声の距離
九日目。
朝、目が覚めた瞬間。
「鈴」
反射的に呼ぶ。
返事はすぐには来ない。
胸が冷える。
「鈴」
二度目。
数秒。
やっと。
「いるよ」
かすれた声。
でも昨日より、ほんの少しだけ輪郭がある。
蓮は小さく息を吐く。
「聞こえたか」
「うん」
鈴が少し笑う。
「朝から名前連呼とか、重い」
その軽口に胸が温まる。
昨日決めた。
毎日呼ぶ。
声を繋ぐ。
それが唯一の手がかり。
---
学校の廊下。
人混みの中でも、蓮は小さく呟く。
「鈴」
「いる」
返事が来るたび、胸が軽くなる。
昼休み。
屋上へ出る。
空は真っ青。
入道雲がゆっくり流れている。
「鈴」
「なに」
声が昨日より少しだけ濃い。
ほんのわずか。
蓮は空を見上げたまま言う。
「事故のとき、俺なんて言った」
沈黙。
やがて。
「鈴って」
小さく。
「それだけ」
胸がきゅっと締まる。
自分の名前を呼んだ声。
それが最後の音。
「じゃあ」
蓮は拳を握る。
「呼び続ければ、いけるかもしれない」
鈴はしばらく黙る。
やがて。
「根性論だね」
少し笑う。
「でも嫌いじゃない」
その一言で、わずかな光が灯る。
---
放課後。
雫と並んで帰る。
いつもより静かな時間。
雫が歩きながら言う。
「昨日のこと、考えてる?」
「ああ」
正直に答える。
鈴は静かだ。
干渉しない。
雫は小さく笑う。
「焦らなくていいよ」
その優しさが痛い。
「でもね」
雫は続ける。
「蓮、どこか遠い」
胸が揺れる。
「私の前にいるのに、誰か見てるみたい」
鋭い。
蓮は息を飲む。
鈴の気配がかすかに揺れる。
「ごめん」
思わず言う。
雫は首を振る。
「謝らないで」
まっすぐな目。
「ちゃんと考えてくれてるの分かるから」
未来が目の前にある。
手を伸ばせば掴める。
でも今は、鈴の存在が強すぎる。
帰り道。
蓮は小さく呟く。
「鈴」
「いるよ」
すぐに返事。
少し安定している。
「今日、少し楽か」
「うん」
ほんの少し。
「呼ばれると戻りやすい気がする」
胸が跳ねる。
「ほんとか」
「多分」
小さな可能性。
でも確かにある。
---
夜。
日記を開く。
9日目。
その下に書く。
今日、少し濃かった。
しばらくして文字が浮かぶ。
アンタがうるさいから。
線が昨日より少し強い。
蓮は強く書く。
明日も呼ぶ。
すぐに返事。
分かった。
うるさいけど。
軽口が嬉しい。
でも。
その下に小さく続く。
でもね。
蓮は息を止める。
呼ばれると、ちょっと痛い。
胸が冷える。
どういう意味だ。
返事が少し遅れる。
引っ張られる感じ。
この世界に。
文字が震えている。
蓮の手が止まる。
「鈴」
「なに」
「無理すんな」
今度は蓮の番。
鈴が少し笑う。
「アンタが始めたんだよ」
でも。
「痛いけど、嫌じゃない」
その言葉が刺さる。
呼べば戻る。
でも負荷がかかる。
削れる速度が早まるかもしれない。
それでも呼ばなければ薄くなる。
蓮は天井を見つめる。
時間は有限。
四十九日。
今は九日目。
残り四十日。
「どうする」
小さく呟く。
鈴は静かだ。
やがて優しく言う。
「アンタが決めて」
丸投げ。
でも信頼。
蓮は目を閉じる。
呼ばなければ自然に薄まる。
呼べば繋ぎ止められるかもしれない。
でも痛む。
どちらも正解じゃない。
どちらも間違いじゃない。
風が吹く。
風鈴が鳴る。
ちりん。
その音は昨日より少しだけ短い。
蓮はゆっくり決める。
「呼ぶ」
小さく。
「でも無理させない」
矛盾している。
でも今できる最善。
鈴がかすかに笑う。
「欲張り」
その声は昨日より少しだけはっきりしていた。
夏は進む。
九日目。
まだ序盤。
でも確実に終わりへ向かっている。
蓮は初めて本気で理解する。
好きになった相手が消えるかもしれない。
その現実は想像よりずっと残酷だ。
それでも。
手放す気は、ない。




