第26話 正しい情報でも傷つける
「……榊さん。動画は一時停止しました。ただ、消しただけで済ませるつもりはありません」
朝。榊冬真の安アパートのリビングには、張り詰めたような重苦しい空気が漂っていた。
テーブルを挟んで向かい合う雨宮澪の目は、決して譲らないという検証者としての強い意志を宿していた。
事の発端は、昨晩澪が自身のチャンネルに投稿した一本の解説動画だった。
彼女が管理する検証コミュニティが突き止めた、三年前の『湾岸第九迷宮災害』における指令所システムの「十五分の空白」。澪は個人名を出さず、公表時刻の食い違いを図で示した。位置情報の遅延は仮説だと断ったが、図の目盛りを細かくしすぎた。
だが、その分析が精緻で完璧すぎたことが仇となった。
ネット上の特定班たちは、澪が提示した「十五分間の空白」という正確なタイムラインと当時の防災無線のログを掛け合わせることで、『その十五分間にシステムから脱落していた具体的な区域』を割り出し始めてしまったのだ。
それはつまり、当時その区画に取り残され、冬真に救助された「十二人の民間人」の身元を絞り込む作業に他ならない。
「今すぐ、該当する分析データの公開を一時停止しろ」
冬真は、感情を抑えた低い声で要求した。
「お前の出した情報は正しかった。だが、その正確な情報が、特定班に救助者の居場所を教える羅針盤になっている。これ以上は、彼らの私生活に実害が及ぶ」
「……」
「救助者の勤務先まで絞られる。公開範囲を決め直せ」
冬真の言葉は、彼にとっては紛れもない正論だった。
三年前、自分のすべてを捨てて守り抜いた十二人の平穏。それだけは、冬真にとって合理的に割り切れない最大の逆鱗なのだ。
だが、澪は首を横に振った。
「停止の告知は出しました。目盛りの粗い図に差し替え、元の版を出した時刻も残します。私の判断ミスです」
澪はテーブルに両手を置いた。
「でも、あなたが一言『隠せ』と言えば終わる関係にはしたくありません。三年前、あなたのためだと言って、本人に選ばせず蓋をした人たちがいた。私たちまで、救助された方々の意思を聞かずに全部決めるんですか」
「放置して特定されるのを待てというのか」
「いいえ。今は止める。ただ、何をどこまで出すかは私たち二人で責任を持って決め、その先は当事者の選択を聞くべきです」
冬真は、言葉を失った。
自分が最も嫌悪した、組織による上からの「情報統制」。他人の人生を、本人の意思に関係なくテーブルの上で決めてしまう傲慢さ。
よかれと思ってやろうとしていた自分の行動が、それと全く同じ構造を持っているという事実を、澪は容赦なく突きつけてきたのだ。
「……」
冬真は反論できなかった。
二人の間に、出会ってから初めてとなる、決定的な価値観の亀裂が走っていた。
*
同日の午後。
第三管区が管理する『自治体公開訓練』の会場となる低難度迷宮。
市民への安全啓蒙と、若手探索者の育成を兼ねたこの合同訓練に、冬真はギルドからの依頼でB級の臨時協力枠として参加していた。
「――はい、ストップ! そこで水たまりの波紋を確認してください!」
「波紋に異常なしです!」
「よし、それじゃあ次は頭上の岩盤のチェック!」
迷宮の浅層エリアで、十数人の初心者探索者たちに熱心に指導をしている若者がいた。
かつて冬真の動きを見よう見まねで真似して死にかけ、冬真自身から直接「安全手順」を叩き込まれたC級探索者の悠馬だった。腕の骨折も完治した彼は、今や冬真が作成した『初心者向け安全手順マニュアル』の最も優秀な実践者となっていた。
「榊さん、雨宮さん! お疲れ様です!」
巡回してきた冬真と澪の姿を見つけ、悠馬が駆け寄ってきて深く頭を下げた。
「あのマニュアルのおかげで、うちのクランの新人たちの生存率が跳ね上がってます。才能や魔法の出力がなくても、ルールを守れば絶対に死なない。本当に、ありがとうございます」
「……お前がマニュアルを正しく理解し、後進に伝えているからだ。俺の力じゃない」
冬真は淡々と返し、訓練生たちの陣形に目を向けた。
かつては自分一人で抱え込んでいた『前兆読み』と『退路確保』の技術が、言葉となり、こうして若い世代に浸透していく。その光景には確かな手応えがあった。
「榊さん。後方のカメラ、広角に切り替えます。第三班の動きが少しバラけているので、音声で注意を促してもらえますか」
背後から、澪の事務的な声が飛ぶ。
冬真は「了解した」と短く返し、インカムを通じて第三班に指示を出した。
今朝のアパートでの対立以降、二人の間には明らかな冷戦状態が続いている。
必要最低限の言葉しか交わさず、空気はひどく冷ややかだ。周囲の訓練生たちも「なんか機嫌悪いな」と察して少し距離を取るほどだった。
だが、現場での『仕事』において、二人はその私情を一切持ち込まなかった。
冬真の視線の先を澪のカメラが完璧に捉え、澪が拾った死角のデータを冬真が即座に陣形へ反映させる。意見が完全に割れていようとも、プロとしての役割分担は一ミリの狂いもなく機能していた。
*
公開訓練が終盤に差し掛かった頃だった。
「……ッ」
冬真が不意に足を止め、迷宮の奥ではなく、横に広がる『未使用の隣接ゲート』の方角を鋭く睨んだ。
その数秒後、澪のコンソールが甲高いアラートを鳴らし始める。
「榊さん! 隣接するD区画のゲートから、異常な魔素の漏出を検知しました! まさか、空間の亀裂が繋がって――」
「訓練生を壁際に退避させろ! 悠馬、お前は後輩たちをまとめて第一ゲートまで走れ!」
冬真は直剣を抜き放ちながら、即座に大音量で指示を飛ばした。
訓練用の安全な区画に、別の層で発生した野良の魔物が、空間のひずみを破って溢れ出してきたのだ。
現れたのは、硬質な外殻を持つ中型の甲虫型魔物――C級相当の『ブレードビートル』が五体。訓練生たちが相手にするには荷が重すぎる群れだ。
「きゃあああっ!」
「落ち着け! マニュアル通りに動け、パニックになるな!」
悠馬が声を張り上げ、後輩たちに盾を構えさせて退路を確保する。
だが、一体のビートルが訓練生の陣形を無視し、撮影機材を操作していた澪の方へと突進してきた。
「シールド展開!」
澪は悲鳴を上げることなく、即座に手元の護身用魔導具を起動し、薄い光の盾を張る。
ビートルの鋭い角が盾に激突し、火花が散る。盾は持ちこたえたが、衝撃で澪の身体が後方へ吹き飛ばされそうになる。
しかし、彼女が床に倒れ込むより早く。
灰色の防刃ジャケットが視界に割り込み、冬真の左手が澪の肩を力強く支えた。
「――怪我はないな」
「……はい。問題ありません」
『榊協力員、訓練生の退避は我々が引き受けます。漏出個体への対処を要請します』
自治体の訓練責任者が共用回線で告げた。
「了解。澪、カメラを下げろ。俺が処理する」
それだけを交わし、冬真はビートルの群れへと踏み込んだ。
朝から結論は出ていない。だが澪は、カメラより先に訓練生の避難経路を映していた。冬真はそれを見て、足の向きを決めた。
冬真の剣閃が、魔物の甲殻の隙間を的確に穿ち始めた。




