掻痒 ─ そのいつか
高速に乗ってから、しばらく無言が続いていた。助手席の星がちらりと真山を窺う。息をのむ音がやけに大きく聞こえ、何かを言いかけてやめたのが、真山にははっきりと分かった。躊躇の理由は、今回の出張の意味を測りかねているからだけではないだろう。
工場での異物混入は珍しいことではない。ラインチェック段階で発覚し、書類上は小さなミスとして処理された。現地対応もすでに済んでおり、本来なら本社の人間が動くほどの案件ではない。それでも真山は「念のため現地も確認したい」と申し出て、部下の星を連れて社用車に乗り込んだ。また、あの妙な勘が働いていた──誰かの故意を感じたのだ。
星は入社三年目。よく動き、人当たりもよく、気も回る。優等生という言葉すら霞むほどに、人間ができていた。若さというハンデを背負ってなお、周囲からの信頼を得ていた。そんな星に、なぜか真山は羨望の眼差しを向けられていた。「真山さんと一緒に働けるなんて光栄です」──そんな歯の浮くようなセリフまで浴びせられ、真山は皮肉を疑っていた。
「……新幹線でもよかったんじゃないですかね」
ようやく星が口を開く。真山の判断を批判したのではなく、逆に気を使っている口ぶりだった。
「片道四時間くらいですか。真山さんまで経費を気にする必要はないと思いますけど」
「こっちから無理を言ったしな」
真山は前方から視線を外さずに答えた。
「それに、お前も運転に慣れておいた方がいい。免許取ってから、あまり運転してないだろ。帰りは任せるからな」
「はい……」
沈黙が戻る。カーラジオから天気予報が流れていた。午後から雨になるらしい。
「……あの、真山さん」
少し間を置いて、星が切り出した。
「ちょうどいい機会なので、相談というか、報告があるんですけど」
「なんだ?」
真山は、わずかに車の速度を落とした。
「退職、したいんです」
「そうか」
「そうかって……理由は、聞かないんですか?」
「言ってもいいぞ」
「じゃあ言います。聞いてください」
星は喉を鳴らして声を整えた。
「僕、将来的には人と直接向き合える仕事がしたくて……現場がいいんです。今の部署って、裏方で、人の“悪い部分”ばかり見るじゃないですか。だから、もっと前向きな場所で頑張りたいなって」
口調は丁寧で誠実だった。まるで、声色や息の使い方まで練習してきたように聞こえた。
「ありきたりな理由だな。監査部は嫌われる。グループ内の子会社対応だって、外部のクレーム処理と同じようなもんだ」
そう言って真山は右手でエアコンの温度をひとつ下げた。吐き出された冷気が膝を撫ぜる。会話が途切れてからしばらくの間は、カーラジオから流れる流行りの曲と、タイヤがアスファルトこする音だけが車内を通り過ぎていた。フロントガラスに最初の雨粒が落ちてすぐに飛ばされていく。天気予報が外れたと真山は思ったが、移動距離を考えれば、どこかで雨に遭うのは当然だった。
星は窓の外に流れていく曇り空と田んぼの景色をじっと見ていた。
「この辺、地元に似てるな……」
ぽつりと星が言った。
「真山さん、僕、茨城なんです。田んぼとコンビニしかないようなとこで、母子家庭で育ちました。昔のこと、あんまり話したことなかったですよね」
真山は片手でハンドルを握りながら、黙って耳を傾けていた。星は言葉を選ぶように、少しずつ続けた。
「母はよく鼻歌を歌う人でした。父と離婚して狭いアパートに引っ越して……。子供の頃、台所に立つ母の背中越しに、いつも明るい歌が聞こえてました」
「退職したらお母さんが悲しむんじゃないか」
「すぐに次を見つけますよ。それにきっと、誰かを疑うような仕事はやってほしくないと母も思うはずです」
「おい、少しは遠慮して話せよ。俺は続けるんだぜ」
星は笑って謝ったが、その目元にかすかな寂しさがにじんだ。
「僕が大学受験に失敗したときに、ぽろっと母が言ったんです。『つらいときは歌を歌え』って。楽しくなるからって。その瞬間、子供の頃を思い出したんですよ。台所でいつも楽しそうに歌ってた母の背中を」
星は決意したように大きく息を吸って、吐いた。
「一人で僕を育てるのは、大変だったはずです。本当はずっとつらくて苦しかったんです。僕は大人になってからやっと気がつきました。誰かの嘘を責めるんじゃなくて、その奥の理由に寄り添いたいんです」
……嘘。内部監査は、ある意味で嘘を暴く仕事だ。今こうやって、工場に向かっているのだってそのためだ。真山はその点で才能を発揮していた。他人を疑い、嘘を見抜いて、監査部の部長にまでになった。
「大学の同期に嘘を見抜くのが上手いやつがいてさ、変わったヤツだったんだが、何度もそいつに助けられたんだ」
