~夏のしらべ~4
スタリ、と障子が開くと、そこに絣の着物を着た幼い男の子と、少し年上の女の子が座っている。
男の子はべそをかき、女の子の方はその男の子の肩を両手で抱いて、ぎゅっと唇を結んで中の男たちを見ていた。色白で目の大きな可愛らしい顔の女の子だ。
「子供……二人?」
「男の子は信吾。女の子は夏鈴【かりん】。夏鈴ちゃんは去年琴菊さんが吉原から引き取った禿です。琴菊さんが吉原にいる間、ずっと面倒を見てたそうです」
夏鈴と呼ばれた女の子は、つ、と両手の指を廊下について頭を下げた。
「どうか」
夏鈴の声が部屋に響いた。
「どうか信吾の父【とと】さまになってあげてくんなまし。信吾は琴菊姐さんが死んで独りぼっちなんでありんす。まだたった三つでありんす。もし信吾を育てるお金が心配なら、わっちを吉原に売ってそのお金で育ててくださいまし」
甘く、あどけない声なのに、出るのは流暢な廓言葉だ。
「夏鈴ちゃん」
治平が慌てた様子で少女の背中に手を置いた。
「なんてこと言うんだい。琴菊さんはおまえを吉原に置いておきたくなくて引き取ったんだよ。お前に普通の女の子の幸せをあげたくて、旦那さんにお願いしたんじゃないか」
「わっちは元々吉原で生まれ、吉原で育ちました。遊女になるのが定めの身。琴菊姐【あね】さまのおかげで三年間、楽しい暮らしをさせてもらいました。だからわっちは姐さまに恩を返さないと」
夏鈴は顔を揚げると信吾の頭を撫でた。
「信吾の姉として、琴菊姐さまの娘として過ごした三年。わっちはとっても幸せでござんした。この思い出があれば、吉原に戻っても生きていけます」
大人びた言い方だが、少女はまだ一〇才にもなっていないだろう。しかしその決意を秘めた目はこの部屋の誰よりも落ち着いていた。
「おまえ―――」
研之介は思わず片膝を立てた。少女の決意が哀しく胸を打ったのだ。
「なんとなんと―――なんと健気な!」
入佐吉がまた甲高い声を上げた。膝をついたまま素早く娘のそばまで行くと、その手を取った。
「そういうことでしたら、よござんず。この○亀屋入佐吉があんたらを引き取りましょう! わたしの子供かどうかはどうでもいい。琴菊さんの忘れ形見として、お嬢ちゃんの心意気に応えるために大切に育てますよ」
「おい……」
研之介が声をかけると伊佐吉はくるりと振り向いた。
「なんです、お武家さん。あなたが引き取るとでも?」
「え、いや……」
伸ばしかけた手が下がってしまう。
ちらりと周りをみたが、与ノ助も紋次もうつむいたりそっぽを向いたりして視線をあわせようとしない。伊佐吉以外は子供を引き取るつもりはなさそうだ。しかし。
「本当におぬしが二人を引き取るのか?」
「ええ、そうですよ。そう言ってるじゃないですか」
伊佐吉は研之助を睨んでくる。
「自分の子供として大切に?」
「もちろんです」
「だけどさっきは―――」
あんなに引き取るのをいやがっていたくせに。
「だから言ってるじゃないですか。この夏鈴ちゃんの心意気に打たれたって」
「それは―――俺だって」
「失礼ながら」
伊佐吉は研之介の姿を上から下までじろじろと見た。
「どう見ても子供を育てる余裕があるようには見えませんがね」
むっと研之介は口を結んだ。確かに汗じみた着たきり雀のなりではそう言われても仕方がない。
「お二人もよござんすね?」
伊佐吉は与ノ助と紋次に向かって言った。
「は、はい……」
「……ああ」
二人ともなんだか口ごもるようにして応える。
研之介は夏鈴に目をやった。
「お前はいいのか? この男にひきとられて」
「わっちになにが言えましょう」
夏鈴はひやりとするような冷たい声音で言った。
「わっちらは寄る辺のない身。差し伸べてくださる手がほかになければ、それにすがるのみでありんす」
じっと大きな目で見つめられ、研之介はいたたまれない気持ちになった。
確かに自分は子供など引き取れない。責任も取らずに口だけ出す権利などないではないか。
「わかった……」
「それでは伊佐吉さん。あなたに夏鈴ちゃんと信吾ちゃんをお預けしてよろしいのですね」
治平が畳に手をついた。
「ありがとうございます。琴菊さんに代わってお礼を言います。この子らを可愛がってやってくださいまし」
治平が頭を下げるのにならって、夏鈴も頭を下げた。信吾はそんな二人を見て、あわてて真似をして頭をさげる。
「みなさんも、琴菊さんに関わった方として、立ち会っていただきありがとうございます」
「……」
なにか釈然としない、座りの悪い思いをしながらも、研之介はうなずいた。
その理由を尋ねられたとしても、伊佐吉が気に食わないから、としか言いようがない。これがたとえば人の好さそうな与ノ助ならば、安心もできようが。
いや、このさい、人相の悪い紋次だとしても、伊佐吉よりは好感が持てる。紋次が伊佐吉をひっくり返したときには「おっ」と思ったのだ。
「それでは伊佐吉さん。子供たちは身の回りのものを持たせてあとから参らせます。準備のほうをよろしくお願いします」
治平の言葉に伊佐吉は笑った。
「身の回りのものなど必要ありませんよ。うちにも子供がおりますからね、当分はそれで足りるでしょう。身一つでよこしてください」
「はい、明日の朝には」
伊佐吉は残った三人に目を向けて「それじゃあお先に」と出て行ってしまった。与ノ助が一瞬腰を浮かせたが、じきに力なく座り込んでしまう。紋次が小さく舌打ちした音が聞こえた。
研之介は顔をあげて信吾という幼子を見た。子供はなにが行われているのかわかっていない、あどけない顔で研之介を見返す。
大きな澄んだ目をしていた。白目の部分が青みがかっているほど美しい。じっと見つめてくる。
不意に胸が疼いた。
琴菊の顔は、正直言って曖昧だが、こんなふうにじっと見つめられたことは覚えている。吸い寄せられるようにその小さな顔を両手で抱き、はじめての口づけを―――。
女を知らなかった研之介は、確かに琴菊の中に女神を見た。この世の中にこんなにも美しく尊いものがあるのかと思った。
そして今、自分をまっすぐ見つめている幼子の瞳も、その中に神を棲まわせているように美しい。
「―――」
だが、研之介は首を振った。自分に子供など育てられるはずがない。自分は引き取りを拒んだのだ。
「お先に失礼する」
研之介は立ち上がった。与ノ助がすがるようなまなざしで見たが、視線は返さなかった。
信吾と夏鈴の横を通り過ぎるとき、ちらっと二人をみたが、少年も少女も研之介の方は見なかった。