第1話 同接九人、接敵十秒前
足元の岩が、一度だけ、低く鳴った。
「榊冬真。これより探索配信を開始する」
灰色の迷宮ゲートを抜けた冬真は、追尾端末の角度を確かめながら足を止めた。音はまだ遠い。浅層の岩盤が鳴るには、早すぎる。
三十一歳。民間探索者としては最下位のD級。装備は市販の防刃ジャケットと安い直剣だけだった。
(同接、九人か)
公開実績を作ってC級に上がれば、事故後の生活まで補償する保険に入れる。配信はそのために始めた。冬真はレンズの位置を直し、第一階層の洞道へ進んだ。
『D級の散歩枠かー』
『画質荒くね? 酔いそう』
『ここ昨日アラート鳴ってた迷宮じゃん。初心者舐めすぎでしょ』
まばらに流れるテキストに、冬真は特に反応を返さない。
視聴者の言う通り、この都市近郊迷宮は前日の夜に「公開魔素異常」の警報が発令されていた。通常であれば低ランク探索者は立ち入りを避ける状況だ。
だが、冬真の判断は真逆だった。
人が少なければ、避難誘導で動きを読めない相手も減る。
湿った土と、僅かな硫黄の匂いが鼻腔を撫でる。
足の裏から伝わる岩盤の微細な振動、肌に触れる空気の粘度、奥から吹き抜ける風の反射音。それらすべての環境情報が、冬真の脳内で無意識のうちにひとつの立体的な空間構造として統合されていく。
数十メートル前方の分岐で、三人の若い初心者パーティが騒がしく歩いているのが見えた。彼らの足取りの軽さ、周囲への警戒の薄さ、前衛と後衛の距離の悪さ。それらを一瞬で視界の端に収め、冬真は一定の距離を保ったまま歩みを続ける。
――その時だった。
足の裏を、硬質なノイズが叩いた。
ごく僅かな岩盤の軋み。次いで、大気が急速に膨張するような、鼓膜を圧迫する魔素の異常な波長。
接敵の、十秒前。
ピタリと、冬真は足を止めた。
これから現れる存在が、この浅層にはいるはずのない強大な力を持っていることはすでに察知している。
だが、冬真の視線は前方――魔物が出現するであろうポイントには向かわなかった。
冬真が最初に見たのは「背後の退路」だった。
次いで、見上げた「頭上の岩盤」。無数の微細な亀裂の入り方を瞬時に読み取る。
そして最後に、三十メートル前方にいた初心者パーティとの「位置関係」。
「――前の三人、引き返せ!」
静まり返った洞道に、冬真の低く、しかし腹の底から響く異常な通る声が叩きつけられた。
「右の分岐は地盤が脆い。左の壁沿いに抜けて第一ゲートまで走れ! 今すぐだ!」
振り返った初心者たちが「えっ?」と間抜けな声を漏らす。
だが、有無を言わさぬ冬真の気迫と、彼が既に抜刀して腰を落としている異様な姿に押され、三人は弾かれたように冬真の脇を抜け、左の壁沿いをゲートへ走った。
『え、急に大声出して何?』
『やば、配信者おかしくなった?』
『なんか音しない?』
コメント欄が戸惑いに揺れた直後。
冬真の三十メートル前方、右側の岩壁が、爆発でも起きたかのように内側から粉砕された。
もうもうと舞い上がる土煙と岩の破片の中から姿を現したのは、体長三メートルを超える巨大な魔物だった。
全身を分厚い岩の装甲で覆った猪のような姿。赤い双眸が、強烈な殺意を撒き散らしながら冬真を睨み据えている。
アーマーボアの変異個体。迷宮の深度で言えば、最低でもB級相当。D級探索者が遭遇すれば、全滅は免れない災害クラスの脅威だ。
『は!?』
『嘘だろ、ここ第一階層だぞ!?』
『B級の変異種じゃん! 逃げろ配信者!!』
『死ぬ死ぬ死ぬ!』
一気に加速するコメント欄。視聴者の九人全員が、画面越しの凄惨な死を確信した。
巨大な質量が、岩盤を削りながら冬真に向かって突進を開始する。
時速八十キロを超える肉の弾丸。まともに受ければ、安物の防刃ジャケットなど紙屑のように引き裂かれる。
だが、冬真は逃げない。
表情ひとつ変えず、迫り来る死の質量を冷徹な目で見据えていた。
敵の踏み込みの深さ。
前肢にかかる荷重の偏り。
突進のベクトルと、関節の可動域。
すべてが、冬真の中では「視えている」情報だった。
衝突のコンマ五秒前。冬真は魔法を使うでも、超人的な筋力で反撃するでもなく、ただ「一歩半」だけ斜め前に軸をずらした。
