閑話1
私が王宮の奥宮に、侍女としてあがったのは……三年ほど前のことでしょうか。
今は王として即位された方の、妹姫の侍女としてあがったのです。
貴族とは名ばかりの下級貴族の出である私に、何故お声がかかったのかは今でもわかりませんが、断る気はありませんでした。
その頃家はたいそう貧窮しておりましたので、家の長女である私が働きに出るか、資産家の妻となって……もしくは妾にでもなって……実家に援助を請わなければならないような有様でした。
父母も必死に家の立て直しを図っておりましたが、父が家を継ぐ以前までの代々の当主の放蕩が祟って、なかなかうまくいかないようでした。
加えて学者肌の父は、貴族の家の当主には不向きな人間でもありました。
父も母も貴族としては変わり者なのでしょう、好きでもない者の所へ嫁ぐ必要はないと何度も私に言っておりましたが、家の窮状を見るにつけ、それも致し方ないだろうと思い定めておりました。
なにせ私の下には、跡継ぎである弟や、そしてまだ小さな妹もおります。 私はそろそろ嫁ぐことができる年齢です。そして父の元に、援助と引き換えに私を妻にという申し出があったのも知っておりました。父よりも年が上の貴族で、何より資産家でした。勿論正妻が居る方です。私を妾にと望んでいるのでしょう。
父が断っているのも知っておりましたが、いよいよどうにもならなくなれば……嫁ぐ事も仕方ないと思っておりました。
父母のように、好きあった者同士で結婚出来る方が、貴族の間では稀であることくらい知っておりますが……それでも心の中を冷たい氷が滑り落ちるような……心もとない気分になり、沈んだ気分で毎日を過ごしておりました。
そこへふいに来た知らせに、驚いたのは私だけでなく、父母も同じでした。
貴族と言っても、王宮で侍女として働けるような身分ではありません。何かの間違いではと首を傾げる私に、父は知らせを何度も読み返しながら、間違いではないようだと言ったのち、お前はこのお話をお受けして、王宮で働きなさいと言ったのでした。
支度金がお前だけでなく家にも出るようだし、それでしばらくなんとかなる。お前と引き換えに援助を受けたとしても、それは何の意味もないからねと……父には、私の考えなどお見通しで、その上でしっかり釘をさしてきたのでした。
王宮にあがった私を待っていたのは、目まぐるしい日々でした。
まず王宮にあがった日、侍女を統括する女官に先導され歩いていたのですが、進むにつれ何やらどんどん人気がなくなり、一体どこへ連れて行かれるのかと内心怯えておりました。
それを見透かしたかのように、女官はふいに振り向くと、貴方には奥向きで姫さまについてもらいますと言われたのです。
奥向きとは、と尋ねますと、公の場ではなく、王族の皆さま方が普段生活されている場所ですと答えが返ります。
そして、私的な場所ですから、若いお嬢さんたちが期待するような出会いはないですよとはっきり言われます。
今まで何かあったのでしょうかと首を傾げながらも、私はきっぱりと答えました。
私はここに働きに来たのであって、そのようなものは望んでおりません、と。
それならいいのですがと女官はいささか遠い目をしたのです。
おそらく、今までの侍女の中に、侍女としての役目を忘れて、褒められない振る舞いをした者がいたのでしょう。私は敢えて聞きもしませんでした。
そうして。私の侍女としての日々が始まりました。
貴族の娘としての立ち居振る舞いは身につけていたつもりでしたが、なにせ実家は火の車。日々の忙しさにまぎれ色々な所がおろそかになっていたようです。
年嵩の侍女たちにあれこれ指摘され恥ずかしくもあり、情けなくもあり……また泣きたくなったものでしたが、ちゃんとした所作をして、仕事をしておればきちんと褒めてもくれました。そして美味しいお菓子を頂いたのよと、お茶にも誘ってくれました。
厳しくとも優しい人たちに囲まれていたからこそ、多分に世間知らずだった私でも、勤めて行くことができたのだと思います。
そうして一年が過ぎ、二年が経つ頃になると、実家の方も状況が好転しておりました。父の研究にも成果が出始め、いくらか利益が入るようになっていたからです。
そう、父は貴族の家の当主をするよりも学び舎で研究をして居たかった人でしたが、家の跡継ぎが自分しかいなかったために家に戻って来た人間でした。
貴族の家に生まれながら、それがどうにも……着なれない服を着るようで、慣れない人でもありました。家の状態がそこそこよくなれば、父も好きな研究に没頭出来るのでしょうし、弟などは、自分が早く後を継ぐから家の事は心配しなくていいとさえ言ってよこしました。
