四十九日目
四十九日目
九月。
朝の空気が、わずかに冷たい。
窓を開けると、夏の湿り気が抜けた匂いが入ってくる。
蝉の声はほとんどない。
代わりに、風が電線を震わせる音が聞こえる。
四十九日目。
目が覚めた瞬間、蓮は呼吸を止めた。
今日だ。
胸の奥が静かに軋む。
それでも、声を出す。
「鈴」
部屋は静まり返っている。
一分。
二分。
三分。
鼓動が強くなる。
喉が乾く。
四分。
五分。
視界が滲む。
六分。
七分。
空気が重い。
八分目。
「いる」
届いたのは、ほとんど風と同じ震え。
声というより、存在の残滓。
蓮はゆっくり息を吐く。
「今日だな」
静かに言う。
「うん」
はっきりではない。
けれど確かに、鈴だ。
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午前。
蓮は一人、あの交差点へ向かう。
信号はいつも通り変わる。
車は流れ、人は歩く。
誰も立ち止まらない。
世界は、何も変わらない。
白線の上に立つ。
アスファルトは少し冷えている。
「鈴」
呼ぶ。
二分。
三分。
「いる」
弱い。
「光、どうだ」
少しの沈黙。
「すぐそこ」
声が震える。
「まぶしい」
正直な言葉。
蓮は強く言う。
「怖くていい」
「俺がいる」
風が吹く。
信号が青に変わる。
車の音が通り過ぎる。
「鈴」
「なに」
かすかな返事。
「俺の名前、言えるか」
長い沈黙。
一分。
二分。
「れん」
小さい声。
音だけ。
それでも届く。
蓮ははっきり言う。
「好きだ」
迷いはない。
「鈴」
「俺は、お前が好きだ」
三分。
四分。
胸が締めつけられる。
五分目。
「うん」
ほとんど息。
「知ってる」
その言葉で、涙が溢れる。
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夕方。
部屋。
窓が少し開いている。
風が入り、風鈴が揺れる。
ちりん。
澄んだ音。
蓮は机に向かう。
日記を開く。
《49日目》
ペンを持つ指が震える。
「鈴」
呼ぶ。
返事はない。
一分。
二分。
三分。
四分。
五分。
呼吸が荒くなる。
六分。
七分。
八分。
九分。
十分。
「いる」
ほとんど聞こえない。
風の奥で震える音。
「遠い」
蓮は静かに言う。
「消えるか」
正面から問う。
沈黙。
「うん」
否定しない。
「光、強い」
声が揺れる。
「怖い」
蓮は目を閉じる。
「怖くていい」
喉が震える。
「でも、俺は忘れない」
一語一語、はっきり。
「鈴」
「俺の幼馴染」
「俺の好きな人」
「鈴」
何度も呼ぶ。
風が強くなる。
風鈴が大きく鳴る。
ちりん。
その音の中で。
「ありがとう」
小さな声。
「アンタの中、あったかい」
蓮の視界が歪む。
「消えても」
声がかすれる。
「俺は覚えてる」
沈黙。
十秒。
二十秒。
三十秒。
一分。
二分。
返事はない。
「鈴」
三分。
四分。
五分。
風だけが鳴る。
風鈴が、もう一度鳴る。
ちりん。
その音のあと。
何もない。
「鈴」
六分。
七分。
八分。
九分。
十分。
返事はない。
胸の奥にあった気配が、完全に消えている。
音がない。
重さがない。
ただ、空白。
けれど。
温度だけが、残っている。
胸の奥が、あたたかい。
涙が止まらない。
「鈴」
最後にもう一度呼ぶ。
風が吹く。
風鈴が鳴る。
ちりん。
それだけ。
返事は、ない。
四十九日目。
終わった。
鈴は、消えた。
夏が、終わった。
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机の上の日記は残っている。
ページをめくる。
最初の日。
事故の日。
好きと言った日。
名前を書き続けた日。
インクが滲んだ跡。
震えた筆圧。
すべて、ここにある。
蓮は涙を拭う。
「鈴」
小さく言う。
返事はない。
だが。
胸の奥に確かにある。
音。
温度。
名前。
鈴。
夏が終わる前に、君は消えた。
それでも。
想いは消えていない。
風がもう一度鳴る。
ちりん。
今度は、少しだけ優しい音だった。




