6.交換条件
「……あいしょう?」
聞き慣れぬ言葉に椿は首を傾げた。イクバールは鼻で笑うと呆れたように続ける。
「妾だ妾。そんな言葉も知らんのか」
「……っ!?」
唐突すぎる提案に椿はぎょっと目を剥いた。うろたえながら視線を逸らすと、首を振る。
「だから私は子供がいると――」
「話は最後まで聞け。……なにも本当に妾になれとは言わん。関係があるフリをするだけだ。俺にはまだ正妻がいなくてな。責任ある第一皇子ともあろう者が、子どころか愛妾もいないのは何事かと年寄りどもにせっつかれて辟易してるんだ」
「……だから?」
「そこで、お前だ。幸い妊娠していて、お前の腹が大きいうちは俺は年寄りどもの小言から逃げられる。お前はここで囲われて、衣食住の心配をしなくていい。双方に益のある提案だろう?」
自信満々に告げられたその内容に、椿ははっきりと眉を寄せた。……一つ、大問題を見落としている。
「それ――私が出産したら、あなたの子じゃないってバレますよね。そうしたら私、罪人になってしまうのでは? 少なくともこの街から追放ですよね?」
「そうはならんように便宜は図ってやる。なんなら身の振りが決まれば産前に出ていってもいいさ」
「…………」
「今の何も分からん状況で、身重の体を抱えて仕事と住む場所を探せるのか? これを呑めば、少なくとも当面の身の安全は保証される。お前にとっても悪い提案ではないと思うぞ」
真顔でたたみかけられ、椿はぐっと沈黙した。突飛な提案ではあるが――今の椿にとっては無下にできるようなものでもない。ここで見放されれば、おそらくは十分な庇護も得られず路頭に迷うことになるのだろう。
それでも椿は注意深く問いかける。
「あなたにとってのメリット――利点は、それだけなんですか? 取引としては私の方に有利すぎやしませんか」
別に椿でなくとも、仮初めの愛妾ぐらいこの人の立場ならいくらでも立てられるはずなのだ。そう言外に告げると、イクバールは唇の端をつり上げる。
「用心深い女は嫌いではないな。そうだな……しいて言うなら、禍つ者――いや、異界の者であるお前の話に為政者として興味があるのと、その澄ました顔が歪む瞬間を見てみたいと思ったから……かな」
「は……?」
イクバールがゆっくりと近付き、椿の顎を持ち上げた。避けようと思ったが、視線の強さに押されてできなかった。
代わりにぐっと睨みつけると、イクバールは愉快そうに金の目を細める。
「お前のその、生意気で高慢そうな目――たまらないな。男などクズだと見下している目だ。さぞや自分に自信があるんだろう?」
「な――」
「だが、女としてはあまりにも可愛げがないな。涙でも浮かべて媚びてみたらまだマシなものを」
鷹の目に浮かぶ冷たい揶揄に、椿の目にも怒りが宿る。
……なんだ。なんなのだ、この男。さっきから言いがかりのように好き放題言って……!
「……それで、その生意気な女を屈服させたい、って? あなたの前で泣いて媚びれば満足すると?」
「ん……?」
急激に下がった椿の声音にイクバールが目を細める。顎を掴まれたまま、椿は冷たく歪んだ笑みを浮かべた。
「あなた、私のことが気に入ったの? この街の長で、皇子様のあなたが? 他の男の子供がお腹にいる私を……? 趣味悪いわね、おかしいんじゃないの」
「…………」
「それで、気に入ったから意地悪したくなるって? ……あなた子供なの? ああ、ごめんなさいね。そんなアプローチ、今どき子供だって――」
イクバールがぽかんと目を見開いて椿を見下ろしている。それを見て、サーッと血の気が引いた。……一気に冷静になった。
完全実力主義の会社の中で、男と対等に渡り合ってきた椿が身に付けてしまった悪癖。それは、無駄に高い自尊心と相手を言葉でやり込める喧嘩っぱやさだった。
(やば――。喧嘩売ってどうすんのよ……! ああこれ絶対野宿コース確定だ。下手すりゃ鞭打ち縛り首――)
「子供が……なんだって?」
「いえ……なんでもないです。すみません」
真顔になったイクバールと見つめ合うのに耐えきれず、そろりと視線を逸らした。すると、意外に粘着質な男は顔を動かし椿の瞳を追ってくる。唇が触れそうになり、椿は手のひらでそれをガードした。
「言え。気になるだろうが」
「だから忘れてください。生意気言って申し訳ありませんでした!」
これは絶対に激怒される。唇をガードしたまま椿が首をすくめると、顎を掴んだ手からふっと力が抜けた。代わりに、至近距離で「ぶはっ」と吹き出す声がする。
イクバールは顔をくしゃくしゃにすると歯を見せて破顔した。
「ふ……、はは! なんだお前! 威勢よく歯向かったかと思えば、急に借りてきた猫のように大人しくなって! ははっ……。はー……。お前、自分の立場を分かってるのか?」
「すみません……」
意外に子供っぽい笑顔に驚きつつも、椿はしおしおと項垂れた。……冷静になれ。生きるために、つまらない喧嘩を売っている場合じゃない。
一通り笑い倒した皇子はゆらりと手を振ると、金の目を細めてつぶやく。
