A-2 レオナとヘインズ
◇◇◇ 回想 ◇◇◇
「レオナ、腕に力を込めすぎだ。腕の力で無理やり開くのではなく、扉……引き戸を開くように。体全体を使うのだ」
「えー、難しいよ。これ扉じゃないもん」
山の中腹にぽつんと佇む小屋……我が家の前にある広場で、私は老騎士のお爺さんに教わりながら弓を構えていた。
家周辺の広場を除き、起伏の激しい山には色とりどりの木々が隙間無く生えている。
太陽が頭上にあるというのに、森は奥を見通せないほどの暗闇で覆われていた。生い茂る木々が光を遮っているためだ。
ただ、季節柄まだマシな方ではあるのだろう。色づく紅葉はまるで自ら光を放っているかのように周囲を照らし、少なくなった葉の隙間からはわずかに光が差し込んでいた。豊富な木の実を求めて活発に動く獣達が足元の草木を掻き分けあちこちに道を作っている。暖かい雰囲気に見える光景ではあるが、実際の所は少し肌寒い。冬が近いのだから当然ではあるが。
空を見上げると、鱗のように見える巻積雲が西の空に広がっていた。しばらく天候が崩れるかもしれない。今日のうちに洗濯を済ませておいてよかった。
私は視線を手元に戻し、再び弓を引く事に注力する。しかしどんなに力を入れても弓はいっこうに答えてくれない。
この頃の私は弓をろくに引く事もできなかった。引く事もできない弓が面白いはずもない。そもそも、四歳かそこらで弓を引こうとするなんて危険だろう。興味を示したからといって弓の引き方を教えるお爺さんもお爺さんだ。
だが、無骨なお爺さんが子供の遊び相手をうまく勤められるはずもなく。私の興味が、お爺さんがいつも持ち歩いている弓に向かうのも当然の話だった。
それに、お爺さんの弓の腕前は素晴らしかった。
まるで魔法のように獲物を一矢で射止めるお爺さんを、私はキラキラと輝く目で見ていたのを覚えている。
でも弓を引く時の感覚に近いように扉を改造してまで弓を教えようとしてきたお爺さんを見た時には、もしかしてこの人は馬鹿なんじゃないかとも思ったけれど。
五歳になる頃には、私も一応は弓を射る事ができるようになっていた。
基本が大事だと言われ、お爺さんのように色んな体勢から素早く弓を引くのではなく、平らな地面で時間を掛けて狙いを定める方法を何度も練習した。射法……八節、だったか? 動きは体に染み付いたが、名前は忘れた。
そしてお爺さんの協力を得てではあるが、私もたまに獲物を仕留められるようになった。
初めて自分で獲物をしとめた時の事は、よく覚えている。
力を失ってぐったりしている獲物を見たときには何故だか恐怖を感じたが、お爺さんが珍しく「よくやった」と褒めてくれた。
もしかしたら、褒められたのはこの時が初めてだったかもしれない。
私は嬉しかった。
六歳の誕生日に、私は初めて街に下りた。
獲物を街に売りに行くお爺さんに着いて行ったのだ。
お爺さんなら二時間程度で着くのだろうが、子供の足では半日ほどもも掛かっただろうか。
子供と言っても、ただの子供ではない。毎日山を駆け回って狩りをしている子供の足で、である。
今思い返してみれば、結構無茶だったんじゃないかと思えるんだけれど。
「わぁぁぁー!!」
初めて街を見た私は、歓声を上げた。本当に驚いた時は自然と声が出てしまうものなのだと、この時初めて知った。
自分の住む山小屋より大きな建物が、沢山並んでいる。沢山の人がいる。大きな道がある。話に聞くだけだった商店というものがある。
傾き始めた太陽の光に照らされて、馴染み深い薪の束ですら輝いて見えた。家路を急ぐ子供達と、その子供達を見守る母親の姿がとても羨ましかった。
新鮮な光景は好奇心を刺激し、私は街を見ているだけで全く退屈しなかった。
どうして、あの人はあんなに沢山の人形を売っているんだろう。どうして、あの人はあんなに急いでいるのだろう。どうして、あの露天はあんなに熱心に人を呼び込んでいるんだろう。どうして、あの店には沢山の人が集まっているんだろう。どうして、あの人は昼間から酔っ払っているんだろう。……ああ、これは思い出さなくていいや。
疲れを忘れた私は、日が完全に落ちるまで街を見て回った。
その最中、たくさんの人に声を掛けられた。どうやら皆は私の事を知っているらしい。というより、お爺さんが有名人のようだった。お爺さんはこの町で一番の弓の使い手らしく、たまに衛兵達への指導も行っているとの事。教え方が致命的に下手なお爺さんが必死に指導をしている光景を想像し、私は笑った。
その日は宿に泊まった。そして初めて大浴場というものに入った。
お爺さんはお風呂が好きらしく山小屋にも風呂が設えてあるが、一度に数十人も入れる規模の浴場というのは想像だにしておらず、私は再びぽかんと口を開けて感嘆の声を上げる羽目になった。
始めて見る顔がめずらしいのか、叔母様達がやたら私に構ってくる。いろんな話を聞かせてくれるのは楽しかったが、結局私はのぼせてしまった。
次の日、街から出る前に。
私はお爺さんに、小振りの弓を買ってもらった。
そもそも今回街に来た目的はこれだ。
お爺さん曰く「自分の命を預ける道具は、自分の目で見定めなければならない」だそうである。
子供に何を教えているんだか。
いや、確かに大事な事なんだけどさ。
武具店には私より少し年上の少年がおり、私達が店に入ろうとしたら「こんな寂れた店なんて絶対継ぐもんか!」と叫んで家から飛び出していくところだった。これが反抗期というものだろうか。
だが私の姿を見ると、なぜか即座に踵を返し店の中に戻って接客を始めた。口は悪いが責任感は強いようである。
そこでたっぷり一刻ほどもかけて選んだのは、複数種類の樹や動物の角を重ね合わせて作った複合弓。取り回しが良く、威力が出やすい初心者用の弓だ。体格が小さいことや力が弱いことを考えると、これが最善の選択だろう。矢を当てない事には話にもならないし、矢は命中したけど獲物を仕留められませんでした、でも意味が無い。
私は、自分の弓を担いで山小屋へと戻った。
なぜだか往路より足取りは重く、ほうほうの体で家にたどり着いた私はベッドの上に崩れ落ちた。
七歳の頃。私はお爺さんと大喧嘩をした。
理由は、なんだったか? 大したことではなかった気がする。子供の癇癪だろう。とはいっても、その時の私にとってはすごく大事な事だったはずなのだけれど。
「お爺さんの馬鹿! ばーか、ばーか!」
語彙の少ない私にできる罵倒は、これぐらいだった。
我ながら情けない。今なら、もっと気の聞いた罵声を浴びせられるだろうに。
たとえば……
そう、たとえば……
それは置いておこう。
私のつたない言葉でも……いや、つたない言葉だからだろうか。お爺さんはひどくショックを受けたように見受けられた。
お爺さんの表情を見て、別の意味で私は泣きそうになった。
その日の夜。
私は、久しぶりにお爺さんと一緒のベッドに入った。
お爺さんの大きな体の傍で、私は安心して眠った。