弟も、父が当主に向かないのをよく知っているのです。
それでも、向いていないとわかっているからこそ、自分の出来る事を必死にし、家族のためにと駆けずり回っていた父を弟なりに思っているのでしょう。
一時は自分が何とかしなければと思い詰めた事が、今では遠い昔の出来ごとのようで、笑い話にさえなりそうな事でした。
その弟も成人し、それを機に当主の座を父から譲られました。若すぎる当主でありますが、幼い頃から父母の苦労を見ている分、何をどうすればいいのかよくわかっているうえ……父よりもはるかに向いています。
それをわかっているからこそ、父も早くに弟に当主を譲ったのでしょう。 どうみても私よりこの子の方が向いているよねえと苦笑いしておりました。
年若い息子に重荷を背負わせるようでと躊躇ってもいたそうですが、弟の、いいから継がせて下さい、父上では現状維持が精一杯でしょうが、僕なら借財を返した上でお釣りがくるほどにしてみせますよと言い放ったらしいのです。弟らしいと呆れる思いもしましたが、それは事実でもありました。
弟が当主を継いで以来、家の状態はどんどん改善し、今では殆ど借財も返し終えたと聞きました。
ようやく本当に安心したものです。それを見越したように弟から手紙が届きました。これで借金のカタに結婚しなくてもいいんだから、家に帰ってくればいいのにと言って寄こしたのでした。
そうは言っても、王宮で働くのは大変でもありましたが、とても楽しくなっておりましたので、しばらく帰るつもりはないと返事をしました。
働くきっかけが何であれ、まだ侍女の仕事を辞めるつもりはありません。
何より、奥向きの仕事は地味なせいか、はたまたいつぞやか言われたように、“異性との出会い”がないためか、侍女のなり手が居ないのだそうです。
それを知ってしまえば、のっぴきならない事情でもない限り、辞めようとは思いませんでした。
それになにより、私が侍女としてお傍近くに仕える姫さまは、とても気さくな方で、私たちにもよくしてくれます。王族としてお生まれになっているせいか気位の高さを見せる事もありましたが、こちらを困らせるような我儘を言われる事もありません。初めどんな無茶な我儘を言われるのかと構えていたのですが、それが拍子抜けするほと驚いたのを覚えております。
あまり他家とはつきあいはありませんでしたが……何せ我が家は貧窮しておりましたので……貴族の姫君の方が余程我儘を言ってまわりを困らせていたものだと思いました。
あまりに私が驚いていたせいでしょうか、他の侍女たちが笑いながら教えてくれたものです。
いわく、姫さまは今でこそ落ち着かれていらっしゃるけれど、ねえ。
兄上さまが来られるまでは、そりゃあもう大変だったのよ。
我儘は言われるわ、急に何処かへ行ってしまわれるわで。居なくなった姫さまを探して、王宮中を駆けずり回ったこともあるわ。
そうそう、兄ぎみたちもそれは同じでいらっしゃるわね。
王太子殿下は神経質で、碌に人を近づけなかったし、弟ぎみの方はよく癇癪を起して手が付けられなかったし。
そうねえ……今ではお二人とも大分変られたわねえ……でも、兄上は時々、何処かへ出かけられるでしょう?
そんな時は、やっぱり様子がおかしくていらっしゃるわよ。
確かにそうね。姫さまも落ち着かない様子になられるし。
一番上の兄ぎみに懐いていらっしゃるから、きっとお淋しいのね。
そうなのかと私は黙って話を聞いておりました。私は今の、明るくて気さくで、困るほどの我儘も言わない姫さましか知りませんので……曖昧に頷く事しか出来ませんでした。それを見て、他の侍女たちは意味ありげに笑いました。すぐに私たちの言った事が分かるわよと言いたげでした。
ええ、嫌でもわかりましたとも。
一番上の兄ぎみ、と言う方は、王の長子でありながら既に臣下に下った方でありました。
ここへ来て、私も初めてそのような方が居られたのだと知りました。
陛下にはお二人の王子と姫君しかお子は居られないと思っていたからです。
元来王宮で暮らしていなかった方らしいのですが、事情があって数年前からここで暮らしておられるのだと聞かされました。奥向きで働いている以上、そして姫さまの侍女である以上、お目にかかる機会は度々ありました。 王族として、いえ貴族としても腰の低い様子に驚かされました。
勿論、世話をされるのが当然だとふんぞり返られるのもいい気はしませんが、それにしても……仮にも王の長子です。何故と疑問が浮かぶのは当然でしょう。
そんな私に、侍女たちは教えてくれました。
あの方も色々事情がおありのようで、ずっと離宮で暮らされていたの。それで成人と同時に臣下に下られて。