「まあ、そうだな。お前に個人的な興味が出たことは認めよう。俺が悪食であることもな。……それで、どうする? 趣味の悪い太守など振って、街に出るか? さすがに支度金ぐらいは用意してやるが」
「…………」
椿はうつむいた。去るのを選べば、無職の宿なし妊婦まっしぐら。残るのを選べば、一瞬先は闇かもしれないひとまずの安寧。
どちらを選んでも危険が伴うなら――
「……残ります。身の安全には変えられない」
「そうか。では、仮初めの関係成立だな」
自分の身とお腹の子を守るための選択を。椿がはっきりとうなずくと、イクバールはふっと小さく笑った。
「それじゃあ、明日には離宮に移ってもらうとして――今夜は、こっちだな」
「えっ? ちょっ――、なにっ!?」
脇を抱えて絨毯の上を引きずられ、椿は布で仕切られた別室――低い寝台が置かれた寝室に連れ込まれた。敷布の上に下ろされると、イクバールが首元に顔を伏せてくる。
「ちょっと!? フリって言ったじゃない! 何す――」
「暴れるな、うるさい。……偽装だ、偽装。一応はお前をひん剥いて検分して、ついでに抱いて寵姫にしたって建前を作らなきゃいけないからな。それらしい痕でもつけとかないと疑われるだろ」
「いや、ちょっ――。だったら先に言ってよ! 説明が足りない!」
「だから今言ってるだろうが。……ああもう、色気のない女だな。少しは色っぽい声でも出して協力しろ。聞き耳立ててる奴がいるかもしれんだろ」
「なっ――、いっ、た……! ひっ、ちょっ――」
長い髪をかき上げて首筋を露出させると、イクバールは遠慮なくそこに吸い付いてきた。首を噛まれるのではないかという恐怖に身を竦めると、濡れた音を立てて唇が離れる。
「あ、痕って……。そんな、見えるところに……っ」
「うん? 見えるところじゃないと意味がないだろうが。……ん、こっちもつけとくか。着替えで見られると面倒だしな」
「――ッ!?」
上着の襟を押し下げ、胸元ギリギリのところにまで口付けられた。軽い痛みと共に唇が離れると、そこにくっきりと赤い痣が刻まれたのが見えて椿は絶句する。
――なんで。今日出会ったばかりの男と、しかもこの国の皇子だなんて男と、こんな恥ずかしいことを……!
「そう毛を逆立てるな。なんだ、恥ずかしいのか? ……ふん、男慣れしてるようで意外に大したことないな」
「う、な……っ。予想外で驚いただけよ!」
「そうか。――ん。こんなものか?」
「ちょっ……、つけすぎ!!」
その後も遠慮なく三つの痕をつけて、ようやくイクバールの体が離れた。偽装工作の一環なのか、彼は敷布をぐしゃぐしゃに乱すとふと気付いたように自身の襟に手をかける。
「ああ……お前もしておくか? 濃密な夜の証拠に」
「! しないわよ!」
イクバールが襟を開くと、褐色の胸板と手首まで続く刺青の上端が見えた。妙になまめかしいそこから目を逸らすと、椿はボフッと枕を投げつける。
すでに敬語はどこかに行ってしまっていた。枕をキャッチしたイクバールが、それを敷布の上に置くと今度は椿の豊かな髪をかき乱す。
「だ、から……!」
「偽装だ、と言っただろう。いい手触りだな。……よし、完成だ。どこからどう見ても精根尽きるまで愛された寵姫に見えるぞ」
「全然嬉しくないわよ……」
にやっと満足げな笑みを浮かべたイクバールが背後に倒れ、寝台に沈む。乱された、どこからどう見ても激しく睦み合ったあとのようなシーツの波の上で、イクバールは足元で固まる椿をゆったりと見上げた。
「安心しろ。そんなに固くならずとも、もう手出しはせん。お前が許可しない限りはな」
「じゃあ、もう二度とこんな痕はつけられないってことね」
「いや? 首はもう許可済みとみなすんでな。たまにはつけておかないと関係を疑われるだろう……。くぁ…………」
首筋を押さえる椿に色めいた一瞥をくれてから、イクバールが瞳を閉じる。あくびをして眠りに落ちようとする彼に椿は慌てて問いかける。
「え。ちょっと、ここで寝るの!? 一緒に寝ろって……?」
「月が真上に昇るころには戻る。すぐに出ていっては俺が早すぎる男のようだろうが。男の沽券に関わるぞ」
「知らないわよ、そんなの」
「だからと言って、会ったばかりの女を一晩中侍らせれば危機感がないだの懐柔しやすすぎるだの言われるからな……。匙加減が面倒くさいんだ、これでも」
目を閉じたまま言うと、イクバールは左側の空いているスペースをポンポンと叩き、薄く瞳を開ける。
「……まあ、お前が共寝したいと言うならやぶさかではないが? 襲いはしないが、俺の抱き枕にされることを覚悟の上でな」
「全力でお断りするわ」
心底嫌な声音で返すと、イクバールは鼻で笑って静かになった。そのまま仮寝に入ってしまった仮初めの愛人――いや、なんだ。支援者? パトロン? 恋人? を眺め、椿は広い寝台の隅に体を横たえる。
緊張感をたたえながらも体は疲労に押し負け、うとうとと眠りこむと、いつの間にか月は天まで昇っていた。




