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弦月を望む蛟竜  作者: 菅 樹
異国
43/62

衆南の夜

 衆南の夏は長い。

 弦の暦では既に夏は去り冬が近付きつつある時期になっているが、日が沈み夜の闇が支配する時間になってもまだ、肌に纏わりつくような暑さは居座ったままだ。

――遠くへ来てしまったな……。

 玄安から共藍へ移ったときも同じように感じたことを思い出す。共藍も玄安に比べれば随分暑かったが、衆南はそれ以上だ。

 窓の外へ視線を移すと、中庭には濃い夜の闇とそれに抵抗するいくつかの松明の光が揺らめいている。

 琉の目が中庭の中央に佇む人影を捉えた。

 その人影は背を向けていたため顔は確認できなかったが、それが誰であるかはここまで長い旅を共にしてきた琉にはすぐにわかった。

「玲寧」

 中庭に出て声をかける。

 玲寧はその声にちらりと琉の方へ目を向けたが、すぐに視線を上に戻した。

 琉もそれに倣い視線を上に向ける。

 満天の星空が頭上に広がっていた。

「玄武が見えないわ」

 ぽつりと呟く玲寧。

 ”玄武”とは弦の社稷を守護する聖獣の名であり、北の夜空に張り付く星の名でもある。常に北の空に輝く玄武は夜であっても方角を知ることができるため、弦を巡る商人や旅人たちに尊ばれている。しかしこの衆南においては地平の先に隠れて見ることはできない。

