第二十九話 『怪ノ公式 ①』
姿を消す呪術を施し、いつもの修行場所を文字通り飛び出してからしばらく。眼下に広がり、通り過ぎていく町並みを観覧するように楽しみながら、九津たち一行は光森に指定された場所を目指していた。
通常の交通手段を使ったのでは、一時間以上を越える道のりも、空かける獣となった筒音にしてみれば、あっという間の時だった。
「へぇ、ここが先輩の指定した場所なんだ」
目的の地。指定された場所があるところは海沿いを埋め立てて造られた、一つの都市のような広さをもった地域だった。
一般的に入るには、おそらく幾つかかかっている橋を渡らなければならないのだろう。しかし今回は急を要する。勘弁してもらおう、というのが全員の意見だった。そもそも空の上を姿を消して進んでいるのだ。仕方がないとも言える。
「すごいのですね、今時のリアル研究所というのはっ!テーマパークやアトラクションランドのようなのですよっ」
感嘆の声をあげる瑪瑙。
確かにすごい。これも全員の意見だ。
人が住むことが目的であろう住宅区域のような場所。どこか商業的な雰囲気な建物の密集した場所。高層ビルもいくつかある。当然、目立つ移動手段としてモノレール、バスなども見えた。そして、それらとは一区域ほど離れたところに、異様さを醸し出すドーム状の建物のが複数あった。
それらの集合したこの一帯は、確かに言葉にするなら「目的別施設集合体」と言うのがピッタリである、と言うことだ。
言葉だけでは足りなかったのだろう。興奮したの瑪瑙の動く気配があった。呪術を継続させるために両腕が塞がっている瑪瑙に代わり、捕まえ抑えていた包女は焦った。
と、思った瞬間には立ち上がろうとしたらしい。包女の叱責がついにとんだ。
「あっ、瑪瑙ちゃん、暴れないでっ。…でも、本当に驚いた…まるでひとつの町を持ってきたみたいに見える」
瑪瑙が落ち着きを取り戻したのを確認して、包女も感想をもらした。驚いているのは一緒だ。というか、空からのこの眺めを見て、興奮を抑えろと言うのが難しいのは、理解できた。
『フム、十六分か…予想よりも二分も早いとは流石は妾じゃ。では、降りるのじゃよ』
いつも通り、シシシと空気を揺らしながら満足そうに呟く獣に連れられて、一行は目的地にたどり着いた。
しかし、たどり着いたと言ったところでその場所が広かった。一つの都市並みにあるとは予想もしていなかった。普通に歩き回って探したところでどれ程かかるかわからない。
「あれから四十分くらいか…なんか微妙に因縁をつけられそうなタイミングな気がする」
「そんなことないって…多分。でも鯨井さんが、私たちを経由してでも呼び出したかったってことは…かなり緊急なことだと思うから、早いに越したことはないよね」
「きなくさい臭いがプンプンするのですよ」
それでも一行は、迷いなく進む。ここでも先陣をきるのは筒音だ。
筒音は姿を消した獣のままので、辺りに鼻を効かせるように進む。
『…きなくさい…のぉ。まだ全てはわからんが、今わかることもあるようじゃぞ』
「筒音?」
『この続く先の建物に、光森の奴の臭いが残っている…ということじゃ』
鼻を向けたが見えないことを思い出した。包女の問いに答えるように説明した。
全員の視線が一ヶ所に集まる。
人通りから離れた道の先。たどり着いた場所には同じような建物のが並んでいた。そしてその一つの前で立ち止まったのだ。これは絶対に筒音がいなければ見つからなかったのではないだろうか。三人はそう思った。
「ここ…ここって」
入り口付近。目線に来るように立っている看板がある。それはこの領域に踏み込むなと、知らせている。
「立ち入り禁止って書いてあるのですよ。先輩さんはこんなところに入っていったのですか」
