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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
政変
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新帝

 無事に共藍まで帰りついた琉だが、それで全てが片付いたわけではない。

「兄上への弁明の使者を立てねばならない」

 それで堰無夷を刺した罪が赦されるとは思ってはいないが、堰無夷の悪政を訴えて煌丞に弦の民の現状を認識させることで、堰無夷の行った悪政を繰り返させないようにする。その一心で長途を旅してこの共藍まで戻ってきたのだ。

 しかしそれはもう叶わぬことであった。

「もはや、その必要はありません」

「どういうことだ、衛業」

 三公を独占していた国家の柱石である堰無夷が斃れた後の玄安。その動向に注視していた衛業が語ったのは、堰無夷の死以上の事件であった。

「皇帝陛下は、崩御なされました」

「兄上が……、皇帝陛下が、崩御された、だと……!」

 堰無夷が国家の柱石であったのなら、煌丞はその柱に支えられる屋根のようなものである。柱が一本なくなっても他の柱で屋根を支えることが出来ていれば、屋根の下にいる民が雨露に晒されることはないが、屋根が飛んでしまえばどれだけ柱があろうとも雨を防ぐことは出来ない。

 この激震の影響は弦だけに留まるものではない。

「いったい何があったというのだ」

「陛下は北西の国境を侵す戎駱族の討伐に親征軍を発せられました」

「ああ、そこまでは知っている。まさか、兄上は戎駱族に敗れて戦死なされたのか」

 自分で口にしながら、琉はそれをとても信じることができなかった。

 皇帝煌丞は皇太子時代は常勝無敗の名将と知られており、周辺の異民族に恐れられていた。それは皇太子という立場から常に選りすぐりの精鋭を率いていたという事情もあったが、凡庸な将ではないことは間違いない。煌丞が帝位に就き、弦国内が堰氏の改革による混乱という内憂に陥っても、異民族の侵攻という外患がほとんどなかったのは煌丞の武名によるところが大きい。

 当然、親征軍として率いていたのも精鋭中の精鋭だろう。煌丞がそう簡単に敗れるとは考えられない。

 そして、その予測は外れていなかった。

「親征軍と戎駱軍の戦は、親征軍の快勝でした。戎駱族は親征軍が近付いてくると、大した戦闘もせずに逃げ出したということです」

 戎駱族はそれほど素早く親征軍が動き出すとは夢にも思っていなかったのだろう。

「では、兄上は玄安へ凱旋後に崩御なされたのか。まさか病か」

 今度の予測は外れていた。

「陛下は凱旋の途上で崩御されました。玄安の近郊で賊軍の襲撃に遭い、混乱の中討たれたということです」

「玄安の近郊で、だと?! まさか……」

 戎駱族に敗れる以上に考え難いことである。

 弦国内は確かに混乱していた。しかしそれでも親征軍を襲撃し皇帝を暗殺し得る規模の賊軍が、無警戒に活動できるはずがない。ましてや玄安の近郊に一定規模の軍勢を動かせば、必ず玄安の守備兵に察知され排除されるだろう。

「賊軍の将は中陵県長の田祖良です」

「馬鹿な! 田県長だと?!」

 聞き覚えのある名に、再び驚きの声を上げる琉。

 玄安から逃げる琉を助け、その琉を反乱軍の旗印に掲げようとしていた人物である。田祖良は確かに堰無夷を息子の仇と恨んでいた。それだけでなくその堰無夷を重用した皇帝煌丞をも恨みの対象とし、謀叛を企てていたのは事実である。

 しかし田祖良は他者の声を聞き入れない暗愚な指導者ではなかった。琉を見送る際には浅慮を慎むことを約束していたのである。

「既に朝廷は中陵県に兵を差し向け、田祖良とその周囲の人物を誅殺したと発表しました。しかしここに疑問があります」

 淡々と事実の報告を続けていた衛業が私見を差し挟んだ。

「疑問、とは?」

「親征軍が中陵という小県の反乱軍に敗れたという点ももちろんですが、その後の動きがあまりに速過ぎるのです。陛下が崩御され、ほんの数日のうちに中陵に兵が入り田祖良を誅殺したというのです」

 本当に中陵の賊軍が親征軍を襲ったのであれば、当然玄安からの反攻も予測し抵抗したはずである。そうなればこれほどの短時間で落ちるとは考え難い。全くの無警戒のところを攻め落とされたとしか考えられず、それは即ち皇帝襲撃の主謀者が田祖良ではなかったということではあるまいか。

「おそらくは親征軍の中に刺客が潜んでおり、凱旋の途上で事を成し遂げた。そしてその主謀者は予め謀叛の企てを秘めていた田祖良に濡れ衣を着せて誅殺した、というのが真相ではないかと考えています」

