【第7話】
「人間の心はブラックボックスであるべきだ」と、僕は強く主張したい。
それは決して、中に輝かしい才能や無限の可能性という名の宝物が隠されているからではない。むしろ逆だ。人間の内面というものは、他人に見せれば社会的な死を招きかねない「黒歴史」で満たされた、厳重に封印されるべき汚染区域だからである。
「……っ、はぁ、はぁっ……!」
第一図書室の冷たい床の上で、僕はカエルのように四つん這いになりながら、激しく肩で息をしていた。
全身から噴き出す冷や汗が、制服の「環境適応術式」のキャパシティを完全にオーバーし、床に水たまりを作っている。
「あら。無事に意識が戻ったみたいね。バイタルサイン、正常。魔力回路のオーバーヒートも許容範囲内。……うん、私の『精神感応型・詠唱省略術式』のプロトタイプ、見事に動作したわ。感謝してよね」
頭上から降ってくる、八代ルイの極めて事務的で、一欠片の同情も含まれていない声。
彼女は僕の無惨な姿を見下ろしながら、マナフォンの空中に展開されたホログラムノートに、何やらスワイプ操作で凄まじい速度のメモを書き込んでいた。
「……感謝、だと?」
僕は震える腕で体を支え、怨みを込めた目で彼女を睨みつけた。
「感謝どころか、今すぐ君を国際魔術裁判所の法廷に引きずり出したい気分だよ。いや、その前に僕の記憶野を物理的に初期化してくれ。頼むから」
「大袈裟ね。ただ私の演算領域とあなたの演算領域を、ほんのコンマ三秒ほど強制的に同期させただけじゃない。魔力変換のプロセスをショートカットするにあたって、あなたの脳の『未使用領域』を一時的なキャッシュメモリとして間借りしたのよ」
「その『間借り』のプロセスで何が起きたか、君は分かっているのか!? 僕の脳内で、中学二年生の時に書き殴った『設定ノート(主に右腕に封印された邪竜についての考察)』が、フルボイスかつ立体ホログラムの走馬灯として強制再生されたんだぞ! 精神的ブラッドボーンもいいところだ!」
「あー……」
八代ルイは、そこで初めて気まずそうに視線を逸らした。
「それは、その……想定外のノイズ(バグ)ね。他人の演算領域にアクセスする際、防御壁がないと、深層心理に沈殿している『最も感情の起伏が激しかった記憶』が、魔力波長の乱れと同調してフラッシュバックすることがあるらしいわ。文献で読んだことがある」
「文献で読んだレベルの危険な術式を、なんの躊躇いもなくクラスメイトにぶっ込んだのか君は!?」
「だって、防御壁ゼロの無防備な頭脳なんて、この学校にあなたくらいしかいなかったんだもの。貴重な検体よ」
悪びれる様子もない。
この女、魔術の才能はピカイチだが、倫理観というパラメータを母親の胎内に置き忘れてきたに違いない。
「……それに」
八代ルイは、ふいっと顔を背け、耳まで真っ赤に染めながら小さな声で呟いた。
「別に、恥をかいたのはあなただけじゃないわよ。……同期のベクトルは双方向だったんだから。あなたの頭にノイズが流れたってことは、私の頭にも……その、不要なデータが、逆流してきたわけで」
「……ん?」
僕は床から這い上がりながら、彼女の言葉の裏にある「致命的な事実」に思い至った。
「待て。双方向? ということは、僕のその『右腕の邪竜』のクソ恥ずかしいポエムを……君も見た、と?」
「……『漆黒の炎よ、我が虚無を喰らい尽くせ』、だっけ。控えめに言って、読解力に欠ける三流のコピーライター以下の語彙力だったわね」
「やめろ!! 復唱するな!! 言霊になって僕を殺す気か!!」
僕は両手で耳を塞いで絶叫した。
死にたい。いや、すでに社会的には死んだも同然だ。よりにもよって、このプライドの塊のような優等生に、前世の最も見られたくない汚染物質を覗き見られるとは。
「安心しなさい。あんなゴミみたいなデータ、私の脳のオートクリーン機能が即座に消去したわ。……それより、あなたのせいで私の演算領域にも変なノイズが混ざったのよ。責任取ってよね」
「君のノイズ? はっ、学年首席様の黒歴史なんて、どうせ『小学生の時に書いた数式に計算ミスがあった』程度の高尚なものだろう」
「……『くまのぬいぐるみに、毎晩今日あった出来事を相談している』光景が、あなたの脳内に流れ込まなかったなら、それでいいわ」
「…………」
「…………」
第一図書室に、気まずすぎる沈黙が降りた。
ああ、なるほど。思い出した。僕の走馬灯のノイズの中に一瞬だけ混じっていた、フリフリのパジャマを着てぬいぐるみに話しかける、年相応の幼い少女の映像。
あれが、彼女の——。
「……忘れるわ」
「……ああ、僕も最初から何も見ていない」
僕たちは、極めて論理的かつ合理的な判断に基づき、「相互確証破壊」を避けるための不可侵条約を結んだ。
魔術というものは、時に物理的な破壊力よりも、精神的な破壊力の方が遥かに恐ろしい。
僕は冷や汗で張り付く前髪をかき上げながら、この異世界において「プライバシー」という概念がいかに脆く、守るべき尊いものであるかを、身をもって学んだのであった。