瑪瑙はわざわざ声にした。なぜに、と問いたいのだろう。だがここには、その問いに答えられる人物はいなかった。
互いに視線を配らせようとしたが、九津は見えないことを思い出して苦笑した。
「…本当に、きな臭い臭いがしてきたね。町のような規模の研究施設地域、人通りの少ない立入禁止場所、そして緊急な呼び出し…この間先輩から借りた漫画のお決まり展開だ…もちろん悪い方の」
光森の家に遊びに訪れたとき、九津は読んだ本の記憶を呼び起こして呟いた。
光森が御約束と読んでいた物語の展開に類似していたからだ。正直、読んだことがなくても不安がよぎるようなことが多すぎる。
内心に感じた不安を拭うためにも、進まなくてはならない。九津は進もうとした。
「おお!ついに九津さんが漫画を?何を読んだのですか?」
ところが、突然の瑪瑙の言葉に止められた。ん、まぁねと端的に答えていると、
『その漫画、面白かったか?』
筒音が加わってきた。
そう言えばこの二人は、漫画とかが大好きだったなと思い、二人にどんな本を読んだのか、どんな感想をもったのかを話した。
楽しそうに二人は聞いているようだ。
しかし、場所と時間が悪かった。
今は光森に呼ばれている途中だ。しかも時間の制限はとくになかったとはいえ、目的の地は目の前。さらには不安を煽る要素しかない。
なのに。なのにだ。思わぬ無駄話をしてしまった。普段なら九津もそこまで興味がなかったのだが、読んだばかり、内容どおりのことがらが続き、思わず乗り気で話してしまった。
後ろに突如として現れた、姿なき、赤く燃え盛る魔力の気配、魔気に背筋がのびた。
顔を見なくてもわかる。包女が苛立っているのだ。
「…鯨井さんが、一人では対処しきれないかもしれないことが、おこってるかもしれないんだよ?」
静かな声色だ。しかし誰も答えない。いや、答えられないでいるのだ。
こんな時、姿の有無など関係ない。三人は同じ顔をしていただろう。影をおび、冷や汗を止めどなく流した表情。それだけはわかる。
最後通知の予告のように、息を吸う音が聞こえた。
三人ぶんの唾を飲む音を聞いたのは、きっと間違いじゃないだろう。
「みんな…早く行こう?」
「ん、急ごう」「なのですね」『当然じゃな』
閉ざされた両開き扉の鍵は、かかってはいなかった。
古めいていたわりにはすんなりと開いた。定期的に使っているのか、それとも先に来た人物がそうさせたのかわからない。とにかく、中には楽に入ることが出来た。
一応、筒音が目安をつけてはくれているのだが、念のため、二階、三階があったために九津は一回りしてきた。視覚及び気配をもって探してみたが何も見つけられなかった。そして待っていた三人と再び合流した。
「二階、三階は特別に変なことはやっぱりなかった。鷲都さんたちの方はどう?」
「うん。使わなくなった施設を物置にしている感じ…怪しいものと言えば…」
一階は包女が回った。同じ結果だったらしい。ただ一つ。筒音が目安として教えてくれた場所を除いて。
『光森の臭いの途切れた、ここじゃな…』
コンコン、と地下に続く階段を隠していた扉を、筒音が示すように叩いたようだ。
何となく、考えていることが一緒になるのは、ここに入る以前の話題からだろう。
「立ち入り禁止場所の立ち入り禁止の地下…危険フラグが立ちすぎなのですよ、先輩さん」
「ん、俺もそう思う」
瑪瑙の恐る恐るした呟きに、九津は即座に肯定の意思を示した。
あからさまに怪しすぎるだろう。
扉はやはり鍵はかかっておらず、すぐに開いた。目立たないが錆ていたのか、キイッと響いた。
覗き込むと、普通、外壁や工場についているような簡素な鉄製の階段があった。下は、想像以上に深く、広い。もしかしたらこの付近の建物は、地下で繋がっているのかも知れない。そう思わされる構造だ。
