~夏のしらべ~5
三
セミの声が狭い部屋の中を埋め尽くすように降ってくる。
研之介はゴロリ、ゴロリと畳の上で何度も寝返りを打った。艶本はもう読み終わり、放り出してある。今日はなんの予定もない。
「……っ」
研之介は腹に力を入れて起き上がった。
出かけたのは大家の長吉の家だ。こちらも盛大に戸が開け放たれている。
「おや、研さん」
長吉はすそを帯にはさんだだらしのない格好で奥から玄関に出てきた。着物がしわだらけになっているのを見ると、どうやら横になっていたらしい。
「大家殿、何か仕事はないか? 昨日も今日も畳を温めているだけでは、俺も畳も腐ってしまう」
「そうおっしゃられてもねえ……」
長吉はうちわでバタバタと自分の鼻をあおいだ。
「そういや、研さん。あなたのお父上、羽佐間の大殿さまのお具合がよくないって与平さんから聞きましたけど、いいんですかい、家へ戻らなくて」
研之介は一瞬眉を寄せたが、極力表情を消して答えた。
「俺が戻ったところで仕方がない。顔を出せばお光の方に嫌味を言われるだけだ」
「お光の方って……お母上でしょうが」
「最初に会ったときから母とは思うなと言われているのでな」
研之介の素性は、江戸より北へ二〇里離れた相内藩藩主の庶子にして次男坊だ。義母や、次期藩主である兄とともに江戸詰めの身。
「俺がこうして屋敷を出ていることでお光の方も心穏やかでいられるのだ。誰が好きこのんで心持を鬼に変えられよう」
研之介は、幼い頃より実子と同じに江戸屋敷で育てられたが、正室である義母は彼を愛そうとはしなかった。ことあるごとにつらく当たられ虐められ、屋敷では身の置き所がなかった。
兄がなにかと庇い、面倒をみてくれなければ、この年まで成長できなかったかもしれない。
家にいるとき打ち込んだのは剣術だけだった。帰りたくなくて、夜遅くまで道場で竹刀を振るい、あちこちに出稽古に出かけ、それに飽き足りなくて道場破りまでしてまわった。
二年前、屋敷を出てから、ようやく息ができたように思えたものだ。
「まあ、最初に与平さんに研さんを紹介されたときは、お城の若様に庶民の仕事ができるのかね、と心配でしたが、なんのかんのでこうして二年、なんとか暮らしていけてますものねえ。おみそれですよ」
「うむ、市井の生活の中でのさまざまな仕事は珍しくどれもやりがいがあったよ」
屋敷の中で義母の蛇のような視線に怯えて暮らすよりは幸せだと思えた。
「だが、昨日今日と何も仕事がない。蓄えは減っていく一方だ」
「研さんの腕を活かせるのはやっぱりやっとうの仕事でしょうけど、このところ用心棒の口もございませんでね」
「もっこ運びでも皿洗いでもなんでもやるぞ。とにかく家にじっとしているのがたまらんのだ。いろいろと余計なことも考えてしまいそうだし」
「余計なことというのは?」
「………」
研之介は喋りすぎた、と視線をそらした。それに長吉は妙な含み笑いをする。
「そりゃああれでしょう、先だっての色っぽい文に関係してることでござんしょう?」
関係していると言えばしている。あの日、ざる屋の入佐吉に引き取られた二人、夏鈴、信吾のことが気になってしようがないのだ。
「研さん、余計なことを考えてしまうのは暇だからじゃありませんよ。あなたの胸の中でなにかが納得いってないから、いろいろと考えてしまうんじゃございませんかい?」
「それは―――」
「もやもやがあるならばーんとぶつかってみるのもひとつの手でございますよ」
長吉はあの日あったことを知らないはずだが、その言葉は研之介の背中を押した。
「そうだな、気になっているなら確かめてみればいいのだ」
研之介は長吉に向かって頭を下げた。
「ありがとう、大家殿。俺は今から心のもやを晴らしにいこうと思う」
「はい、いってらっしゃいまし」
長吉はうちわでばたばたと研之介に風を送った。




