3.異界は実在した
ホットミルク。
数々の小説や映画やドラマ・マンガの世界で、悪夢にうなされ夜中に目覚めて眠れなくなった少女の――あるいは今カレのことを元カレに相談しに行くという、利己的な乙女心を抱えたビッチの――多様に傷ついた臓腑と心を癒す古典的小道具として、ホットミルクほどよく登場してきた飲み物があるだろうか。
「おいしいわ……ありがとう」
ミルクと言っても、これは牛乳ではなく牛に似た何かの乳だそうだ。恐る恐る口を付けたが、味は牛乳そのものだ。ハチミツのような香りが鼻をくすぐり、ほんのりと甘みが感じられたのは、これを出してくれた人物の心遣いなのだろう。古典的とはいえホットミルクの効果はそれなりにあった。
お腹がじんわりと温まるのを感じ、ほぅ、とため息をついたあたしは、どうにかパニックを起こしそうだった気持ちを落ち着けていた。そして優しげに、しかしわずかに不安げに瞳を揺らしながらこちらを見ているハチミツモドキ入りホットミルクモドキを供してくれた人物に、あたしはお礼を言った。
「そう……よかった。こっちの世界の動物を掛け合わせて、牛に近いものを作るのは結構大変だったけど。苦労したかいがあったよ」
よほどの巨木を切り倒したのだろう。直径二メートルを超える巨大な切株のテーブルを挟んであたしと対面して座る少年が、顔をほころばせた。
「…………本当に、あなたなの?」
あたしは両手で木製のマグカップを包むように持ち、湯気の向こうに問いかけた。
「ああ……僕だよ。アリサ」
「……信じられないわ」
「仕方ないよ。僕だって、今でも半信半疑なんだから。まあ、ゆっくり考えてくれればいい」
勇者エルバインに負けず劣らずの美少年は、ふさふさの睫毛に縁どられた真っ赤な目を閉じて嘆息し、首を横に振った。全ての光を吸収してしまうような漆黒の髪が、その動きに合わせて揺れ、そこへイチョウに似た黄色い葉が落ちてきた。
季節は秋。
あたしがジュエルミナスに連れて来られて、すでに半年が経過していた――。
あたしが目覚めたのは、今から遡ること五か月前。
「アリサ様……アリサ様!!」
イセリナがまたしても謎パワーを発揮して、地球観測を体験した直後に気を失ったあたしは、切なげな呼び声で意識を取り戻した。
誰かの声は、まるで水中に潜っているときのようにくぐもって聞こえた。音の高さからして、女性のものであることは分かったが、いまひとつ誰の声か判然としなかった。
判然としなかったといえば、あたしの手足の感覚もそうだった。深海を泳ぐでもなく海流に運ばれていくクラゲのように、自分の四肢の重さというものをほとんど感じなかったのだ。立っているのか寝ているのか。上下左右の感覚もあやふやであり、瞼は重く、無理矢理開こうと思うとわずかに痛みが走った。
「アリサ様!!」
両瞼の痛みによって、いくらか覚醒したらしいあたしの脳は、呼び声の主がイセリナであると判断した。しかし相変わらず、目を開こうとすると瞼の痛みが襲ってくるため姿は見えなかった。そこで呼び声に応えようと口を開くことに挑んだあたしは、上下の口唇が縫い付けられたように動かないことに気付いてまた驚いた。瞼のときのように痛みは感じなかったものの、どのようにしても上下の口唇が離れることはなかった。
結果として、「むむむむー!? むーむっむんっむむー!! (イセリナー!? どうなってんのよー!!)」という何とも難解な暗号を発信することになった。
「ダメダメ。もうしばらくマユの中で大人しくしていないと。イセリナちゃんも大声で話しかけたらダメだろ?」
