残された夏
九月中旬
夕方の空は高い。
雲は薄く引き伸ばされ、光が柔らかい。
風が川面を撫でる。
水は小さく波立ち、光を細かく砕いている。
蓮は一人、川沿いの遊歩道を歩いていた。
小学生の頃、鈴と競争した道。
息を切らして笑いながら走った土の道。
草の匂いが鼻に入る。
乾きかけた葉の匂い。
川の少し冷たい水の匂い。
あの頃と同じはずなのに、何かが違う。
隣に誰もいない。
足音はひとつだけ。
それでも、足は止まらない。
止める理由がない。
歩くことは、今の自分の選択だ。
橋の手前で立ち止まる。
欄干に手を置くと、金属がひんやりしている。
川面に映る自分を見る。
輪郭ははっきりしている。
目も、口も、揺れていない。
ぼやけていない。
「覚えてるよ」
声に出す。
風に流れて消える。
「ちゃんと覚えてる」
赤い提灯。
夏祭りのざわめき。
川に落ちたときの水の冷たさ。
風鈴の澄んだ音。
最後のありがとう。
どれも色がある。
匂いがある。
温度がある。
消えていない。
蓮はゆっくり息を吐く。
胸の奥に重さがある。
悲しみの重さ。
けれど同時に、あたたかい。
それは鈴がいた証だ。
空白ではない。
ちゃんと質量がある。
それを抱えたまま、前を向いている。
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数日後。
学校帰り。
夕焼けが街を橙色に染めている。
雫が隣を歩く。
距離は自然だ。
触れようと思えば触れられる。
「蓮」
雫が呼ぶ。
声は柔らかいが、逃げない強さがある。
「この前の続き、してもいいですか」
蓮は少し驚く。
「何の」
雫はほんの少し視線を逸らし、すぐ戻す。
「キス」
あの夏の日。
途中で止まった約束。
鈴が消える直前。
中途半端なまま置き去りにした時間。
蓮は空を見上げる。
高い空。
薄い雲。
風が吹く。
遠くで、どこかの家の風鈴が鳴った気がした。
振り返らない。
探さない。
胸の奥は静かだ。
「いいよ」
はっきり言う。
迷いはない。
雫が一歩近づく。
頬に手が触れる。
あたたかい。
確かな体温。
現実の温度。
目を閉じる。
唇が触れる。
短い。
けれど、逃げないキス。
離れたあと、雫が少しだけ照れて笑う。
「ちゃんと今、ここにいますか」
問いではない。
確認だ。
蓮はうなずく。
「いる」
その言葉は、自分自身に向けたものでもあった。
ここにいる。
過去ではなく。
今に。
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夜。
部屋。
窓を少し開ける。
夜風がカーテンを揺らす。
風鈴が鳴る。
ちりん。
澄んだ音。
机に向かう。
日記帳を開く。
最後のページの次。
白紙のページ。
ペンを持つ。
迷わない。
《新しい夏は終わった》
少しだけ考える。
続けて書く。
《でも、あの夏は消えない》
インクが紙に染みる。
胸の奥が静かにあたたかい。
鈴は消えた。
完全に。
声も、気配も、呼べば返る存在も。
だが。
好きだったという事実。
一緒にいた四十九日。
名前を書き続けた夜。
それは消えない。
消えないから、前に進める。
蓮は日記を閉じる。
窓を大きく開ける。
夜の空気が部屋に満ちる。
風鈴が鳴る。
ちりん。
今度は、はっきり聞こえる。
悲しい音ではない。
別れの音でもない。
始まりの音だ。
蓮は小さく笑う。
「ありがとう」
今度は泣かない。
空を見上げる。
星がいくつか、静かに瞬いている。
夏は終わった。
けれど。
あの夏は、ずっと残る。
胸の奥に。
あたたかい重さとして。
蓮は歩き出す。
ちゃんと、自分の足で。
止まらずに。
前へ。