巨大な牙が、冬真のいた位置を空振りする。
すれ違いざま、冬真は手にした安価な直剣の「峰」を、魔物の右前肢の関節部分へ正確に叩き込んだ。
刃で斬り裂くのではない。突進の慣性を利用し、最も強度が弱く、荷重が集中している一点に物理的な衝撃を置いただけだ。
「ギャァァッ!?」
自らの突進力と、関節の軌道を強制的に狂わせられた衝撃により、変異個体は激しくバランスを崩した。
そのまま制御を失い、左側の強固な岩壁へと凄まじい勢いで激突する。
ドゴォォン! という轟音が響き、迷宮全体が微かに揺れた。
敵が壁にめり込み、動きを止めたその瞬間。
冬真が最初に行ったのは、追撃ではない。
弾かれたように上空へ視線を走らせ、激突の衝撃による「二次崩落の兆候」がないかを確認した。
頭上の岩盤に新たな亀裂の連鎖がないこと、三人の足音がゲート側へ遠ざかったことを確かめる。
空間の安全が確定した。
冬真は静かに息を吸い、壁際で混乱し、もがくように立ち上がろうとする変異個体へと歩み寄る。
岩の装甲が剥がれ落ち、無防備に露出した首筋。延髄の隙間。
そこへ、滑らせるように直剣の刃を突き入れた。
短く、くぐもった絶叫。
B級相当の変異個体は、反撃の機会すら一切与えられないまま、泥のようにその場に崩れ落ち、沈黙した。
魔素の光となって霧散していく巨体を見下ろし、冬真は剣についた汚れを払い落として鞘に収める。
呼吸は、ただの一度も乱れていない。
「……対象の沈黙を確認。周囲の崩落兆候なし」
業務報告のように淡々と呟き、冬真は追尾していた端末を手に取った。
コメント欄は、数秒の完全な沈黙の後、爆発的な勢いで流れ始めていた。
『……は?』
『え、今何が起きた?』
『一撃? うそだろ?』
『いや、動きがおかしかった。なんで突進食らってないの?』
『ラグ? 通信ラグでワープした?』
『てかCG合成じゃね? 画質荒いし』
『D級がB級をノーダメで倒せるわけないだろwwwヤラセ乙www』
『こんな手の込んだフェイク動画初めて見たわ』
安価な端末ゆえのフレームレートの低さと画質の荒さが、逆に「ヤラセ」や「CG」の疑惑を急速に膨らませていく。
冬真は流れる罵倒や疑惑の言葉に眉一つ動かさず、画面を指でタップした。
「安全確認が終了した。本日の配信を終了する」
一切の言い訳も弁明もせず、冬真はブツリと通信を切断した。
*
同じ頃。
迷宮の外、防音設備の整った配信ルームの中で、検証系配信者である雨宮澪は、モニターに映し出された暗転した画面を食い入るように見つめていた。
「……違う」
マウスを操作し、今しがた終わったばかりの過疎配信のアーカイブを即座にローカルへ保存する。
澪の専門は、迷宮映像の解析と魔素計測に基づく真偽の検証だ。世間に溢れるフェイク動画を数え切れないほど暴いてきた彼女の目が、画面の向こうで起きた事象に警鐘を鳴らしていた。
「加工じゃない。壁に激突した瞬間の環境音の反射、粉塵の舞い方、対象の光源処理……全部が完全に一致してる。ヤラセで用意できるレベルの演算じゃない」
澪は動画の再生バーを戻し、冬真が足を止めた「十秒前」の場面からコマ送りで再生を開始する。
一体、この男は何者なのか。D級という肩書きと、映像に残された事象が全く噛み合っていない。
そして同時刻。
国内トップクラスのクラン本部。豪華なソファに深く腰掛けていた現役S級探索者、神代岳のスマート端末に、クランの若手が面白半分で共有した数秒の切り抜き動画が流れてきた。
『ヤバいフェイク動画見つけました。D級がB級をワンパンしてます』というメッセージと共に。
神代は欠伸混じりにその荒い映像を再生し――直後、その目が鋭く細められた。
「……フェイク?」
神代が注目したのは、敵を一撃で倒した爽快なアクションなどではない。
巨大な魔物が出現する直前。
画面の中のD級探索者が、魔物の気配を察知した直後に見せた「視線の動かし方」だった。
「この男……敵を見るより先に、『退路』と『天井』を確認したな」
「……誰だ、こいつは」
神代は動画を冒頭に戻した。魔物が映る十秒前、男の視線はすでに退路へ動いている。
「……次の配信も見せろ」