「イングリッド……ごめんなさい。アリサ様がお目覚めになったのが嬉しくて、つい」
「アリサちゃんも、こっちの空気に馴染むまでは大人しくしててね」
少年とも少女ともつかない声が語りかけてからさらに一週間ほどで、あたしは「マユ」とやらから出された。
あたしの身に何が起こったのか、この半年ほど何をしていたのかを説明しよう。
半年前、神崎の暴言にキレた勇者とイセリナは、帰還用の魔晶石――魔法の力を溜めこむことができる特殊な石――を使って、転移魔法を発動してジュエルミナスへと帰ってきた。
一定範囲内の人間をまとめて転移させるという乱暴な魔法が込められていたそれは、「森の大賢者」ことイングリッド・マムルステインという少年の様にも少女の様にも見える人物の発明だそうだ。
ジュエルミナスは本当に存在した。「マユ」から出たあたしはそう認めざるを得なかった。
「マユ」とは、魔素が満ちるジュエルミナスの空気が肌に合わない者のために、イングリッドの祖先が開発した機械で、魔素が少しだけ混ざった溶液を満たしたドーム状のケースに入り、体表からじわじわと魔素を吸収させるんだとかなんとか。
とにかくそれのおかげで、少しずつあたしの身体はジュエルミナスの空気に順応していったわけだが、施術の完了まで一か月もかかったのだそうだ。そんな奇想天外な話を得意げに説明する大賢者を自称するおチビに食って掛かろうとするあたしを、妖精の大軍が止めたことも、異世界肯定派へと鞍替えした理由の一つだ。
ちなみに神崎は、今でもマユの中で眠らされているはずだ。
ジュエルミナスは魔王出現以来緊迫した状況が続いている。異世界から人間を連れて来たというだけでも大事件であり、本来なら勇者とともに国王と接見して指示を仰ぐのが筋だそうだ。しかし、現れたのがあのような下衆では何を言うかわかったものじゃない。国王に不敬な態度を取れば、殺されてしまうかもしれないなどと聞いたあたしは、彼をマユから出そうとするのを止めた。
イセリナは「別に死刑になっても宜しいんじゃございませんの?」と剣呑な表情だったが、警察組織の人間は、どこで何をやっているかを必ず記録に残しているものだ。なぜなら警察官が行方不明になるということは、一般人が姿を消すよりも犯罪に巻き込まれている危険が高いと認知されているからだ。
神崎がペンション冬月を訪ねることを誰にも話していない可能性は低いし、携帯の通話履歴にはあたしの番号が残っているはずだ。日本に戻ったときに必ず警察がやってくる。それは避けられないだろうが、最低限あの下衆には生きていてもらわないと、突然帰還したあたしに疑いの目が向けられてしまう。それだけはごめんだ。
ペンション冬月から地球を飛び出してジュエルミナスへやって来た。それはもう疑いようがなかった。あたしが見ている長い夢だという可能性はもちろんゼロではないが、そういうパラノイア的思考は破滅を生む。
面倒な考察や証拠固めなど必要ない。変な髪の人間が魔法を連発し、魔王だの魔物だのと本気で戦っていて、妖精が飛び交う異世界は、間違いなく存在する。それは分かったから帰してくれと懇願するあたしに、可愛らしい顔を少し曇らせた大賢者は首を振った。
「転移魔法はとっても複雑なんだよ。アリサちゃん一人で発動できるわけじゃないから、またイセリナちゃんか勇者が一緒に行かなきゃならないでしょ? 往復分の転移魔晶石を作るのには一年はかかるなあ」
そのくらいあれば、エルちゃんは痩せて、魔王倒せるんじゃない?
