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目を開けると、いつものすすけた低い天井が目に入った。
同時に、自分にまとわりつくようなじゃ香の香りにとろりとなる。
あたしは何か錯覚して、もう一度眠ってダスティンの夢を見ようと壁の方に寝返り、目を閉じた。
「行き違いにならなくて良かったよ」
背中の方から、突然アグネロばあさんの声が聞こえて、驚いて目を開ける。
飛び起きると、ベッドの脇の衝立の向こうから、今度はダスティンの声が。
「昨夜は薬屋の家族の家に泊めてもらったそうだ」
「ああ、あの優し気な若い男の」
どうしてアグネロばあさんとダスティンが知り合いのように話しているんだろう。
「違う違う。店主の母親に親切にしてもらったのだ。いや、あの店主はここにも来たことが?」
店主でもその母親でも、どっちでも良いと思うけど、ダスティンにとっては大事なところらしい。
「ああ、冬場はここらは雪が積もって足場が悪いから、ジリアンは王都まで行かないんだよ。それでもあの子の作る薬がどうしてもいる時は、あっちから取りに来る。まあ、最近はそうじゃなくても時々やって来るけどね」
なぜかダスティンが黙り込む。それをどう取ったのか、アグネロばあさんがおかしそうに笑った。
「ひゃひゃひゃ、なんて顔してるんだい。まあ、男っぷりはあんたの方が数段上さね。けど、昨夜この家の前で晒してたあんたの情けない顔は忘れられんね」
「面目ない…」
昨夜?ダスティンは昨夜もここに来ていたっていうのかい?
とうとうあたしは我慢しきれず、寝床から降りると二人の前に出て行く。
「ばばさま!面倒かけたね」
衝立の陰から声を掛けながら出て行くと、一斉に二人がこちらを向いた。
ダスティンの、緩く結われた黄金の髪が揺れる。外套の下は、昨日の昼と違い実用的な装いだったけれど、こんな薄汚れた小屋の中では明らかに浮いている凛々しい姿が目に飛び込んできた。
彼の耳が瞬時に赤くなり、目を逸らされるのも。
アグネロばあさんは、肩にかけていたショールをさっと外すと、あたしの方に差し出した。
「目の毒だよ。これを羽織りな」
言われて自分の姿を見下ろし驚く。
いつの間に脱がされたのか、木綿のひざ下までの下着一枚しか身に付けていない。
あたしはショールを体に巻き付け、慌てて衝立の向こう側に逃げ込んだ。
小柄なアグネロばあさんが、一人であたしの服を脱がせるとは思えない。
まさか、ダスティンが…?!
上掛けのキルトの上に雑然と畳まれていた、一枚きりのよそ行きのワンピースではなく、いつもの木綿のブラウスにちくちくするウールのロングスカート、生成りのエプロンを身に付ける。
髪を手ぬぐいで覆いながら、寝床の横の棚、この家唯一の、手の平ぐらいの小さな鏡に映った自分を見て愕然とした。
どっからどう見ても、貧しい薄汚れた田舎娘がこちらを見つめている。
瞬時に、ついさっき自分が目を奪われた、ダスティンの端正な姿が目に浮かんだ。
そして、胸にせり上がるのは正体の分からない痛み。
いいや、分からないんじゃない。それに名前をつけるのを恐れているだけ。
昨日辺境から帰国して、久方ぶりに愛しい姫の花の顔を見つめた後の彼の目に、あたしは一体どう見えているんだろう…。
ああ、ここから出て行きたくない…。
あたしはおかしい。
こんなこと、考えることすら無意味なのに。
あたしはずっと、ただの傍観者なのに。
「ジリアン大丈夫か?」
衝立だけで仕切られた狭い部屋。すぐそこから聞こえるダスティンの気遣わし気な声。
「だ…大丈夫…。ちょっと、外に出てってもらえないかい?」
「ああ、ゆっくり仕度してくれ」
ちょっと言い方がきつかっただろうか。
言った端から後悔をする。
後悔するぐらいなら、もっと考えて話せばいいのに。
けれど、ダスティンは気分を害した様子もなく、急いで扉を開け、外に出て行った。
あたしは衝立の陰で、息をひそめながら全身でその気配を追う。
「せっかく一晩中あんたを待ってて、途中まで迎えにまで行ってくれたってのに、ちょっと冷たくないかい?」
いつからそこにいたのか、アグネロばあさんが衝立の横から呆れたようにあたしを見ている。
「一晩中って、昨夜から来てたの?」
目の悪いアグネロばあさんには、あたしはいつも表情を隠さない。隠す必要がないから。
あたしの顔には、今、どんなものが浮かんでるんだろう。
喜び?不安?それとも、何とも言えない醜いもの?