怪しさに、誰も言葉を発せないでいると、包女が息をまくのが伝わった。
「あんまり物騒なこと言わないでよ、二人とも。とにかく…はっきりさせるためにも、行こう」
「ん、了解」
「そうなのですね」
一拍置いて、筒音が口を開いた。
『しかし…先に言っておきたいのじゃが、地下となると、臭いで辿るというのは難しい話になるのじゃ』
「あ、そっか」
「え!そうなの?」
筒音のその言葉に、九津と包女は互いに違う反応をした。筒音は、フムと切り出した。
『妾が臭いと判断しているものは、正しくは人間の溢した霊気の残り香じゃ。近しい人間の霊気は覚えているわかるのじゃ』
「えと、それと地下と、関係があるの?」
筒音の説明は嘘ではない。けれど完全ではないために、補足を求める包女。筒音はすぐに答えない。どう説明するか、考えているのかも知れない。
そこで九津が先に口を開いた。
「んと、鷲都さん。霊脈って言葉知ってるかな?」
「霊脈…聞いたことくらいはあるけど…」
迷いのみえる回答。そこに助け船を出したのは瑪瑙だ。
「風水とかで使われる、例のあれなのですか?」
「そうそう。流石は呪術師。その、例のあれ。で、霊脈ってのは、地下に出来てしまった、強大な霊気の溜まり場なわけ。魔気でもなく、妖気でなく、人間が溢す純然たる霊気の集まる場所…ね」
「そうか、それじゃぁ」
流れのままに話すと、包女も筒音の言わんとしたことが理解したようだ。そうしたうえで、声の調子が落ちたのはこれからを考えてだろう。
『ようは深ければ深いほど、濃い霊脈に混じり、それは強い霊気となり、利きすぎる妾の鼻では逆に光森だけでなく近くの者の臭いも判別できなくなるかも知れぬ…ということじゃ』
筒音も、念をおすように言う。
九津はもう一度覗き込んだ。その全貌はどうしても見渡せない。むしろがらんどうした雰囲気が、どこまでもこの地下を膨張させている気さえする。
九津自身も気配を読んだり感じたり、その色を視たりもするが、この力の範囲は筒音ほどではない。さらには地下 、霊脈の側となればどうだろう。
「あんまり深くないといいけど」
『とにかく、わかるところまでは知らせるのじゃ』
軽視するつもりはないが思わず出た一言。それを拾ったのは筒音だった。
本当に便りになる。九津は苦笑した。そして今度は包女に言われる前に一歩踏み出した。
きしん。僅かに音が鳴った。それで全員気がついただろう。歩を進めたことに。
では行こう。開かれた扉の向こう。心もとない手すりのついた階段の、その招きに従って。
結局、三人で降りていくことになった。途中で瑪瑙の術が解けることも考えてのことだ。待機という言葉に瑪瑙は過剰に反応したが、どちらにせよ、姿を消している間は出来ることも少ない。ならば安全策をとるべきだと言う包女の説得に落ち着くことになった。
三人は進む。地下一階は段ボールが納められた棚が律儀に通路を作るような倉庫だった。しかも実際に降りてみてわかったのだが、建物三つ分の要領があり、当然降りてきた以外にも二ヶ所、階段も見えた。しかし想像した以上に深くはなかった。
深く見えていたのは、常備灯の明かりに照らされた埃が、まるで底無しの谷のような錯覚を見せていたからだった。
響く音こそ不気味だったが、それ以上変わったことはなかった。その上でまだ臭いをたどることが出来たので進んで、現在はさらに下。地下二階を通り越そうとするところだ。
一階一階はそこまで深くはないが、さすがに三階ともなると思った以上に深いはずだ。九津は尋ねた。
「ええと、地下二階。次で三階だ。結構脈のなかに入ってるんじゃない?」
『ああ。すでに濃くなってきておる。じゃが、まだわかるぞ』