森の大賢者イングリッド――遠見の魔法とやらを駆使して異世界を見渡し、「魔素に侵されていない清浄な土地でダイエット計画」の発案者――は、新緑を思わせる碧の目を片方閉じて、可愛くウィンクを決めたのだった。
勇者が痩せられるかどうかは保証できないが、転移魔晶石が出来上がるのをただ待っていても仕方がない。そう思ったあたしは、とりあえずイセリナと共に、勇者を痩せさせるべく行動を開始した。
まず、体重を知るべし。
ジュエルミナス人には、体重を測るという概念がなかった。重さの単位にはダインというものが存在していて、これは純金――金属は地球にあるものと同じようなものだったのでそう呼ぶ――のインゴッド一枚に相当するそうだ。マムルステイン家の金庫にて一枚持たせてもらったところだいたい一キロくらいと思われたので、便宜上金のインゴッド一枚を一キロと呼ぶことにした。
さて、怪力の勇者――なんと、素手で一抱えもある木を根こそぎ引っこ抜くことができた! 彼の身体を流れる魔素の量が尋常でないために、ジュエルミナスにいるときの勇者は本来のスペックを十全に発揮する――に命じて人が乗れる厚い板を切り出させ、さらにその四隅に丈夫な縄を通して端を束ねて結び、一人乗りのブランコのような物を造らせた。
束ねた端を妖精たちに持ち上げさせたところ、勇者一人を持ち上げるのに初日は百匹の妖精が必要だった。
続いて勇者を降ろし、同じブランコに金のインゴッドを乗せていく。八十枚のインゴッドを持ち上げるのに必要な妖精は八十匹だった。単純計算で行けば、百枚のインゴッドを持ち上げるのには百匹の妖精が必要だろう。残念ながらマムルステイン家に金のインゴッドはそれだけしたかなかったし、それ以上検証を続けるのも面倒になったため、勇者の体重をだいたい百キロとし、「妖精七十匹で勇者を持ち上げられるようにするのが目標」と定めた。
ちなみに妖精のリーダーというか、透明なトンボのような羽を二対持つ彼らに女王と呼ばれる存在が、「エルバインを持ち上げる前に金塊を持たせてくれれば、何人もが重いものを持たずにすんだのに……」とぼやいていたのは聞こえないフリをしておいた。
次に必要だったのが、「勇者がなぜ太ってしまうのか」という謎を解明することだった。しかし、これの答えはすぐに出た。巨木を引っこ抜くほどの筋力をもつエルバインだ。その基礎代謝が低いとは考えにくく、よほどの大食漢なのかと思いきや、冬月ではちゃんと我慢できていたし、大人一人前くらいの量でそれなりの満腹感を得ていたようだった。詰まる所、奴は魔力に頼り過ぎだったのだ。
となれば、魔力に頼らず運動し、ちょいと食事制限でもすればすぐ痩せられるんでないの。と考えるのが自然だ。あたしは、妖精たちが作ってくれる異世界料理を味わいつつ、よくわからないなりに食事制限をさせてみた。と言っても、どの料理がどの程度のカロリーなのかまったくわからないため、全ての料理を少量ずつに減らしただけだ。何かの栄養素が足りなくなって――例えばビタミンC不足で壊血病にでもなったらたまらない。
異世界では勇者エルバインはヒーローであり、食材の買い出しに街へ行けばいつも人だかりができていた。
戦時中だからなのか、街にもレンゼル国の兵士とやらが常駐していて、エルバインが来ると必ずガードしていたところからも、勇者が国家にとって重要な人物であることが伺いしれた。そんな人間を病気にでもさせてしまったらどうなる。あたしは異世界で犯罪者扱いなんてごめんだった。
そんなこんなで食事制限生活一週間。勇者を持ち上げる妖精の数が二匹減った。適度な筋トレを交えながらのダイエット生活は、順調な滑り出しを見せたようだった。疲労回復に魔法を使うことを禁止したのも功を奏したのだろう。
始めのうちは空腹を訴えていた勇者も、後半からは慣れてきて、むしろ少し残すようになった。胃袋が小さくなった証拠ではあったが、あまり食べないのはよろしくない。食べずに運動すると、筋組織が分解されてむしろ代謝が落ちてしまう。
胃腸を休める意味でプチ断食をするのは悪くないが、アスリートは消費した分だけ栄養を摂らなければならないのだ。
こんな風にあたしが考えるようになったのも、森に時々現れる魔物――ステルス機能のように、周囲から姿を隠すというイングリッド謹製の護符とやらがあるにも関わらず、それを看破して出現する強者――の振るう力の恐ろしさと、巧みに連携をとりつつ、時にイングリッドのトンデモ発明品をぶっ放して倒す勇者たちの力を目の当たりにして、魔物の王であるという邪悪な存在を打倒するのに必要不可欠だと実感したからだ。