 弦の守護星である玄武が見えないことで、この地が弦の力が及ばない地であることを強く意識させられた。

 琉が意識を地上に戻しても、玲寧の意識はまだ上空を彷徨っている。

 夜空を見上げるその顔には、憂愁の色が僅かに浮かんでいた。

「玄安に帰りたいか」

 その言葉に、玲寧は弾かれたように琉の方へ視線を向けた。

 一瞬浮かぶ驚きの色。

 しかしそれはすぐに怒りの色に上書きされた。

「もう玄安に私の居場所はないわ」

 玲寧の居場所。

 それは義父である堰無夷のところにしかなかったのであろう。

 そしてその堰無夷の命を絶った剣を振るったのは、他でもない琉だった。

「堰家の中でも養女である私の存在を好意的に受け止める人はいなかった。今さら玄安の堰家に帰っても私の居場所はないのよ」

 言いながら懐から取り出したのは、あの短剣。

 鞘が払われた白刃が琉に向けて突きつけられる。

「私の居場所を奪った貴方に、いつか必ず報いを受けさせてやるわ」

 松明の光に煌く白刃は、しかしすぐに鞘に戻された。

「でも貴方が私を救ってくれたのも事実。まだ礼を言う気にはなれないけれど、しばらく命を狙うのを止めてあげる」

 玲寧が言っているのは、山賊に攫われたときのことであろう。自身を仇として狙う復讐者である玲寧を、琉は躊躇いなく助け出した。

「まだ貴方を許したわけじゃないということだけは忘れないでいなさい」

 それだけ念押しをすると、玲寧は背を向けた。


 屋敷内の静寂を破壊する鐘の音が鳴り響いたのはその時だった。

「何事だ!」

 明らかに変事を告げるその音。

 その音が合図であったかのように、三人の男が中庭に雪崩れ込んできた。

 刀を握り頭巾で顔を隠したその男たちは、明らかに賊であった。

 琉はすぐに剣を抜き、玲寧を背後に庇う。

『×××××××××!』

 衆南語で何かを叫び、刀を突き付けてくる賊。

 しかしその意味を解さない琉は返答することが出来ず、ただ剣を構えるのみ。返答のない琉に痺れを切らし、賊が斬りかかって来た。

 先頭の賊の剣を受け止めるが、三対一では琉に勝ち目は無い。

 二人目の賊の剣が琉へ向けられる。

 しかしその賊はそのまま大地に倒れた。

 瞬く間に三人の賊の死体が積み重なる。

「遅くなって申し訳ありません」

 清隆が刀についた血を払いながら、いつもの華やかな笑みを見せる。

「無粋と思い、少しの間離れておりました」

「ああ、助かった。こいつらは何者だ」

「わかりません。が、おそらく馬那王子の命を狙う賊かと」

 周囲に意識を向けると、屋敷の方々から怒号や剣戟の音が聞こえる。

「殿下!」

 すぐに戒燕と志道も中庭に駆け込んできた。

「武麻王子の手の者が馬那王子の命を狙い侵入してきたようです。守備兵に見つかったことで隠密行動を諦め、屋敷内の人間を手当たり次第に襲っています」

 戒燕が状況を説明する。

「賊の数は多くありませんが、屋敷の守備兵に混乱が見られます。速く安全な場所へ」

「馬那王子は」

「おそらくはご自身の部屋にいると思われます」

 琉は一瞬黙考し、すぐに指示を出す。

「志道は玲寧を連れて部屋へ戻っていてくれ。賊の狙いが馬那王子ならば、部屋にいれば安全だろう。その後は衛舜の指示通りに」

 黙って頷く志道。

「殿下はお戻りにならないのですか」

「私は馬那王子の元へ向かう。戒燕と清隆も付いてきてくれ」

 案の定、戒燕は異を唱える。

「お待ちください! 賊は馬那王子を狙っているのです。馬那王子の元へ行くのは危険に近付くことになります」

「だからこそだ、戒燕。馬那王子を放ってはおけない。客として厚遇を受けた恩を無視して見捨てることはできない」

 それだけ言うと、琉は戒燕の返事を待たずに駆け出した。

 問答の時間も惜しい。

 今まさに馬那王子に危機が迫っているかもしれない。

「ずるいお人だ」

 清隆が苦笑混じりに呟く。

 琉が危地へ向かって駆け出した以上、戒燕も清隆もその後を追うしかないのだ。


 琉たちが馬那王子の部屋の前に駆けつけたとき、既に賊もその場に辿り着いていた。

 室内に突入しようとする数人の賊を、たった一人の男が防いでいた。

 両手に握った二刀を広げ行く手を阻むその男は、馬那王子の臣下で須羅(すら)という名の武人である。

 明らかに消耗し肩で息をする須羅だが、その鬼気迫る圧力に賊たちは近付けないでいた。

「戒燕、清隆、賊を蹴散らせ」

 たった一人に気圧される程度の賊である。

 戒燕と清隆にとって、その命令の実行は極めて容易なものだった。

「大丈夫ですか」

 琉が気が緩んで崩れ落ちそうになる須羅を支える。

 円語を解さない須羅は身振りで謝意を示し、室内へ入るよう促した。

 須羅と共に馬那王子の部屋へ入ると、すぐに馬那王子が駆け寄ってきた。