先頭を切る筒音は、頼もしい答えを返した。近くで、包女の嬉しそうな誇らしそうな吐息が聞こえた気がした。
地下三階へと降りる途中、ふと包女は呟いた。
「瑪瑙ちゃん、大丈夫かな。あんな場所に一人で残って」
自分が説得したとはいえ、一人置いてきた瑪瑙が気になったのだ。術が解けていない以上、瑪瑙本人に何らかの異変はないのだが、距離が広がるにつれて不安が生まれたのだろう。光森のこともあり、より強く感じるのかも知れない。
『仕方ないじゃろ。あの状態を保つには動かない方がよいのじゃ。呪力が放たれていることも、妾にとっては都合が良いからな』
「そうそう。あのままの状態を維持できるなら問題ないと思うし、呪術が解けたところで鵜崎ちゃんの方は大丈夫だと思うけど。迷子かなんかと間違われて、本人は不服だろうけど」
包女を気遣うように二人は言った。九津にすれば、自分の言葉に笑いが込み上げてきた。
絶対にこの事は内緒にしておかなくては。そう思いつつも、綻んだ顔はなかなか戻らなかった。
「…問題はこっち…ってこと」
包女の確かめるような言葉に、ようやくしゃんとする。
「状況の話になるかな?先輩のところにいくのに、どんな状態で行くのがベストか…正直わからないから」
と、そこまで九津が言うと、
『フム。ベストかわからんが…あれは、不味いのではないか?』
「え?」
「ん?…って、不味っ!!」
筒音が声を低くして伝えた。九津たちもその言葉の意味を探して先を見る。
階段はまだ中くらい。下は例によって広かった。ただ一つ、変わっていたのは──。
──幾つもの倒れた棚の向こう側で、刀をもった長身の人物が、二人の人物に近づいていく姿が見えたことだ。
遠目にしか見えないが、あれは。
九津は手すりを飛び越えた。重力に身を任せたまま体内で活力を練る。繰り出すは仙術、肉体強化だ。
壁途中で大きく蹴り、前進する。それを勢いに一気に距離を詰める。狙われてた人物、一人はやはり光森だった。
尋ねている時間はない。九津は万式紋を出し光の剣を造った。
「…………これで終わり。痛いのは、我慢して…殺しは、しないから」
途切れがちなしゃべり方。声から女のものだとわかった。しかしだからといって色々を躊躇っていられない。
なんとか間に合うように全力で九津は突っ込んだ。
「くそ」
「少年っ 」
光森が覚悟を決めたように声をあげた。守られる形になっているもう一人の人物は、二十代くらいの男だった。
キン。
女が躊躇なく向けた刃に、九津の突き出した万式紋の刃が届いた。力任せに振り抜いて弾くだけ弾いた。九津自身は推進力を抑えられず転がってしまった。ずざざとすった音が響いた。
「…………誰?何?これ」
「…あ?なんだ?助かったのか?」
何かが蠢く音。そして何かに刃を弾かれたという事実。振りかざした方も振りかざられた方も、事態を把握しきれずに辺りを見回している。
「助かったのかじゃないですよ、先輩。なんですかこの状況」
立ち上がり、埃を払いながら九津は言った。自身が呪術によって姿が見えていないことを忘れている。
「…この声…九津か?いや、今のお前のほうがどういう状況だよ…声はするが、姿は見えないって、どんなホラーだっつう話だ」
突然の聞きなれた後輩の声に、より一際驚きながらも、すぐに姿はなけれど声はすると妙に納得し、調子を取り戻した光森はいつものように九津に喋りかけた。
視線が定まっていないのは、声のする方を見ているだけで、いまだにその姿をとらえられないからだった。
それにようやく気がついた九津は、
「あっ!これ?すごいでしょ。鵜崎ちゃんの呪術ですよ」
「…いやいやいや、ちょっと待て。鵜崎の奴は、呪術で姿を消すまで出来るようになっ…って、危なっ」