 衛業の推測の通りだとすると、それを実行できる人物は限られてくる。

「袁相国の企てということか」

 親征軍に刺客を潜ませること、存在しない賊軍の襲撃を存在したかのように偽ること、賊の首謀者を田祖良に仕立て上げ誅殺すること。朝廷や軍を自由に動かせる人物でなければ、その全てを成し遂げることは難しい。それが可能なのは、相国となった袁永建をおいて他にはいない。

「しかし何故、袁相国はそのような凶行に及んだのだ。事実上の朝廷の支配権は既に得ていたのではないのか」

 その疑問の答えは、空位となった皇帝の座に就いた人物の名を聞けば明らかだった。

 新帝の名は煌登。

 平帝の寵愛を受けた袁貴妃が産んだ平帝の末子である。煌丞や琉の異母弟に当たる。

 朝廷の事実上の支配者とはいえ、それは煌丞の気紛れでどうにでも転び得る危ういものだった。袁永建はその地位を揺るがないものにするために、自身の甥である煌登を帝位に就けようと目論んだのである。

「しかし、皇太子はどうしたのだ」

 皇帝が崩御すれば、通常その座は皇太子が就くことになる。皇太子の座には煌丞の子である煌荘が就いていた。その立太子の礼に出席するために琉は玄安へ上ったのである。

「皇太子殿下は薨御されました」

 毒による暗殺だという。

 皇帝暗殺までした袁永建が、皇太子暗殺を躊躇うとは思えない。

 しかし袁永建の凶行はこれに留まらなかった。

「兄上が、長清公がまだおられるだろう」

 皇太子に次ぐ帝位継承順位第二位は、長清公煌崔である。煌崔は、平帝の第二子であり煌丞と同じ堰皇太后を母に持つ。

「長清公は皇太子暗殺の首謀者とされて捕らえられ、獄中で自刃したということです」

「なんと……。ありえないことだ……」

 煌丞と同じ母を持つ煌崔であるが、その性格は実兄に似ず権勢欲というものは欠片も持ち合わせていないような人物だった。それは幼い頃から「帝位に就くのは自分ではなく兄の丞だ」と考えていたからであろう。

 琉は特別この温厚な兄と親しくしていたわけではないが、長兄の傲岸な様と対極にいるこの人物が甥を暗殺までして帝位を望むとはとても考えられなかった。

「皇太子殿下が薨御されれば、帝位継承順第一位となるのは長清公です。それが凶行の動機とされましたが、煌登が帝位に就く障害となる存在を同時に排除するために仕組んだのであることは明らかです」

 先帝煌丞が崩御した時点での煌登の帝位継承順位は第四位。

 第一位の皇太子煌荘、第二位の長清公煌崔がいなくなれば、残るは共藍公煌琉のみ。そしてその時点で琉は弦国内にいなかった。

 その琉が帰国する前に全てを終わらせるため、袁永建は煌登を異例の速さで践祚させてしまったのである。

「殿下」

 全ての報告を終えた衛業が、決意を篭めた声で進言する。

「今こそ立ち上がるべきです。袁永建と煌登が血に染まった手で帝位を得たことは疑いありません。証拠はありませんが、多くの民がそう考えています。何より継承順位が上位である殿下を差し置いて皇帝践祚を宣言すること自体が順を()げ逆を行ったということに他なりません。そのような者を天子と認めることはできません」

 対袁永建の兵を挙げる。

 それは帝位を掴むための挙兵である。

 琉の母が遺した願いを叶える好機とも言える。

 衛業ももちろんそれを意識していたが、敢えて口に出さなかったのだろう。

 琉は周囲に控える臣下たちに視線を巡らす。

 戒燕、志道、志姫、琅琅、祢祢、子昂。皆が決意と期待に満ちた色を湛えて頷いた。

 衛舜だけは僅かな逡巡の色を見せたが、やがて同意を示した。

 清隆がいつものように華やかな笑みを浮かべるだけなのは、琉の意のままに従うということなのだろう。

「殿下」

 再び琉の決意を促す衛業の声が聞こえる。

 しばしの沈黙。

 やがて琉の口から発せられたのは……、

「ダメだ。兵を挙げることはできない」

 挙兵を見送る静観の決断だった。

「何故ですか!」

「今、弦国と民は堰氏の改革による混乱から立ち直ろうという大事な時期にある。兵を挙げれば再び混乱が弦国内に満ちるであろう。これ以上、民を苦しめることはできない」

 民のため。

 それが琉の決断の理由だった。

 しかし、この決断にどこか引っかかるものが残っているのも事実だった。

――これでいい。これでいいんだ。

 己に言い聞かすかのように心中に湧くその言葉は、帝位への未練によるものであろうか。

 琉にはまだその答えがわからなかった。


 琉が煌登の践祚に異を唱えなかったことに気を良くした袁永建は、新帝即位に伴う恩赦として琉の堰無夷殺害の罪を不問とした。

 それだけでなく、さらに琉を王に封じて共王とした。

 民に人気がある琉に慈悲を見せることで、民の反感を軽減する狙いだろう。

 しかし琉自身には王の位に昇ったことへの喜びはなかった。


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