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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
政変
47/62

決断

 琉が共王となって一年が過ぎた。

 それは煌登が帝位に就き、袁永建の天下となって一年ということでもある。

 堰氏の天下が終わり新たな袁氏の天下となったことで、混乱が治まり泰平の世が戻ってくると期待されていた。しかし、それは現実のものとはならなかった。

 真っ先に袁永建が行ったのは、玄安の朝廷における支配権を揺ぎ無いものにすることだった。

 朝廷内の重職である三公九卿のうち、半数が袁姓であり、残る半数も袁氏の姻戚などの縁者で占められた。玄安において、袁永建の行いを称賛する者は数多くいるが、袁永建を批判する者は皆無となっていた。

 その間にも琉が共藍において大人しくしており何の反応も示さなかったことで、袁永建は琉が共藍で共王の座に満足していると見た。

 そしてすぐにその本性を表し、確保した支配権をある目的のために行使し始めたのである。

 その目的とは、私腹を肥やすことであった。

 賄賂を取り何の功績も能力もない者を官職に就けた。そうして得た財で豪華絢爛な私邸を建造し、そこで毎夜毎夜盛大な酒宴を催した。

 また袁永建が売ったのは官職だけではない。爵位までも売った。その売爵の中で特に大きなものは、弦袁氏の総本家と言える鋳山(ちゅうざん)袁氏へのものであった。

 袁氏は元々は弦の属国である鋳山国の公家である。袁永建は弦国内の袁氏の当主であったが、元々は鋳山国の袁氏が本家である。

 その本家の爵位は伯でしかなかった。しかしその弦の朝廷を支配する袁永建は、その鋳山袁氏を何の功績もなしに侯爵を飛び越えて公爵にまで昇格させた。当然ながら、朝廷内から異論は一切出されなかった。

 爵位を与えるということは、同時に封地を与えるということでもある。それはその土地の税収を懐に入れる権利を与えるということであり、それは即ち弦の国庫への収入が減ることにも通じる。弦の国庫はもはや袁永建の私物のようなものである。欲深い袁永建が自身の実入りを減らすだけで終わるはずもない。

 目減りした税収を補うため、袁永建は民に重税を課した。そして袁永建から爵位と封地を買った者たちは早く元を取るため、袁永建に倣うように自領において重税を課していった。

 袁氏の天下は、堰氏の天下の再来ではなかった。堰無夷は複雑で過酷な改革が民を苦しめはしたものの、その根底には善政を行おうとする堰無夷独自の正義があった。ただ、過大な理想と妄想によって、それが暴走したに過ぎない。