あたしの考えた筋トレメニューが良かったのか、わずかな食事制限と適度な魔物討伐のおかげで、勇者の体重は順調に減っていた。始めのうちはぶうぶう文句を垂れていた妖精たちも、徐々に頬肉が落ちてイケメンになっていく勇者の周りを飛び回って喜んでいた。
そして、今日。
ジュエルミナスにやってきて半年。勇者の体重が金のインゴッド八十五枚分になった日。
魔王が現れた。
秋晴れの空の下、筋トレに励む勇者を館の窓から見ていたあたしとイセリナ、そしてイングリッドであったが、すさまじい速さで飛び込んできた妖精女王の報告――魔王が上空に現れた――を聞いた二人は慌てて外へ飛び出していった。
唐突に大賢者の館の庭に降り立った魔王は、イングリッドのステルス護符を焼き払い、侵入者が魔王であると瞬時に認識して発動したイセリナの結界――上位の魔物ですら触れれば火傷では済まなかった美しくも強固な半透明のそれを軽々と粉砕し、魔力全開で繰り出された勇者の拳を受け止めて、黒い魔法で彼を吹っ飛ばした。
突然の出現に驚愕しつつも、すぐさま戦闘に入った勇者たちを前にして、当然のように攻撃を始めた魔王は真っ黒なフード付きのローブを纏い、背中にはカラスのような翼が生えていた。その羽毛の一枚一枚が油でも塗ってあるようにてらてらと鈍い光を放ち、魔力の質なんてわからないあたしにも、放たれるオーラが禍々しいものであることが分かったが、それがかつて聞いた「瘴気」ではないことも分かった。なぜなら勇者はまだ、鎧を装備できるほどにはシェイプアップ出来ていなかったのだから。
魔王が瘴気とやらを放出して一気に勇者を殺してしまわなかったのは、勇者たちが繰り出す攻撃をまったく寄せ付けない圧倒的な力を振るう彼の余裕がそうさせたのか。攻防はしばらく続いたが、徐々に勇者たちは傷つき、その身体にはダメージが蓄積していった。
魔王の一撃で勇者が吹っ飛び、顔面から大量出血した。痛みにのたうつのを無表情で――本当に何の感情も籠っていない目で見降ろした魔王が、彼に向かって黒い魔力を振るわんと手を動かしたそのとき、イセリナとイングリッドが走った。青い髪の美女が結界で勇者を守りつつ、回復魔法を発動した。碧の髪の少女が着弾すると大爆発を起こす投擲武器を乱発した。
耳をつんざく轟音と、空に浮かぶ雲を赤く染める爆炎が上がった。
あたしは耳を塞ぎ、目を背けたが、爆音のせいで一時的に麻痺した聴覚でも聞こえるほどの叫び声を聞いて、思わず声のした方を見やった。
魔王は、どうにか立ち上がって繰り出した勇者の右拳を躱して二の腕辺りを掴み、そのまま肩口から引きちぎっていたのだ。
勇者達が魔物と戦うのを見続けるうち、ある程度のスプラッターシーンは見慣れていたあたしだったが、魔王が放り投げた勇者の腕と、肩口から噴水のように迸る血を目にして悲鳴を上げてしまった。
しまったと思ったときにはもう遅く、魔王があたしの方を見た。
魔王のルビーのように赤く光る目があたしを射抜いた瞬間、大きく見開かれた。次いで血の気が引いたような紫色の唇が動いて発せられた言葉は、まだ聞こえ辛かった耳にもはっきりと届いた。
「……アリサ?」
「……は?」
魔王ははっきりとあたしの名前を呼ぶと、漆黒の両翼を広げて瞬時にあたしの眼前に移動した。勇者と彼に回復魔法をかけているイセリナは動けず、イングリッドの投擲武器は底をついていた。
「アリサ……まさか、こんなところで会えるなんて」
「え? な、なにがですか? あたしは、あんたなんか――」
知らない。という前に、下っ腹に感じた衝撃とともに視界がブラックアウトし、気付けば知らないところに寝かされていた。
ろうそくの明かりに照らされていて、自分が寝ていた場所がジュエルミナスでは一般的なログハウス風の建物ではなく、石造りの堅牢な造りの部屋であることが分かったが、決して狭くはない、十六畳ほどの部屋の扉は施錠などされておらず、恐る恐るそれを開くと魔王が出迎えた。
そして今。
あたしは魔王が出してくれたホットミルクモドキを飲みながら、彼と話をしている。なぜ突然現れた魔王に連れ去られ、のんきにこんなことをしているのか。
それは、魔王が勇者と仲間の二人は殺していないと断言したことと、彼があたしに名乗ったからだ。
「自分でも信じられないけど……僕は間違いなく、葛城冬人なんだ」
魔王は、なぜか自嘲気味に笑って、湯気が立たなくなったカップの液体に紫色の唇を付けた。