「ああ。昨日の日暮れ、あんたんちの前にあの人がいるのを見かけてね。あんななりだから目立つだろ?みんなの噂になると思ったから、あんたは帰ってきたら必ずあたしのところに顔を出すから、うちで待ってなって声をかけたのさ」
日暮れ?では、あの凱旋の行軍のあと、すぐにここに来たというのだろうか?
あの馬はきっと脚の強い名馬だろうが、それでも王都からここまで数刻はかかるだろう。
それに、凱旋の後なら、きっと夜には王宮で祝宴があったはずだ。
もしやそれに顔を出さずに?
「ところが、待てど暮らせどあんたは帰って来ないだろ?夜中に帰って来ることもあるまいと思って、昨夜はあんたの家に泊まってもらったのさ」
王都に帰って来て、何より先にここに来てくれたかもしれないという事実は、あたしの中にじわじわと歓喜の渦を広げていく。けれど、はたと『泊まった』という言葉にひっかかる。
目覚めた直後のことを思い出した。
自分の寝床で、ダスティンからいつもする、じゃ香のような香りに包まれうっとりしたことを。
(あそこで一晩眠ったってこと…?!)
衣服を解き、眠るジャスティンの姿を想像して、顔から火が噴き出そう。
「きっと今日は帰って来るから、待ってたら良いと言ったんだけど、待ちきれないのか、迎えに行くって馬で出ちまった。少しでも早くあんたに会いたかったんだね」
あたしはどんな顔をしているんだろう。
アグネロばあさんは、あたしを下からそっと見上げると、手ぬぐいで覆いきれなかったあたしの黒髪をすいて耳にかけてくれた。そして微笑みながら教えてくれる。
「途方に暮れた迷子みたいな顔をしなさんな。あんな立派な騎士様と、ジリアンがどういう関りなのかはあたしにゃ分からないけど、騎士様があんたを大事にしてて、あんたが騎士様を特別に想ってることはちゃんと分かるよ。だから、よくお話し」
昨日、ダスティンはアグネロばあさんに、あたしとどんな知り合いなのか話しをしたのだろうか?けど、本当のことなんてとても話せるもんじゃない。
「ありがとう」
そう言うと、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして微笑んで、アグネロばあさんはうなずき出て行った。
「お待たせ。じゃあ、ジリアンとゆっくりお話し」
扉の外、すぐのところにダスティンがいたのだろう。
アグネロばあさんと入れ違いに、彼が入って来た。
「今、湯を沸かしてお茶を淹れるね。座って待っていておくれ」
コンロに薪をくべ、火をおこそうとして、その手を後ろから掴まれる。
振り向くと、真剣な顔のダスティンがあたしを見つめていた。
「体調はどうだ?」
彼はあたしの咳を本気で心配している。
幸い、起き出してから今まで一度も咳は出ていない。
安心させたくて、あたしは「んんっ」とのどの調子を確認するように鳴らし、スーハスーハと深呼吸をしてみせた。
「ありがとう。馬に乗せてもらって、自分の寝床でひと眠りしたせいか、随分良くなったよ」
にっこり笑って返事をする。
けれど、ダスティンの表情は晴れない。
「本当に?俺には隠し事をしないで欲しい」
どうにも調子が狂う。
今まで何度も生まれ変わったダスティンをそばで見守って来た。
そして、その彼らとは、傍観者として少し離れたところから、同じ目線で接してきたはずだ。
なのに、今生のダスティンは、まるで輪廻の初めの彼と出会った時のように、あたしを小娘に戻してしまう。
いけない。
あたしは傍観者だ。
それも、自分勝手な傍観者なんだ。
心を仕切り直し、瞳を見る勇気はなくて、彼のすっと伸びた鼻梁に視線を落とし、口を開いた。
「あはは。どうしたんだい。そこに座って待ってておくれ。それよりも、今生じゃ初めて会うってのに、いきなりなんだい。あたしゃ昨日びっくりしたよ」
握られた手を笑顔で振り払い、あたしは背を向けると、炉に火をおこし、湯を沸かし始める。
ダスティンは不本意そうな顔をしたけれど、結局は、あたしが指さした粗末な椅子に腰かけた。
そして、訥々と話し始める。
「来るのが遅くなって、さぞ心配させただろうと思っていた」
会いに来るのが遅くなったことを詫びようというの?
昨日から今日の朝まで、ぐじぐじあたしが思い悩んでいたことを?
