第1話
九月十九日。夜も更け、空は漆黒に染まり、兎たちは寝静まった時間。愉悦組織『ラビット』のアジトの廊下には、一人歩く黒白のフリルの塊がいた。『ラビット』のキャプテンである桜卯姫月は、のろのろとした足取りでそのまま執務室へと入っていった。ここは姫月が溜まった仕事を片付けたり、お菓子を食べたりするのに使っている部屋だった。暗闇の中、背を丸めた姫月は慣れた手つきで照明のスイッチを押した。一気に晴れた視界の中で、ふと置かれている時計が目に入る。そろそろ短針が天を廻りそうだった。顔を背けるように時計から視線を逸らすと、姫月は厚底の靴を鳴らして真っ直ぐと奥の事務机へと向かった。パニエにより膨らんだ大きなスカートをゆさゆさと揺らし、フリルとレースの塊は本革のチェアへと倒れ込むように座った。そして数秒、虚空を仰ぐ。マスカラの塗られたパッチリとした睫毛は、今にも上下がくっつきそうだった。黒いレースに包まれた手を机上に投げ出すと、姫月は頭上のミニハットを外すこともせずにその上に突っ伏した。まるで限界だったかのように、そのまま動かなくなる。夜の静けさが満ちた執務室に、すぐに彼女の寝息が聞こえてきたのだった。
***
「キャプテン! お誕生日、おっめでとうだよ~~! ……、およ?」
勢い良く開け放たれた扉の奥から、まるで鳩時計のように満面の笑みの黒白のフリルの塊が登場した。フリルが重なるベルスリーブから伸びた両手を大きく広げ、フリルがレースを作ってリボンでそれを絞り、その下からさらにフリルとレースが顔を覗かせているスカートがゆさりと揺れた。黒と白のみで構成された、胸元、袖の先に至るまでフリルとレース、リボンが限りなく埋め尽くしているこの服は、『ラビット』の制服である。彼女は人間離れした儚さを感じさせるその色素の薄い瞳を点にして、大きな薔薇とリボン、フリルに彩られたボンネットごと首を傾げた。室内の光景にきょとんとする。斜めに切られた内巻きの重い髪を揺らす彼女は方舟、『ラビット』の一員である。初見では読めないような名前だが、『ラビット』に属する者は往々にしてこのような傾向がある。
「……どうしたの?」
「あ、ノア!」
室内には、三人の少女がいた。全員『ラビット』の制服に身を包んでいる。部屋に元気に飛び込んできたノアを、事務机を囲んでいた二人の少女が振り返った。
「見てよ、ノアちゃん。大変なんだよ」
そう言って、少女はノアからも机の上が見えるように一歩横へずれた。腰まである長く艶やかなストレートヘアーがサラサラと靡いていた。二人の奥に置かれた事務机には、突っ伏して丸くなっている我らがキャプテンの姿があった。フリルに埋もれた背中が、穏やかに上下している。
「あれ……キャプテン、寝てる?」
「そうなんだよ!」
反対側から透かさず声が上がる。強く巻かれたボブヘアーはカシスピンクに綺麗に染まっていた。可愛らしい色に彩られた顔は、まるで一大事と言わんばかりの表情を向けていた。
「今日ってキャプテンの誕生日じゃん? でももうお昼過ぎてるじゃん?」
彼女は眉間に皺を寄せ、苦い顔をした。今日、九月二十日はキャプテンである姫月の誕生日だった。彼女は『ラビット』のメンバーと友達のように接することを好むため、『ラビット』のメンバーの多くは友達として彼女の誕生日を知っている。皆大好きなキャプテンの誕生日をめでたく思い、毎年この日を迎えると姫月にお祝いの言葉を掛けている。『ラビット』の少女達にとって、この日は特別な一日なのだ。ノアは部屋に置かれている時計へと顔を向けた。少女の言う通り、既に針は十三時近くを指していた。
「もうキャプテンの誕生日、半分終わっちゃってるんだけど! やばくない? なのに全然起きる気配ないし!」
カシスピンクの髪の少女は、焦ったように叫んだ。
「このままじゃ、今年のキャプテンの誕生日がなくなっちゃう!」
「う~ん。……あ、じゃあ紅鳳ちゃん」
ノアにアゲハと呼ばれた少女は、困ったような顔のままノアの顔を窺った。
「キャプテンを起こそう! まだ半分あるんだもん、今からでも間に合うよ~」
にっこりと穏やかに笑みを浮かべ、ノアはゆったりと両手を合わせて提案した。アゲハはカールしたボブヘアーを振り、笑顔のノアと熟睡している姫月を交互に見比べた。
「え、……いいのかな? でも一年に一度の特別な日が消えてなくなるよりはいいよねえ……?」
『ラビット』の少女達は、姫月が組織員達の『楽しいこと』に全力で協力してくれていることを知っている。自分達のために裏で尻拭いをしたり、他組織へ話をつけに行ったりしてくれていることも知っている。そのため彼女が疲れているのなら邪魔をしてはいけないことも理解している。普段なら眠る彼女を無理に起こしたりはしない。