ただただ純粋に、その状態を自慢する九津。しかし光森は、九津のその言葉にさらに頭を抱えそうになった。まさかその状態を作り上げているのが、さらに年下の少女だとは。
後輩たちの不可思議度合いの限界点の引き上げ具合がとどまることを知らず、いま、自分のおかれている事態を忘れて突っ込みかけた。しかし、幸か不幸か、自分を窮地に追いやった張本人に現実に引き戻してもらった。
とりあえず目に見えている光森をもう一度狙ったようだ。今回は自力でかわすことができた。
すると、相手の女はポツリと呟いた。
「…………誰か…いる。次元に歪み」
光森に向けていた刃を一度引き、辺りを見回し始めた。そのまま一ヶ所。九津が立ったままの場所を見つめ出した。
九津も目があった気がした。瑪瑙の術が解けていないのは、自分の姿や、まだ見えていない包女たちからもわかる。それとも自分と同じように、気配を見ることが出来るのだろうかと思考した。
思考はしたが、結論は出ない。こういうときは、なるべく先手を打つ方がいい。九津は動いた。
「ほら、先輩が素直に受け入れすぎて、俺もちょっと気が抜けすぎました。とにかくあの人、抑えればいいん…うわっ」
ところが、やはり相手の女には見えていたのだ。確実ににじりよる九津を狙った。
単調な払いでの斬撃。避けること事態は難はないのだが、見えないことを前提とした動きはとれないという事実に驚かされた。しかし、さらに驚かされることになる。
「…………そこ…やっぱり。そして、そこ…そこ。姿は見えないけど…三人…いる」
女は見抜いたのだ。九津だけではなく、まだ遠目にいる包女たちのことまで。九津自身も、二人から僅かに漏れる赤い魔気と黄色の妖気でギリギリ見えるだけだというのに。
「うわ…見えるんだ?…すご。先輩、とんでもない人を相手にしてますね」
誤魔化すことなく相手を称賛するような口ぶりになった。
魔術師、呪術師の類いでは無さそうだ。術を使った気配も、魔気や妖気の類いも感じられない。九津はそう考えながら距離をとって光森の返事を待った。
「細かいことは説明は省く。あの女はいわゆる次元転移超能力者の剣士だ。多分、超越した次元把握能力で空間そのものに輪郭を見つけたんだろう」
細かいところは省かれたが、充分だった。光森もそうだが、超能力者というのは魔術師たちと違って、九津にとってよくわからない力が多いからだ。
何より、次の光森の言葉がもっとも現状を示した。
「あいつは、敵だ」
いい放つような一言。それ以上は必要ないだろう情報だ。
九津も構えをそれに変える。
「ん、了解…なら、戦うだけです」
「…………戦う?姿が見えないだけで、いい気にならない方が、いいと、思う」
女は九津に答えたばかりではなく、前進して確実に狙ってきた。確かに姿が見えないことが優位点にならないなら、あとは実力勝負だ。
九津はその斬撃を正面から受け止めようとした。
「問答無用か…ん、鷲都さん?」
しかし、女の方が間合いをとるために後退した。疑問に思う九津だったが、赤色のもやが視界に写った。それが呪術越しの魔気だと気がつくと合点がいった。いつの間にか包女も近くに寄っていたのだ。
「あ、そうか。悟月くん、そこにいるんだよね」
自分と違い、完全に視ることが出来ない包女は、距離感が掴めずに女と九津の間に入ったらしい。
お互いに、呪術がかかったこれは、不利な状態でしかないないことに気がついた。仕方がないので九津は提案する。
「ん、呪術、一回解いた方がいいかもしれない。もうばれてるし、お互い見えないんじゃ、フォローしづらいし」
「だ、だよね」
包女も即座に合意した。瑪瑙と決めあった手順を踏み、その呪術を解いた。そして解いたのは二人だけではない。
