ヴァンデミエール、テルミドール間の汽車にて
汽車の車窓には、ヴァルミュルブールの夕暮れが流れていた。汽車はヴァンデミエールとテルミドールの間を走っている。
金と紫の空。風が草原を撫で、薄霞が遠くを霞ませる。
アンダイエはぼんやりと窓に視線を落とす。
揺れる車体の振動に合わせて、心もまだ定まらない。
……そのとき。
窓ガラスに、自分と違う誰かの面影が、ふと映った。
白い肌。
きちんと巻かれた亜麻色の髪。
琥珀色の瞳が、こちらを見ている。
その姿は間違いなく、トリエステ・スゴンダであった。
(うそ……)
「ストラ……」
思わず振り返るが、隣の席には誰もいない。
ストラスはちょうどトイレへ行っていた。
再び窓を見てみるーー
今度はトリエステが、自分の顔に指を添えていた。
まるで『仮面を外して』と訴えるように。
口元がわずかに動く。
『わたくしは、”役”なのかしら……それとも、”名前”なのかしら……あなたは、どう思う?』
音にはならない。けれど、確かに聞こえた気がした。
アンダイエは息を呑み、視線を逸らした。
その一瞬、窓に映っていた姿は、黒い羽のように霧散した。
まるで舞台の幕が一瞬だけ開き、また閉じられたかのように。
(……やっぱり、まだ終わっていない)
彼女はそっと、手帳を胸元に引き寄せる。
『見つけてほしいって思っていたのは、わたしも……同じだったのかな』
汽車は静かに走り続ける。
次に舞台が開くとき、彼女が何を記すのか、それはまだ誰にもわからないーー
汽車のリズムが、心の奥に静かに響いていた。
アンダイエは膝の上に広げた手帳を見つめ、もう一度ペンを取り出す。
インクのしみが、紙に滲む。
それは涙のように見えた。
『彼女は仮面を被っていたのではない。仮面そのものが彼女であり、それを知ってもなお、わたしは彼女を見たいと思っている』
そう記した時、不意に声がかかった。
「……なあ、アンダイエ」
振り向くと、ストラスが戻ってきていた。
彼女は、少しだけいつもより真剣な顔をしている。
「君、なんか……変だよ。何があった?」
アンダイエは迷った。
話すべきか、語るべきか。それとも、黙っているべきか。
けれど、ほんの少しだけ、心を許すように微笑んで言った。
「……秘密。今は、ね」
「なんだよそれ。記者失格じゃないか」
そう言ってストラスは笑った。
でも、アンダイエの表情を見て、それ以上は何も言わなかった。
窓の外に、テルミドールの街並みが見えてきた。
アンダイエはそっと手帳を閉じ、胸に抱く。
(彼女の物語を、わたしが記す。誰かの目に届くことはないかもしれない。けれど、記したという事実が、いつか”終わり”を変えるかもしれない)
汽車はゆっくりと減速を始めた。
もうすぐテルミドールに近づく。
「さあ、戻ろう。テルミドールが待ってる」
ストラスが立ち上がる。アンダイエも続く。
そして、最後に一度だけ、窓の外を振り返る。
誰もいないはずの原野。
だが、そこにほんの一瞬ーー
紫のドレスが風に揺れ、亜麻色の髪が翻る幻影が見えた気がした。
(……トリエステ)
名を口にはしなかった。
アンダイエの旅も、トリエステの演技も、まだ終わらない。
ーーこれは、誰にも見えない舞台裏で続いていく、灯を落とさぬ者たちの物語。