「確かに……じゃあ、起こしちゃおうか。ケーキを食べられないのも可哀想だし、誰からも祝われないのも悲しいと思うし、この年の誕生日は一生に一度しか来ないもんね……?」
長いブロンドヘアーを揺らし、もう一人の少女も同意する。ノアは無垢な笑顔で頷いた。
「案山子ちゃんも一緒に起こそう!」
「寝坊助キャプテンの遅い朝食は、生クリームたっぷりの誕生日ケーキだね~?」
カカシと呼ばれた少女も、苦笑を零しながらそう意気込んで乗って来た。三人は改めて事務机を囲んで立ち、小さく寝息を立てている姫月を見下ろした。長い二つ結びを垂らした後頭部は、相変わらず起き上がる気配はない。並んだ三人は口を開き、大きく息を吸いこんだ。
「キャプテン! 朝……ってかもう昼だよ~~!」
「キャプテン! 起きて! 起きて!」
「誕生日だよ~~あと十二時間しかないよ~~!」
アゲハ、ノア、カカシの順で力一杯叫ぶ。部屋中に声を響かせたあと、静けさを取り戻した室内で三人は再度机上を見下ろした。姫月は突っ伏した体勢のまま、ぴくりとも動いていなかった。
「ええ? キャプテンアラームとか全然無視して眠れるタイプ? 図太すぎい!」
アゲハが困惑したように顔を近づける。姫月の規則正しい寝息が聞こえてくるばかりだった。
「よっぽど疲れてたのかなあ……。どうする?」
カカシが二人の顔を見渡す。アゲハは肩を竦めてみせた。
「……ま、五月蠅かったら自然と起きるんじゃない? 暫くこの部屋にいて騒いでいよーよ。もうお昼過ぎてるんだから、どっちみちそろそろ起きるでしょ……」
「そうだねー。じゃあここでお昼ご飯食べようよ! キャプテンも良い匂いに釣られて起きるかも~」
ノアの提案に、二人は素直に頷いた。三人は一度部屋を出て昼食を用意し、持ち寄ってきてカーペットの上に並べて食べ始めた。許可を取るべき人間が寝ているため、好き勝手しても誰も何も言わない。姫月を眺めながら、三人は談笑混じりにご飯という名のお菓子とおはじきを平らげていった。途中でアゲハのアイスが溶けて落ち、カーペットに染みを作った。結局、姫月は全く起きなかった。
「でね、虹ちゃんが『ブルー』の子の切った足をそのままにしてたから、一本土に植えて育てたらねー……」
短針は二を過ぎていた。三人は雑談に興じ、わいわいと賑やかに過ごしていた。途切れることのない少女達の元気な高い声、そして楽しそうな笑い声。しかし机の上の風景は変わらないままだった。
短針が三を過ぎて久しい頃、カカシの提案によりロシアンルーレットが始まった。最後に残った一発が実弾の場合だけ引き金は引かずに引き分けというルールで、都度ジャンケンの勝者がリボルバーを頭に当てて引き金を引いていった。結局五発とも不発に終わり、実弾は最後に残った一発だった。誰も死ぬことなく終わってしまい白けた空気が漂う中、三人の視線は自然と事務机へと向かっていった。彼女はまだ突っ伏したままだった。
気付けばレースカーテンの向こうの空は朱色を帯び始めていた。窓の外を確認していたアゲハが、苦虫を嚙み潰したような顔で振り返る。
「ねえ~、もう夕方なんだけどお……」
ノアは置かれた時計へと顔を向けた。時刻は十七時を過ぎていた。
「もう今日、あと七時間もないんだけどっ!?」
アゲハの天を仰いだ叫びにも、姫月は全く反応しなかった。寝息を立てて、事務机に突っ伏してすやすやと眠ったままだ。
「キツキちゃんの誕生日、どんどんなくなってるよ? もうマジで起こした方が良くない?」
「マジで、って?」
カカシがアゲハへ首を傾げる。アゲハは答える代わりに窓を離れ、ずんずんと事務机へと近づいていった。そして後ろから姫月の両腕をがしりと掴むと、ゆさゆさと体を振り出した。
「キャプテン! キャプテン! いつまで寝てるつもり? 誕生日! 本当になくなっちゃうってば!」
遠慮のない激しい揺さ振りにも、一向に姫月は起き出す気配はなかった。美しくカールした睫毛に彩られた瞼は、ぴったりとくっついている。
「……嘘、起きない……」
渋い表情で固まるアゲハの向かいで、カカシが姫月の顔へと徐に手を伸ばした。そして、ペチペチと頬を叩き出す。
「キャプテン! 早く起きないとアゲハちゃんにバターにされちゃうよ!」
最初は優しく叩いていたが、次第に音が大きくなっていく。ペチ! という音の後、カカシは手を引っ込めて姫月の顔を覗き込んだ。彼女は依然として眠ったままだった。
「全然起きない!」
カカシはくっと悔しそうに叫んだ。そして、困ったように奥の窓を見上げる。広がる空は赤く染まり、遠くで烏が群れを成して飛んでいた。
「ね、もしこのまま明日まで起きなかったらどうしよう……?」
「……」