『フフ、鎖に繋がれているようで不満だったのじゃ。ようやくスッキリする』
大人と同じほどの大きさの獣が突然現れた。筒音だ。
「鷲都!それにキツネも」
光森の後ろにいる男も、剣を振るう女も流石に驚いたらしい。怪訝を越えて完全に警戒している。その中を一人、親しみの声をあげる光森。
『驚いたか、光森』
シシシと嬉しそうに筒音は笑った。驚いた二人を見てのことだ。妖怪としての性か、人の驚く顔を見るというのが好きなのだ。
筒音自身は瑪瑙の術で姿を消していた訳ではないのだが、二人に合わせて消していた。そのせいか、瑪瑙の術下にいるような気がして、どうも息苦しかったのだ。
「お前らも来てくれたんだな」
『妾が運んだのじゃ。感謝しろよ』
獣が牙を見せて笑う。知らなければ恐ろしくも見える顔だ。しかし、当然光森が返したのも笑みだ。
後ろの男はたじろぎながらも、そんな光森につられるように落ち着きを取り戻した。
「人が、三人も?この子たちも原動力者なのか?」
「あ、いや」
「鯨井さん、その方は?」
自分の記憶にある単語を思い浮かべたのか、男はそう尋ねた。光森が、なんと言えばいいのか一瞬詰まっていると、今度は包女も聞いてきた。
「この人は、そうだ。詳しいことは、この人を連れて、ここを脱出してからだ」
「ん、脱出…か。なら、鷲都さん、先に先輩たちを連れて…って、何、筒音」
光森の言葉に即座に返答した九津は、すぐさま行動に移ろうとした。包女とも視線のやり取りを瞬時に交わし、前へ進みかけた。しかし、それを獣の姿の筒音に先を越された。
九津だけでなく包女も驚いていると、筒音は言う。
『せっかく来たのじゃ。妾は少しばかり遊びたいのじゃよ』
シシシと悪がきのように楽しそうに空気を揺らした。そんな筒音を、もぉ、と困った顔でたしなめるのは包女だ。
「ちょっと筒音、この状況で何言っての?」
『遊びたい…と、言ったのじゃ。悪いが包女、付き合ってはくれぬか』
それ以外ない。そういう意味の込められた答え。そして可能ならば、それを包女にも付き合ってほしいと言う。
「筒音…」
獣の姿の家族とも呼べる親友の言葉。包女はその瞳の奥の真意を読み取った。
遊びたい。包女と一緒に、新しい力で、遊びたい。包女なら、わかってくれるじゃろ。
「お前な、こんな時に」
「わかったよ」
困りかねている包女を見かねてか、そもそも焦っていたのを思い出したのか、光森が言いかける。それを遮ったのは、一歩ずつ筒音に寄る包女だった。
「な、鷲都、お前まで」
「いいの?鷲都さん」
「うん。どちらにせよ、誰かが足止めしなくちゃしなきゃならなさそうだもんね。筒音の我が儘に付き合うのは、ついで」
二人に凛とした声と態度で返す包女。言い終わるときには笑みを見せた。それはいたずらを共有することを誇らしく思うような顔だった。
『ついでで上々じゃ』
明らかに嬉しそうにシシシとその身を揺らす獣。九津と光森は渋々顔を見合わせた。
包女までとなると、もうこの中に止められる人物は居ないだろう。ならば。
「ん、了解。気を付けて」
すでに男を促している光森に代わり九津が言う。
「うん、危なくなったら、即、引き上げるから。連絡は瑪瑙ちゃんにするね」
『妾も側におるのじゃ、任せろ』
包女に続き、筒音が応える。
「わかったよ、キツネ。なら、任せるからな」
男の背中を押している光森も振り返らずに告げる。一方で訳のわからないまま光森に促される男は、少女一人、獣一匹をこの場に残すことに躊躇いがあるのか、たたらを踏む。
「あ、あの子たちだけで、時間を稼ぐって言ってたけど」
「…………そう。私の、追跡から、簡単に逃げられると、思わないで」