真山の気さくな言葉に、星は、自分の告白がはぐらかされたように感じて「はぁ、そうなんですか」とだけ答えた。真山はそのまま話を続ける。
「最初の事件は、俺の身体の異常だった。変な話なんだけど、自分の身体以外の“モノ”が痒くなった時期があったんだよ」
「身体以外のもの……?」
「そうだ。悪夢を見ては身体を掻きむしって目覚めるんだ。でもどこが痒いのかわからないんだよ。そういうことあるだろ? そしてある日、ついに“痒い場所”を見つけたんだよ。ケータイだった」
「け、ケータイ、ですか?」
「そう。まだスマホ持ってなかったしな」
星は冗談を言われているのか判断がつかず、「はは」と中途半端に笑った。
「ちょうどその頃、俺は大学で、まあ、少し変わった女に付きまとわれてた。妙に影のある不気味な人でさ。講義中も、駅のホームでも、同じ空間にいることが多かった。気のせいかと思ってたけど、非通知の着信が増え始めて、それで確信した」
「ストーカーですか」
「そうなるな。しかもその女のあだ名は『魔女』だった。大学生にもなってスピリチュアルなことに傾倒してるみたいでさ。そこで成瀬に相談したんだよ。あ、成瀬ってのはその嘘を見抜くのが上手い変人な。毒をもって毒を制すってやつだ。『お前、それは呪われてるぞ、呪い返しすれば治るから任せろ』なんて言われて、任せたよ」
「呪いって……。で、治ったんですか?」
「まあ結果的には治ったな」
「どうやったんですか?」
「まずは俺の身辺調査から始まった。狭いアパートをひっくり返されたよ。そして、ポストから妙な紙切れを見つけた。高級そうな和紙に赤黒い毛筆で描かれた“目”の絵だった」
「うわ、気持ち悪いですね」
「だろ? 成瀬は得意げに『やっぱりあったか、これは監視の呪いだよ』とか言って、大事そうに持ち帰ったよ。俺はまだ半信半疑だったけど、なんでもいいからこの痒みを止めてほしかった」
「それでどうしたんですか」
「成瀬は『ケータイはいつでもお前のそばにあるだろ、それがあの女の目的だ。だから隔離して除霊する』と言って、俺のケータイを取り上げたよ。灰とか塩とか、よくわからないものと一緒に箱に入れて鍵をかけやがった」
「大丈夫だったんですか?」
「最初の数日は地獄だったよ。痒いのに掻けないんだぞ。でも時間とともに、痒みも悪夢もすっかりなくなった。その後にケータイを返してもらってからも症状は出なかったな」
「成瀬さんは、呪いを解いたってことですか」
「そう言ってたな。どちらにしろ、痒みは治まった。まあ、『魔女』とはその後にまた一悶着あるんだけどな」
真山が話し終わると、雨が車を打つ音が強くなっていた。
「少し休憩するか」
そう言うと、真山はウインカーを出し、パーキングエリアへと車を滑らせた。
◇
パーキングエリアのカフェは、昼過ぎにしては静かだった。客はまばらで、どのテーブルにも距離がある。テラス席には雨よけの屋根がついていて、そこから細い雨の筋が風に吹かれて斜めに流れていた。
星はコーヒーを口に運びながら、考え込んでいた。
「……真山さんは、なぜあの話を今、僕にしたんですか」
真山は嬉しそうに目を細めた。
「なぜだろうな。急にあいつを、成瀬を思い出したんだ。お前が『嘘の奥の理由に寄り添いたい』なんて言ったからかな。実はこの話にも、嘘があるんだ」
「え?」
「見破ってみろよ。お前にできるかどうか試したくなったのかもしれん」
そう言って、真山はコーヒーを一口すする。星は黙った。紙ナプキンに指先で触れながら、眉間にしわを寄せる。
「嘘……」
星は改めて、真山の語った話をなぞりはじめた。
「成瀬さんは『呪われている』と言った。そして、除霊と称してケータイを取り上げた──」
星の表情が引き締まる。
「ケータイを手放したことで症状が緩和したんですよね」
「そうだな」
「つまり、ケータイを隔離した“物理的な行動”が治癒に作用したんじゃないですか」
「なるほど」
「本当に呪いなんてあったんでしょうか」
「ふむ」
真山の表情が優しく緩んだ。目の奥に郷愁のような輝きが宿る。
「僕もスマホを触らずにいると、そわそわして落ち着かなくなるときがあります。気がつけば通知もないのに手に取ってる。……それって、中毒とか依存の類ですよね」
「……」
「真山さんの痒みって、もしかしたら“依存症の症状”じゃなかったんですか? ケータイが身体の延長みたいになって、自分と一体化してたから、あたかも感覚があるかのように感じられた。成瀬さんはそこに気づいて、“ケータイを隔離”した」
真山は何も言わなかった。指先でコーヒーカップを回していたが、すぐに止めた。
「俺はずっと、あれは呪いだと思ってたよ」
「本当に?」
