【第29話】
「完全なる自由」というものは、長期間にわたって抑圧されてきた人間にとって、ある種の恐怖である。
『今日は実技の疲労回復にあてなさい。マフユ先輩も図書委員の仕事があるから、勉強会は休みよ』という、八代ルイからの極めて事務的な、しかし奇跡のようなメッセージを受信した今朝。僕は歓喜の涙を流して二度寝をキメた。
だが、午後になり、十二時間にも及ぶ睡眠から目覚めた僕は、ワンルームの天井を見つめながら激しい不安に襲われていた。
パシリの命令がない。課題の押し付けもない。致死量の雷撃も飛んできない。……おかしい。こんな平穏な一日が、この理不尽な世界で許されるはずがない。「今日を休ませて、明日二倍の苦痛を与える」という悪魔のトラップではないか?
「……駄目だ。家にいると、疑心暗鬼で胃に穴が開きそうだ」
僕は逃げるようにアパートを飛び出し、あてもなく街を歩くことにした。
霊脈駅の裏手にある、人工的に整備された『第三星幽公園』。休日の昼下がり、家族連れや魔術科のカップルたちが平和な時間を過ごすその場所は、僕のような日陰者のモブが「日常」の空気を過呼吸になるまで吸い込むには最適な場所だった。
缶コーヒーを片手に、ベンチで鳩(のような魔力生物)を眺めながら、平和な時間の浪費を堪能していた、その時だ。
「……だから、それはもう結論が出たことでしょう」
風に乗って、聞き慣れた、しかし普段よりもひどく切羽詰まった声が耳に届いた。
僕はピクリと反応し、声のする方――公園の奥、人目のつかない木立の裏手へと視線を向けた。
そこにいたのは、私服姿の八代ルイだった。
だが、彼女は一人ではなかった。対峙しているのは、仕立ての良い漆黒のスーツを着た、氷のように冷たい目をした壮年の男だ。一見してカタギではない、魔術社会における「名門の裏仕事」を担う人間の匂いがした。
僕は反射的に、実技試験二日目で披露した『魔力循環の完全遮断』を発動させた。
気配を消し、呼吸を薄くし、背の高い植え込みの裏へとスライド移動する。覗き見や盗み聞きはモブの美学に反するが、彼女のあんな「余裕のない顔」を見てしまっては、生存本能が『情報収集』を強制してきたのだ。
「ルイ様。先日の特別シンポジウムにおける、研究開発機構の最終見解はすでに八代本家にも共有されております。あなたの提唱する『精神感応型・詠唱省略術式』は、理論上は美しいが、フィードバックによる術者への精神汚染が不可避である。よって、実用化は『不可能』であると」
「理論が間違っているわけじゃない! 負荷を分散させるプロセスに少しのバグがあるだけよ! あと少し、あと少しで完璧なものが……!」
男の冷徹な宣告に、ルイが悲痛な声で食い下がる。
あの、他者を常に見下し、自信に満ち溢れていた学年首席が、まるで縋るように声を荒げている。
「お言葉ですが、ルイ様。本家の当主――お父様は、これ以上の無駄な投資を許容なさいません」
「無駄な投資……? ミレイの命を繋ぐことが、無駄だって言うの!?」
ミレイ。
その未知の単語(名前)が出た瞬間、男は冷酷に眼鏡を押し上げた。
「妹様は『魔力結晶化症候群』の末期です。八代の血の業とはいえ、もはや魔術回路が物理的に石化し、意識を失って三年。現在の生命維持アーティファクトを稼働させ続けるだけで、莫大なエーテル資源が浪費されています」
「だから! 私のオリジナル術式が完成すれば、他者の精神領域を間借りして、ミレイの結晶化した回路をバイパスして目を覚まさせることができる! その特許の利益で、維持費だって……!」
「夢物語はそこまでにしてください、ルイ様」
男の言葉が、鋭い刃のように彼女の反論を切り捨てた。
「あの術式は未完成であり、完成もしない。それが機構の出した結論です。……当主は決断されました。来月末をもって、妹様の生命維持アーティファクトの魔力供給を停止します」
「なっ……!?」
「そしてルイ様。あなたには、第一魔術科高校を自主退学し、本家へ戻っていただきます。すでに『御前崎家』の次期当主との婚約が纏まりました。優秀な血を残すこと。それが、残された八代の娘としての、あなたの唯一の存在意義です」
――ドクン、と。
隠れて聞いていた僕の心臓が、嫌な音を立てた。
それが、彼女の抱えていたものの正体。
友達を作らず、孤高を気取り、焦るように「オリジナル術式」の開発に血道を上げていた理由。
病床で眠る妹の命のタイムリミットと、名門という名の「呪い」から逃れるための、莫大な身代金。
彼女は、その細い両肩に「妹の命」と「自分自身の自由」という、到底高校生が背負いきれないほどの質量を乗せて、たった一人で戦い続けていたのだ。
「……ふざけ、ないで」
俯いていたルイが、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「私は退学なんてしない。御前崎のジジイに身売りなんて絶対にお断りよ」
「反抗は無意味です。あなた一人で、あの術式の負荷に耐えられるはずがない」
「耐えられるわ」
彼女は、顔を上げ、男を真っ直ぐに睨みつけた。
その目には、絶望の底で燃え上がる、執念のような光が宿っていた。
「私のエラーを、全てノータイムで排出できる完璧な『接地線』を見つけたの。……魔力波長が完全にフラットな、都合のいい馬鹿をね。だから……来月末までに、私が必ず、この術式を完成させてみせる」
「…………」
男はしばらく彼女を冷ややかに見つめていたが、やがて「無駄な足掻きを」とだけ言い捨て、その場から転移術式で姿を消した。
木立の裏に、ルイだけが残される。
彼女はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、糸が切れたようにその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
微かな、本当に微かな嗚咽が、休日の公園の喧騒にかき消されるように漏れ出していた。
僕は、植え込みの裏で、握りしめた缶コーヒーがぬるくなっているのを感じながら、ただ息を潜めていた。
『完璧なアース』。
『都合のいい馬鹿』。
それが、僕のことであるのは明白だった。
僕は巻き込まれた被害者であり、理不尽にパシリにされていた哀れなモブだと思っていた。
だが違った。彼女にとっての僕は、妹の命を救い、自身の運命に抗うための「最後の命綱」だったのだ。
あの日、演習場で僕が彼女のエラーを吸い出した瞬間から、僕は知らず知らずのうちに、彼女の背負う「地獄」の共同正犯にされてしまっていたらしい。
「……冗談じゃない」
僕は音を立てないように、ゆっくりと後退りし、その場から離れた。
重い。あまりにも重すぎる。
ラブコメディのツンデレヒロインの裏側にあるには、あまりにも現実的で、残酷で、致死性の高すぎる事情だ。
関われば、僕の「低空飛行の平穏」は完全に消し飛ぶ。それどころか、名門の権力闘争に巻き込まれて文字通り命を落とすかもしれない。
逃げろ。僕の生存本能が、そう叫んでいる。
明日から彼女と距離を置け。適当な理由をつけてパシリを辞めろ。
僕はただのモブだ。世界を救う勇者でも、ヒロインの涙を拭う主人公でもないのだから。
しかし。
帰路につく僕の右手のひらには。
あの日、彼女の暴走を止めた時に負った、ひどく熱い火傷の痕が、警鐘を鳴らすようにいつまでもズキズキと痛み続けていたのだった。




