第50話 記録は残る
「榊冬真。これより探索配信を開始する」
足元の岩は鳴らない。薄暗い岩肌を、小型の照明ドローンの光が静かに照らし出していた。
都心から少し離れた場所に位置する、低難度の迷宮。ここに出現する魔物はせいぜいD級からC級であり、ベテランの探索者であれば準備運動にすらならないような浅層エリアだ。
榊冬真は、灰色の防刃ジャケットを身に纏い、滑るように音もなく洞道を歩いていた。その後方には、雨宮澪が操作する高精細の認証カメラが、彼の挙動を余すところなく捉え続けている。
「……前方十メートル。丁字路の死角に、熱源が三つ」
冬真が短く告げ、足を止めた。
彼の視線は、まだ姿を見せていない魔物ではなく、その周囲の環境――天井の岩盤のひび割れ、足元の土の湿度、そして背後の退路へと向けられている。
『――榊さん、見つけましたね。現在の環境魔素濃度は安定しています。この程度の規模なら、周辺の地盤への影響は皆無です』
澪の声が、インカムと配信の音声に乗って響く。
『視聴者の皆さん。今、榊さんの視線が真っ先に上を向いたのがわかりましたか? あれが、崩落の危険性を事前に潰すための「前兆読み」の基本動作です。敵より先に、空間の安全を確保する。これがS級のルーティンです』
澪が淡々と解説を入れる間にも、丁字路の奥から三匹の四足歩行の魔物が姿を現し、冬真に向かって飛びかかってきた。
冬真は一切の無駄がない動きで直剣を抜き放ち、魔物が跳躍する瞬間の「重心が沈み込む」コンマ秒の隙を突いて、関節の隙間を正確に断ち斬った。
血を流すこともなく、三匹の魔物は完全に活動を停止し、床に転がる。
『すげえ、相変わらず無駄が一切ない』
『S級になってもやってること初配信から全然変わってなくて草』
『この安定感を見るために配信開いてるまである』
澪の手元にあるモニターには、凄まじい勢いでコメントが滝のように流れ続けていた。
画面の隅に表示されている同時接続者数は、百五十万人。
特区での大規模災害を完遂し、S級認定を受け、さらには三年前の事件における名誉回復を果たした冬真は、今や日本中で最も名前を知られた探索者の一人だ。
だが、見ている人間の桁がどれだけ変わろうと、冬真のやることは大きくは変わらない。
魔物を倒す前に退路を確認し、荷重を読み、安全を確保して被害を局限する。地味で、派手な魔法の応酬もない泥臭い作業の繰り返し。それが、榊冬真という男の仕事のすべてだった。
「よし。今日の予定ルートはこれで制圧完了だ」
冬真は直剣の刃を布で拭い、鞘に納めた。
「お疲れ様です、榊さん。周辺の魔素も完全にクリアになりました」
澪がカメラのモードを切り替え、休憩用の安全エリアへと冬真を誘導する。冬真は岩肌に背を預け、澪から渡された水筒を受け取って一口飲んだ。
「……なぁ、澪」
「はい?」
「コメント欄の速度が速すぎて読めん」
冬真がモニターを指差して渋い顔をすると、澪はくすりと笑った。
「仕方ないですよ。今やあなたは、国と対等に渡り合う独立チームのトップなんですから。……あ、でも、こういう疑問は多いみたいですね」
澪は流れるコメントをいくつか拾い上げ、読み上げた。
「『S級で、第一種登録まで持ってるのに、なんでわざわざこんな低難度で個人配信を続けてるの?』『もっと稼げる案件や、国の公式中継だけでいいじゃん』……だそうです」
確かに、今の冬真の立場を考えれば、こんなD級向けの迷宮で、わざわざ一般端末の個人チャンネルを開く必要はない。
冬真は水筒の蓋を閉め、カメラのレンズ――その向こう側にいる百五十万人の視聴者に向かって、真っ直ぐに視線を向けた。
「……金のためでも、承認欲求のためでもない」
冬真の低く落ち着いた声が、配信に乗る。
「俺は三年前、国家の機密という見えない場所で仕事をした。結果として命は救えたが、それを証明する手立てを何一つ持っていなかった。誰かが作ったルールや、組織の都合で消されるような事実に、自分の人生を預けるのはもうご免だ」
それは、彼がD級から歩み始めた理由そのものだった。
真実を隠蔽された過去の清算。
「だから俺は、配信を続ける」
冬真は静かに、だが絶対の確信を持って言った。
「誰かに証明してもらうためじゃない。……後から誰でも検証できる『記録』を、俺自身の手で残すためだ」
その言葉に、コメント欄が一瞬静まり返り、直後に無数の『了解』『かっけえ』という文字で埋め尽くされた。
澪は、その様子を誇らしげに見つめながら、静かに配信の終了ボタンを押した。
*
迷宮のゲートを抜け、地上へと出ると、空はすでに茜色の夕焼けに染まっていた。
冷たい秋風が吹き抜ける中、冬真の携帯端末が立て続けに振動した。
「……悠馬からか」
冬真が画面を確認すると、独立チームのサブリーダーを任せている悠馬からの業務報告だった。
『第二管区での局地崩落事案、チーム単独で処理完了しました。負傷者ゼロ、手順通りの被害局限に成功。……次はもっとデカい案件を回してください!』
「調子に乗るなと伝えておけ。安全確認を怠ればいつでもクビにするとな」
「ふふっ、厳しいですね。でも、彼らなら大丈夫ですよ」
澪が笑いながら、自分の端末の画面を冬真に見せた。
「こちらには水城さんから連絡です。来週の『官民共同訓練』のタイムスケジュールが確定しました。今回は行政側の新人だけでなく、上位クランの若手も多数参加するそうです」
「神代のところの連中も来るのか」
「ええ。神代さんから榊さん宛てにメッセージが来てますよ。『たまには俺の班の訓練にも顔を出せ、火力の違いってやつを骨の髄まで教えてやる』だそうです」
「放っておけ。面倒な奴だ」
冬真はため息をついたが、その表情はどこか柔らかかった。
一人で背負うことをやめ、他者に役割と責任を委譲した結果。
冬真の周りには今、彼が構築した『公開版安全手順』を駆使するチームがあり、公的機関の内側から支えてくれる水城がおり、圧倒的な火力で背中を預けられる神代がいる。
彼の技術はもはや個人のものではなく、社会を守る確固たる『仕組み』として機能し始めているのだ。
「今日のアーカイブ、夜には処理してギルドの監査局に提出しておきますね」
澪がカメラ機材をケースに収めながら言った。彼女は冬真のチームに属するのではなく、あくまで独立した検証者として、対等なパートナーシップを結んでいる。
「ああ、頼む。……だが、あまり無理をして夜更かしはするなよ」
「榊さんに言われたくありませんよ。……でも、ありがとうございます」
澪は機材ケースを肩に掛け、夕日に照らされた冬真の顔を見上げた。
「夕飯、何か買っていきましょうか」
「そうだな。……少し、良い肉でも買うか。お前の好きな部位でいい」
「ふふっ、言いましたね? じゃあ、遠慮なく一番高いやつを選ばせてもらいます」
二人は買い物袋を一つずつ持って歩き出した。
澪の端末には、今日の配信の保存完了通知が届いた。冬真は振り返り、ゲートから街へ続く道を一度だけ確かめた。