それに続いたのは女だった。考察が終わったのか、獣の筒音を無視してこの場をあとにしようとしている光森たちを見ている。
「っそうか。次元転移者相手に数がいれば逃げ切れるわけじゃないか」
「…テレポーター?」
光森が呟く。聞きなれない単語に首を傾げたのは包女だ。魔術一筋だった包女は、この中では一番超能力に疎い。
「簡単に言えば、瞬間移動する奴のことだ」
光森が短く説く。
「瞬間…移動。空間を移動…瞬間的に…それなら」
包女は呟きながら考えた。そこから理解したようだ。光森が何を不安視したのか。そしてそれを拭う術が自分にはある、と目を閉じて瞬間的に集中した。
赤色の力に包女は包まれた。魔力だ。曖昧なもやがかった魔気の色ではなく、包女が自分の意思で支配する色だ。
九津の瞳にはそれが写った。と言うことは、魔術を使うのか。九津が注目していると、ぐにゃり。なんとも平衡感覚を揺さぶられる感覚が訪れた。
「これは」
光森も思わず声をあらげた。そうだろう。光森も、この感覚を知っているからだ。男の方は驚いたように辺りを見回しているだけだ。
「鷲都さん、精霊魔術は苦手だったんじゃないの?」
九津が言う。そう。この感覚の正体は、精霊魔術だ。しかも正確に言うなれば、精霊魔術の生み出した隔離空間、精霊魔術式結界だ。
「使役とか、そういうのじゃなければ、なんとか。それに苦手を苦手のままじゃ、この間みたいに迷惑かけるから」
包女は照れたように言う。しかし九津には、それがどれ程難しいのか知っていた。
もともと付加魔術を得意として生きてきた包女。魔力を使う共通点があるものの、その性質は全く異なる。確かに「精霊」そのものを使役するのでなければ、初歩的な魔術として可能かも知れないが、それでも一朝一夕で出来るものではないはずだ。
やはりすごい。ここに来るまでに呪術師の術幅に落ち込んでいた少女とは別人のようだと、尊敬の眼差しになる。
あえて言葉にしないのは、包女は照れるばかりでその言葉をなかなか受け取ってくれないからだ。
しかし、これが精霊魔術式結界となると一つ問題がある。
「鷲都さん。でも、これはかなり魔力を消費するんじゃない」
と言うことだ。もともと精霊魔術は、精霊の魔力と複合して使うものだ。使役者と使役精霊。それぞれがもつ魔力の相乗効果こそが精霊魔術の利点だった。
この場合、隔離空間という結界を作り上げるだけの魔力を、包女一人で補っていることになる。それが心配になったのだ。
「それも大丈夫だよ。だって私には」
包女は微笑みを絶やさない。視線が交わさせるその瞳には、絶対の信頼が備わっている。
何にたいしてか。簡単だ。
包女を魔力ごと包み込んでいる緑色の力、妖力の持ち主。家族にして親友。その絆は、緑から青へ。青から赤へと変わっていく色の中にも垣間見れた。
「筒音が憑いてるんだから」
九津は何も言えない。同じように微笑むだけだ。いや、少しだけ羨ましくもあるだろうか。
「まだ私が作れる結界の範囲はこの部屋くらいだけど、足止めの意味では充分なはずだよ…行って。階段のところを抜ければ、みんなは出られるから」
光森が頷き、それが合図となる。
「わかった、頼む。行こう」
「ん、じゃぁ、またあとで」
訳がわからないまま男は、二人に先導されて走り出した。三人は、包女の指示通り階段をかけ上がる。
「…………逃がすわけ、ない」
階段を上る足音に聞かせるように女は言った。ところが、あることにようやく気がついたようだ。やっと包女、筒音を見た。
空間の認識が、不明瞭になっている。その原因を作ったのは、この少女と獣だ。
語らずともそういう顔をしている。
『シシシ、人間。逃がすわけないのは、こちらの方じゃ。妾たちと遊び終わるまで、付き合ってもらうぞ』
遊びたい獣は、楽しそうに囁いた。