 しかし袁永建は善政を行う気はなかった。ただただ栄華を楽しみ、私腹を肥やし、一族からの尊崇を集めることに愉悦を覚えるだけであった。

 結果、弦国内の混乱は、堰無夷の生前以上のものとなっていた。

 再び弦の民は塗炭の苦しみを味わっている。


 再び天下に混乱が満ちたことで、弦の民からある声が湧き起こりつつあった。

「共王を帝位に!」

 元々民からの人気のあった琉である。帝位継承順位を考えても、本来は現在帝位にいる煌登よりも上位であったのだ。

 また、平民出身の母を持ち有力な外戚の存在しない琉は、堰氏袁氏と続けて外戚の悪政が続いた弦国民にとって最後の希望とも言える。

 その声が上がるのは自然な流れだった。

「今こそ、民のために立ち上がるべきです!」

 衛業が再び琉に決起を訴えていた。

 一年前、煌登の帝位践祚の直後からそれを訴えていた衛業だったが、当時は民の生活を戦乱に晒すわけにはいかないという琉の決断に訴えを取り下げていた。

 しかし再び民は苦しみを味わっている。

「かつては民の生活のためにと矛を収めましたが、事ここに至っては再び矛を取ることこそが民のためです」

 衛業だけでなく、衛舜をはじめ多くの臣下や共藍城内の百官が、口を揃えてそれを訴えていた。

 しかし、琉はその決断を下せないでいた。

 何故、決起の決断を下せないのか。

 それは琉自身でもわからなかった。

 衛業の言う通り、民のためを思えば悪政を行う袁氏を除くという決断に躊躇う理由はない。

 本当に勝てるのか、という面についても、戒燕や衛舜がいる限り不安はない。そもそも琉の性情としては、勝てないかもしれないということが立ち上がらない理由にはならない。

――私は何を躊躇っているのだろうか。

 夜、琉は一人になると空を見上げていた。

 夜空には上限の月が浮かんでいる。

――初陣の時に見たのも、上限の月だったな。

 半分が欠けた月に、半人前の自分を重ねていた。

 これから満ちていく月。

――あの時から、私はどれだけ望月に近づけているのだろうか。

 あの時、傍らにいたのは戒燕ただ一人だった。

 その後、軍中から志道を見出し、共藍へ来て衛舜を召し上げ、琅琅祢祢の兄妹や清隆も臣下の誓いを立ててくれた。

 玄安で事件を起こした後も、彼らは琉を見捨てることはなかった。さらに道中に出会った子昂まで付いてきてくれた。

 彼らへの恩返しは、琉が帝位に昇る以外には成し得ないだろう。

 そして、その好機が目の前に訪れている。

――いったい何を迷うことがあるのだ。

 琉の心中を、何か靄のようなものが包み込んでいるようだった。

 その靄の正体はなんなのだろうか。

 再び空を見上げる。

 北の空には玄武が輝いている。衆南では見えなかった、弦の守護星である。

 衆南でも同じように夜空を見上げ、玄武を探した。その時、隣にいたのは玲寧である。

「こんなところで何をしているの」

 振り返ると、その玲寧が立っていた。

 玲寧は旅が終わった後も、そのまま共藍に残り共藍城の女官として働いていた。

「久しぶりだな」

 琉が毎日のように顔を併せている玲寧に対しその言葉を使ったのは、玲寧の手に握られた短剣を見たからであった。

 琉への仇討ちを成すために、琉が与えた短剣。

 衆南で「しばらく命を狙うのを止めてあげる」と言ったその言葉通り、その時から今までその短剣が琉に向けられることはなかった。

 久しぶりに自身に向けられた短剣を見つめながら、何故か安堵するような感情が湧いていた。

「こんなところで何をしているの」

 玲寧が同じ質問を繰り返す。

「星を見ていたのだ。衆南でも共にこうして星を見ていたな」

「そういうことではないわ。民が苦しんでいるということがわかっていながら何を迷っていいるのか、と聞いているの」

 はぐらかすような答えを口にする琉だったが、玲寧の問いの意味は初めからわかっていた。

 突きつける短剣と同じような、玲寧の鋭い眼差し。

 その顔は悲しみと怒りの色に満ちていた。

「貴方がこの短剣を私に握らせたとき、”まだやるべきことがある”と言った。それはなんだったと言うの」

 そのとき琉の頭にあったことは、皇帝煌丞への弁明という形で第二の堰無夷を誕生させないようにと訴えること。

 煌丞の死によってそれは成すことができなくなってしまった。しかし、それだけが死を拒絶する理由なのだろうか。

――違う。

 まだ民のためにできることはある。

 しなければならないことがある。

 まだ玲寧の刃に身を預けることはできない。

 ならばなぜ、決断が下せないのか。

「何故、立ち上がらないの」

 搾り出すような声だった。

「貴方は苦しむ民を救いたくて、義父上と向かい合ったのでしょう。そして民のために怒りを発し、民のために義父上を刺したのでしょう」

 その言葉にハッと息を飲む琉。

 そしてようやく気が付いた。

 玲寧の顔に、恨みの色がなくなっていることを。

「玄安の屋敷にいた頃の私は無知だった。義父上が全て正しく、義父上の定めた法に従わない民はなんて不届きなのだろうと思っていたわ。でも屋敷を出て、それが誤りだと知った。義父上が絶対ではないことも」

 玲寧の頬を、涙が伝う。

「貴方が義父上を刺し、私の居場所を奪ったことに変わりはない。だから貴方をまだ許すことはできない。でも貴方が”やるべきこと”を放棄したら、義父上の死は無意味なものになってしまう」

 短剣を握り直す玲寧。

「答えなさい。貴方の”やるべきこと”はいったい何なのか。答えられないならば、それを行わないと言うのならば……。私がこの場で義父上の仇を討つ……!」

 真っ直ぐに琉に向けられる玲寧の短剣と眼差し。

 琉はようやく自身の心中を覆う靄の正体がわかった。

「私は恐れていたのだな」

 溢れてくる感情をそのまま言葉にする。

「堰相国の屋敷へ向かったとき、私に恐怖はなかった。堰相国の過ちを正さねばならない。それしか頭になかったのだ。そしてその結果、堰相国の命を奪ってしまった」

 その事実を振り返ることは、琉にとっても玲寧にとっても辛いことだった。

 しかし過去を乗り越えなければ前には進めない。

「私の罪の重みを真に理解したのは、怒りが治まり我に返ったときではない。玲寧、お主に刃を向けられたときだ。堰相国の行いは全てが間違っている。堰相国は誰からも恨まれている。私はそう思っていた。しかし、それでも利ではなく情によって仇を討とうとする者がいた、という事実。全て正しい者がいないように、全ての者に好かれる者がいないように、全てが間違っている者、全ての者に恨まれる者もいない。それに気付いたのだ」

 そして、それは袁永建も同じことであろう。

「袁相国の無道は、堰相国のそれを遥かに上回っている。しかし彼を討つことが本当に正しいのだろうか。彼を討つことで玲寧のように悲しむ者がいるのではないか。また私を恨む者だ現れるのではないか。そう考えて恐れていたのかもしれん」

「何を軟弱なことを言っているの。貴方は皇帝になるのでしょう。誰かを悲しませることを、恨まれることを恐れていて、立派な皇帝になれると思っているの」

 ”立派な皇帝”

 玲寧がその言葉を使ったのは、琉の母の遺言を知っていたからだろうか。

「その通りだな。私には覚悟が足りなかったのかもしれん」

「そんなに恨まれるのが恐いのならば、私の恨みに身を委ねて楽になればいいわ」

「ははは、まだお主に仇を取らせてやることはできないな。私にはまだ”やるべきこと”がある」

「それなら私に恨まれ続けながら、その”やるべきこと”をやりなさい。義父上を討ったことを無意味なものにしたら、その時こそこの短剣で仇を討ってやるわ」

 言いたいことを言い終えると、玲寧は短剣を収めた。

 その顔に浮かんでいた悲しみと怒りの色は薄くなっていた。

 そしていつの間にか、琉の心を覆っていた靄もすっかり晴れていた。


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