理由を聞きたいような聞きたくないような。
けれど、事実はもっと深刻な事態をあたしに突き付けた。
「実は俺が、今生で今までの生の記憶を取り戻したのは、二年前、辺境の蛮族を討伐に行く道中で、奇襲を受けた瞬間だったんだ」
背中越しに彼の話を聞き、あたしは血の気が引いた。
ダスティンが、前世の記憶を思い出すのは、あたしがかけた魔法ゆえ。
魔女が一生に一度だけかけられる、輪廻の先でも自分のことを思い出してもらえる大魔法。
それは、その魔女が生きている限り続く。
そう、生きている限り…。死ねばそれは無効となる。
今生のダスティンが、記憶を取り戻すのに時間がかかったということは、あたしのかけた魔法の効力が薄くなっているということだ。ひいてはそれは…。
「今までは子供の頃に思い出すことが多かったのに、こんなこと初めてで戸惑った。しかも、思い出してみれば、姿形に名前、騎士という生業まで、この輪廻の始まりの俺とそっくり同じだ。この姿で魔女殿…ジリアンに会いに行きたいと、何度途中でこの集落に馬を飛ばそうと思ったことか」
その頃を思い出すかのように、苦し気に話すダスティンの声音。
何も知らずに、なかなか姿を現さない彼に不安になっていた自分。
原因は自らにあったのに。
命が終わる予感が、次々に裏打ちされていく。
けれど、ただ、会いに来たいと思ってくれた、その言葉があたしに力をくれる。
しっかり…と、自分に声をかけた。
ダスティンの話は続く。
「だが、討伐はかなり厳しい状況で、何度か死も覚悟することがあったほどだ。多くの部下たちの命を預かる立場として、何とか私心を抑え、一日でも遠征を終わらせることに注力した結果が、昨日の凱旋だ」
死を覚悟という言葉に、ぞくりとした。さらりと話しているけれど、現実そうだったのだろう。
…けれど、今生のダスティンが、紅血の契約の誓願を果たさずに命を落とすことは、きっとなかったはずだとも思った。
「あたしは、何にも知らずにここでのほほんと暮らしてたよ。生きて帰って来て、良かった」
湯が沸いた。滋養になる薬草をこしただけのお茶を淹れ、あたしはダスティンの前に木のマグカップを差し出した。
初めて彼があたしの庵を訪ねてきた時も、こうしてお茶を出したっけ。
ただし、あの時は王様の庇護を受けた魔女として、高価な茶器でもてなした。
今は、これが精いっぱい。
「昔も、こうして茶を出してもらった」
マグカップを両手で包み、ダスティンがうつむき呟く。彼の言う昔は、きっとあたしが思い浮かべているのと同じ『昔』だろう。
あたしは座っていない限り見ることのできない、彼の可愛いつむじをじっと見つめる。
「あの時の茶の味は、正直覚えていない」
残念そうに話されて、あたしは思わず笑って言った。
「あんなに何杯も飲んだのに?」
その言葉にダスティンが顔を上げる。途端に目が合って、その視線に絡めとられたように身動きできなくなってしまう。
ずっと変わらない紺碧の瞳。
あたしをじっと見つめる時、その瞳はいつだって徐々に碧を深め、深海のような濃い碧になるんだ。
「何杯でも飲みたい」
「ジリアンが俺に淹れてくれるお茶を、何杯でも、飲みたい」
気付けば彼は立ち上がり、あたしのすぐそばに立っていた。
見下ろされ、両の手を掴まれ、視線以外を拘束される。
どういうこと?
こんなの、どうしたって言葉以上の意味を期待せずにはおれない。
自分に都合の良い妄想が頭の中で湧いては消え、湧いては消え、する。
「騎士様…」
思わず『昔』と同じ呼び方をしてしまった。
はっとして彼を見ると、明らかに落胆を浮かべている。
「今生こそ、ダスティンと呼んでくれ」
「騎士様と呼ばれるのは嫌だった?」
ダスティンは首を横に振る。
「あの時は、あなたの名前すら教えてもらえなかった。王様があなたを庇護していたし、あれで精一杯だった。けれど、今生は違う。あなたからではなかったけれど、名前を知ることも出来たし、これからは互いに名前で呼び合いたい」
「ダスティン…」
言われてすぐ、あたしの口から、今まで心の中でしか呼んだことのない彼の名前がぽろりと転がり出た。
「ジリアン!」
感極まったような声を上げ、ダスティンがあたしの頬をその両の手で包んだ。
通り名だったけれど、あんたが口にすれば、まるで真名のように大切に思える。
そして、
「はくはくはく!」
真剣な表情で彼が何かをあたしに伝えようとした。しかし、肝心な言葉はかき消されてしまう。
途端にダスティンが歯噛みした。
紅血の契約はまだまだ生きていて、彼を縛り付けているのだ。
頬の温かさが消え、その両の手がそっとあたしの肩を包んだ。
「姫を見つけた」
知ってる。
「この国の第一王女だ」
ええ、それも。
「姫を殺めるであろう人物も目星がついている」
では、まだその人物は姫の周りをうろちょろしてるってこと?
でも、そいつをどうにかすれば、誓願は果たせるってことだろう?
そして、想定通りの言葉の最後に、ダスティンが告げた。
「しかも、王女には、マグノリア姫の記憶がある」
やはり、これが最後の輪廻になるのだ。
きっと誓願は果たされる。
あたしの命の灯が消える前に。




