第4話 十三歳の若君
揚易棠の部屋から脱走したコオロギは、回廊をぴょんぴょん跳ねていく。
「ああっ、行かないで!」
追いかける薇薇を待つわけもない。
自由の味を知ったコオロギは、黄色い野菊の葉陰に見えなくなった。
うわぁ……どうしよう。
恐る恐るふり返り、上目遣いに戸口の様子をうかがう。
仁王立ちする揚易棠の靴のつま先が見えた。
(まずい)
よりによって、お仕え初日にこんな失態を犯すなんて。
クビになったらどうしよう。
「すぐ探しますっ!」
茂みを探ろうと、手を伸ばした瞬間──
「手を出すな!」
しわがれた声で怒鳴られた。
「は、はいっ!」
背中に熱湯をかけられたかのように、薇薇は飛び上がった。
慌てて、頭を低く垂れる。
『謝らないと。えっと、作法は……』
柳掌事から教わっている。
そのうえ、先輩侍女たちが「ほらほら、実践してみなさいよ」とイジメてくれたおかげで、幸か不幸か身体がしっかり覚えている。
跪礼の作法。
両膝を地面につき、頭を深く下げ、手を前にそろえる。
「申し訳ございません」
しとやかな声で、ひと言。
完ぺき。
しばらく間があった。
あれ?と思った次の瞬間、つかつかと揚易棠が近づいてくる。
きっと「顔を上げよ」と言うはずだ。
言われても、すぐに上げてはならない。
そのままじっとして、「もうよい」と言われてから顔を上げる。
──はずだった。
いきなり髪を引っ張られた。
三つ編みにして耳の後ろで留めていたお団子を、ぐいとつかまれたのである。
いたずら好きの三つ下の弟ですら、こんな真似はしない。
痛みに耐えきれず、思わず素の自分が出た。
「ちょっと!」
黄色い声が出た。勢いで立ち上がる。
まともに顔を見た揚易棠は──かなり小柄だった。
同い年の十三歳であるはずだが、頭ひとつ分ほど小さい。
自然と薇薇が見下ろす格好になった。
幼さのある丸い輪郭ながら、端正な顔立ちである。
一筆で描いたような整った眉がきりりとこめかみに伸び、奥二重の瞳を長いまつげが縁取っていた。その眼光は鋭い。
「”ちょっと”?」
薇薇は、はっとした。
それは、つい今しがた自分の口から出た言葉だ。
どう転んでも、使用人が主に対して使うひと言ではない。
「も、申し訳ございません!」
今度は、心からの謝罪が出た。
「今日中に探せ」
頭の上から、しわがれた声が降ってきた。
「はい?」
「聞こえなかったか」
しまった。『聞き直してはならない』のだった。
この屋敷は、聞き直さずにはいられないことばかりだ。