それだからでしょうね、ここで暮らしているけれど、自分は臣下に下った身だから、わたしの方には余分な人出は要りませんなんて言われたのよ。連れてきた従者や侍女だけで十分なのですって。
実際、公の場には全く出られない方であるし、奥向きで暮らすには十分なのかもしれないけど……何だか、ねえ。頼りにされていないのが不満だと彼女たちの顔には書いてありました。
そのすぐあとくらいだったでしょうか。兄ぎみがお出かけになったとの話が瞬く間に奥宮に広がりました。それと同時にどういうわけでしょう、張りつめた空気が広がるではありませんか。
なぜと首を傾げていると、侍女の一人が教えてくれました。
兄ぎみが出かけられたからよ。だから殿下がたのご機嫌が悪くなるの。
ほんの小さな子ではあるまいし、まさかと思っておりましたが、それは恐ろしい事に真実でした。
勿論、殿下がたがあからさまに声を荒げたり、癇性に振舞ったりされたわけではありません。表面上はいつもと変わりなくお過ごしでした。それでも落ち着かない空気や、ふとした拍子に周りの空気まで凍らせるような、びりびりした空気を醸し出されては、余程鈍くない限り気付いてしまうというものです。
私も他の人たち同様、兄ぎみに、どうかはやくお戻り下さいと願うようになっておりました。
やがて兄ぎみが戻られた時は、心底安堵したものです。張りつめていた空気は解け、穏やかな雰囲気が戻っていました。
兄ぎみはご兄弟たちに、変わったことはあったかと尋ね、殿下がたは何もなかったとお答えになります。変わったこと、それは奥宮の空気でしたが、それを言いだせるような者は誰ひとり居りません。
だから兄ぎみは、ご自分が不在の間、ご兄弟たちがそれはそれは恐ろしい空気を醸し出していることなど、知らぬままなのです。
それでもね、と侍女の一人は言います。
昔の殿下がたの様子に比べれば、凍りつくような空気を作られても今の方がずっとマシだと言うのです。
一体以前の殿下がたの様子がどのようだったか、空恐ろしい気がするのですが、私はなにも聞かないことにしました。
古参の侍女たちは、どうにも手を焼いていた殿下がたを落ち着かせたと言う事で、まず兄ぎみを信頼し、ついでその人柄にも惹かれたのでしょう。よく、なぜもっとご自分を大切にして下さらないのかしらと零す声が聞かれます。それはついこの間も、嘆くような声で聞かされました。
殿下が王として即位する、その式典に、兄ぎみは出ないと言われたそうです。
臣下に下った自分は身分も低いし、出られる立場でないと言うのが兄ぎみの言い分でした。
身分よりなにより、兄ぎみは先王の長子で、即位した陛下の兄なのですから、誰が文句をつけられるというのでしょうか。それでも兄ぎみは頑として譲らす、結局式典には出席されなかったそうでした。
兄ぎみは公の場に出る事がお嫌いなようだと、奥宮で働く者は皆知っております。それだからこそ、私のようにその存在を知らなかった者もいるのでしょう。自分はあくまでも臣下だと言い張り、ことさらに線を引こうとする……兄ぎみはきっとご自分の立場を誰よりも弁えていらっしゃったのでしょう。
殿下がたや姫さまの、兄ぎみへの傾倒ぶりは……以前を知らない私から見ればまるで依存しているかのようで、いささか怖くさえ思うものでした。兄ぎみご自身が、ご自分がどれほど依存されているか少しもお気づきでない様子が尚更恐ろしく思えました。
それでも……大きな責任を伴う立場に居られる方々ですから、心の拠り所が必要だと言う事も、分かっておりましたし、それに殿下がたにしても姫さまにしても、もう少し成長して大人になれば、いずれは兄離れもし、他に大事な方を見つけていくのだろうと思われたからです。
その時が来るまで、どうか兄ぎみにはここに居ていただきたいと思っていたのですが。
不穏な噂を耳にして、私は眉をひそめました。兄ぎみがここから離れるらしいのです。それも今までのような旅行や領地への一時帰還ではないらしいとのことでした。もともと、一時的にとこちらで暮らされている方ではありましたし、弟ぎみの即位を見届けて、もうそろそろ、と思われたのかもしれません。
寝耳に水の話に、奥宮で働く者たちの間には不安が広がりました。
いずれここを去る方だと皆わかっておりましたが、兄ぎみの居られない間の殿下がたや姫さまの様子を知る者としては、まだ早いと思ってしまうのです。
兄ぎみがここを去るとして……さて殿下、いえ陛下や殿下、姫さまのご様子はいかほどになるでしょう。
今から、きんと張りつめた空気が広がる様子がありありと想像できます。
それを思うと、憂鬱なため息が零れるのを止める事は出来ませんでした。