「さあな。そう思いたかったのかもしれない。ストーカーのせいにすれば、自分と向き合わなくてすむからな。お前の言う通りだよ。成瀬は全部わかったうえで俺の話に乗ったんだろうな。今ならわかるよ。ヤツは俺の心の弱さを嗅ぎつけて、それをあえて指摘することなく、呪いだと決めつけて、安心させた。さらには、実際に治るように仕向けたんだ」
「すごいですね。成瀬さんも」
「恐ろしいほどに人の心を見透かすヤツだったよ。でも、俺は、その優しさに、嘘に、救われた」
「いや、でも、今はその嘘を暴くような仕事をしているじゃないですか。僕はそれが嫌だから──」
「そうだ。俺は嘘に救われたが、同時に嘘を必要としてしまったんだよ」
真山は星の言葉を遮った。
「矛盾してます。それも嘘ですか? 僕は真山さんを尊敬していました。他人に迎合せずに、媚びずに孤高だった。だから、誰も見抜けなかった巧妙な粉飾も見破れたんだと思ってました。でも僕は、真山さんの出した“結果”に憧れていただけなのかもしれません。真山さんは自分の内面を隠していることを認めたくないから、他人の嘘に敏感なんだ。僕は……そうなりたくない」
「……お前は、俺に似てるよ」
星は何も言い返さなかった。ただ、悲しそうに真山を見ていた。
◇
雨はさらに強くなっていた。濡れたアスファルトにヘッドライトの光が滲む。再び走りだした車内に、重い沈黙が居座っていた。星は何かを考えこんでいたが、ふぅと溜息をついて、こぼすように呟いた。
「もしかしたら、誰かの嘘に寄り添うことは、その人に嘘を強いることなのかもしれません」
「星、お前は優しいよ」
「そうでもないですよ。僕も……母親の嘘を利用していました」
「浮気した父親の話、だろ?」
星は目を見開いて、真山を見た。
「知ってたんですか? 誰にも話してないのに」
「お前さ、母親の鼻歌の話をしたとき、『大人になってから気づいた』と言ったよな。あれ嘘だろ? 実際は当時から、“子供の頃から”気づいてたんだ」
星の目元が揺れた。車のワイパーが、濁った雨粒を力任せに弾き飛ばす。世界は一瞬だけ曖昧になって、またすぐ本当の姿を現した。
「……やっぱ、真山さんはすごいや。そうですよ、子供の頃から、僕は母さんの嘘に気づいていました。父がいなくなった理由も、わかってました。でもどうして浮気ってわかったんですか?」
「親が離婚する理由なんてそんなに多くない。ずっと苦しかったなら、金じゃない。心に傷がつくなら、死別か浮気だ。離婚なら死んでない。だから浮気だ」
星は感嘆にも似た溜息をついた。
「言葉もないです。僕は、怒る理由も、悲しむ理由も、疑う理由も全部捨てて、“知らなかったこと”にしました。そうやって母さんの嘘に寄り添ってあげれば、傷が癒えると思ってました」
「それも嘘だ。『寄り添った』なんて、きれいな言葉を使うなよ」
真山の声には責める響きはない。ただ、真っすぐだった。
「お前は逃げたんだよ。嘘に気づいたのに、そのままにしておいた。それは、怖かったからだろ。たまらなく嫌だったんだよ。“自分がみじめになる”のがな」
星は反射的に真山を睨んだが、すぐにそれを隠す。
「真山さん、やっぱり僕、あなたと一緒には働けません」
「何言ってる。これからようやく、一緒に働ける」
真山は、前だけを見ていた。高速を降りるために、ウインカーをカチカチと鳴らす。
「……最初から分かってたんですね」
「お前の退職理由が“小綺麗”すぎたんだよ。練習してきた台詞みたいだったぞ。そういうの、さんざん見てきたからな」
「やっぱり、真山さん相手には通じませんね」
「当たり前だろ。嘘ってのはな、綺麗な言葉にだけ宿るんだ」
◇
工場に着く頃には、雨はすっかり上がっていた。空はまだ曇っていたが、雲の切れ間からオレンジ色の夕陽が差し込んでいた。
星は社用車のドアを閉めて、背伸びとともに空を見上げた。
「さすがに、虹は見えませんね」
「虹なんか出てたら、それこそ嘘くさいだろ」
「……どっちでもいいですよ。きれいだったら」
駐車場を歩く真山の少し後ろから星が続く。
「僕、やっぱり無理です」
真山は立ち止まり、振り返る。
「ダメだ。もう少し考えてから結論を出せ」
星は顔を上げ、拳を握りしめた。
「僕は……真山さんみたいにはなりたくありません」
「お前は“見抜ける”側の人間だよ、星」
「でも、だとしても、見抜いたあと、抱えきれないんです」
「それは、これから──」
「真山さん。早とちりしないでください。退職はしませんよ」
「あ?」
「異動届を出します。距離を置いて、もう少しだけ、真山さんのやり方を見せてもらいます」
真山はそれを聞いて静かに頷いた。
「そうか。よし、じゃあ、とりあえずは俺たちの最後の仕事だ。ヤツらの本当の顔を暴きに行くぞ」
ふたりの間を雨あがりの風が吹き抜け、遠くで、工場の終業を告げるブザーが鳴った。