 室内には馬那王子の臣下、瑠奴(るぅど)がいた。彼は武勇こそ須羅に及ばないものの、兵を率いたときにその真価を発揮する将だという。

「須羅! 無事だったか! おお、共藍公が助けてくれたのか」

「厚遇のご恩に報いるため参りました。今の状況はどうなっているのでしょう」

「わからぬ。須羅と瑠奴のお陰でこうして無事でいられた」

 馬那王子は消耗しきった須羅を椅子に座らせると、すぐに瑠奴に指示を出す。おそらく屋敷内の兵をまとめに向かわせるのだろう。

「戒燕……、いや清隆、共に行き手助けしてくれ」

 流は戒燕を行かせようをしたが、その顔にこの場を動かぬ意志が見えたためすぐに清隆に向き直った。

 清隆は笑いながら頷くとすぐに瑠奴と共に駆け出した。


 清隆と共に駆ける瑠奴が片言の円語で語りかけてきた。

「アナタの主君とあの大男はなかなかの人物らしいナ」

 馬那王子は流たちが来るまで、二人の臣下が傍を離れることを許さなかったらしい。馬那王子は自身の武が人並み以下であることを自覚するがゆえに臆していたのだろう。

 しかし琉たちが現れた途端、すぐに元の堂々とした王子の姿を取り戻した。

 その変化を最も至近で見ていたのが瑠奴だった。

「あの大男、郭戒燕はあの孟琅琅にも勝った男だ。いずれ弦国最強の武人と呼ばれることになるだろう。あの男に任せておけば何の心配もいらない」

 琅琅の名に瑠奴は驚きの表情を見せた。その名は衆南の武人には大きな意味を持つ。

「では、アナタの主君は」

 問われた清隆は、華やかな笑みを浮かべて断言した。

「いずれ弦国史上最高の皇帝と呼ばれることになる」


 馬那王子の屋敷を襲った賊は、瑠奴の指揮で落ち着きを取り戻した兵たちによってすぐに鎮圧された。

 馬那王子や琉とその臣下たちにも被害はない。

「賊の一人を捕らえ首謀者を聞き出させているが、武麻の名は出さないだろう。まあ余り武麻を追い詰めるとまた短慮を起こしかねないからな。慎重に事を進めるさ」

 馬那王子としては内戦に持ち込まれないように朝廷内の政略上の争いで完結させたい。馬那王子には何か知恵があるのだろうか。しかしそこまで琉が介入することはできない。

「今回は共藍公の助力があったために早々に鎮圧できた。何か礼がしたいが」

「礼などと……。私は馬那王子からの厚遇に報いただけです」

「厚遇は交易路再生の礼だと言っただろう。恩を残したまま帰ることは許さぬぞ」

 やはり強引な馬那王子に、琉も苦笑する。

「では、馬那王子が王位に就かれた後に桟河の故地をお還しいただきたい」

「桟河の故地、か……。あの地は武麻が力を示すために攻め取っただけだから、衆南としても失って惜しい地ではない。しかし弦や共藍としてもあの地を得たところで利益は少ないのではないか」

「弦にではなく、桟河族にお還しいただきたいのです」

 その申し出に馬那王子の顔は驚きの色で染まる。

「それは共藍にとって利益がないどころか、損になる可能性すらあるのではないか」

 現在の共藍における桟河の一族の存在は小さくないものである。故地を取り戻し、治水工事の中核を成す桟河の一族が共藍を離れれば、共藍としては喜ばしい事態とは言えないのではないか。

「私が今まで彼らに助けられてきたことは事実です。ならば、その報いとして私にできることは何であろうとしてあげたいのです」

 それは偽らざる琉の気持ちだった。

「わかった。私が王位に就いた暁には、桟河の故地を返還することを誓おう」

 馬那王子は居住まいを正し、神へ誓約の言葉を捧げた。

 それは衆南語であったため琉には理解できなかったが、荘厳な雰囲気は十分に感じられた。

――相変わらず場の空気を作るのが巧みなお人だ。

 神への誓約が終わると、穏やかに微笑んだ。

 それだけでまた場の空気が弛緩する。

「やはり私の目に狂いはなさそうだ」

「それは、どういう意味でしょう」

「私は弦流の観相を多少修めているのだが、貴方ほどの高貴な気を纏う人間を観たことがない」

 観相とは、相、主に人相を観ることによって行う占いである。

「私の観相はまだ未熟のため必ず帝位に就けるとは断言することはできないが、一つ断言できることがある」

「なんでしょうか」

「貴方が帝位に就かなかった場合、それは弦にとって大きな損失になる、ということだ」

 その言葉が冗談や世辞の類でないことは、馬那王子の顔を見れば明らかだった。

「弦の民と、友好国としての衆南のために、貴方が弦の帝位に就くことを祈っている」

 幼い頃から卑しい血と蔑まれ続けた琉にとって、これほどの評価を受けた経験は乏しい。しかもその相手は衆南の王子という高貴な人物なのだ。

「ご期待に沿えるよう力を尽くします」

 琉は喜びと困惑が混淆した複雑な表情のまま頭を下げた。


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