような気がした。
僕が言葉を失っているのもお構いなしに、成瀬は軽く伸びをして、
「もし生きてても、いつか俺が殺すけどね」と笑った。




