17
――七月下旬。
あと少しで夏休みが始まる。
部活動に打ち込む者。
友達と思いきり遊ぶ者。
受験を控え、朝から晩まで机に向かう三年生。
きっと、それぞれが思い思いの夏を過ごすのだろう。
ちなみに俺――白金結城の今年の夏は少し忙しい。
夏休みの半分はアルバイト。
そして残りの半分は、妹の夏木との時間に使うつもりだ。
最近は学校やアルバイトで忙しく、夏木には寂しい思いばかりさせている。
だから、この夏休みは一緒に美味しいものを食べに行ったり、隣町で開かれる夏祭りへ連れて行ったりして、たくさん思い出を作ってあげたい。
そのためには、お金も必要になる。
だから今年の夏休みは、いつもより多めにシフトへ入り、しっかり働くつもりでいる。
……だが、その前に乗り越えなければならない大きな壁があった。
それが、一学期の期末テストだ。
もし一教科でも赤点を取れば、待っているのは夏休みの補習。
そうなればアルバイトにも入れず、夏木との約束も守れなくなってしまう。
だから、絶対に赤点だけは避けなければならない。
そんな思いで、俺は放課後の図書室へやって来ていた。
静かな室内。
ほどよく効いた冷房。
勉強するには最高の環境だ。
夏木のため。
絶対に補習だけは避ける。
その一心で机に向かい続け、気が付けば時計の針は午後五時半を指していた。
二時間以上勉強したおかげで、ほとんどの教科は順調に進んだ。
……ただ一つを除いて。
「数学か……」
俺が最も苦手な教科だ。
基礎問題までは解ける。
だが、応用問題になると途端に手が止まってしまう。
「うーん……」
何度考えても答えが出ない。
その時だった。
「あれ? キモオタ君、何してるの?」
聞き慣れた声が聞こえた。
顔を上げると、そこには原田さんが立っていた。
今日は赤縁の眼鏡を掛けている。
普段の派手な雰囲気とは違い、どこか知的な印象だった。
「期末テストの勉強」
「ふーん」
原田さんは俺のノートを覗き込み、数学の問題を見るなり小さく笑った。
「えっ、キモオタ君、この問題が分からないの?」
「……うん」
「そんなの簡単じゃん」
そう言うと、原田さんは俺のシャープペンを手に取った。
「ほら、ここ。」
「この公式を先に使うの」
「それから、この式を変形すると……」
驚くほど説明が分かりやすい。
難しいと思っていた問題が、少しずつ理解できていく。
「なるほど……!」
「でしょ?」
原田さんは少し得意そうに笑った。
「ありがとう」
「ふふん。ざっとこんなもんよ」
その表情を見て、俺は思い切って口を開いた。
「原田さん」
「ん?」
「お願いがあります」
「なに?」
俺は深く頭を下げた。
「期末テストまで、俺に勉強を教えてください」
「……は?」
原田さんの表情が一瞬で冷める。
「なんで私が?」
「私に何の得があるの?」
当然の反応だ。
俺だって、逆の立場なら同じことを思う。
それでも、諦めるわけにはいかない。
「補習だけは受けたくないんだ」
「補習になると夏休みがほとんど潰れる」
「だから?」
「妹と約束したんだ」
俺は静かに続けた。
「今年の夏は、一緒に祭りへ行こうって」
「美味しいものも食べに行こうって」
「最近は寂しい思いばかりさせてるから、せめて夏休みくらいは笑顔で過ごしてほしい。」
「だから……」
「どうしても赤点だけは避けたいんだ」
原田さんは黙ったまま俺を見る。
その視線は、いつものような馬鹿にするものではなかった。
ふと、机の上のノートへ目を落とす。
そこには何度も書き直した跡。
消しゴムの跡。
丁寧にまとめられた公式。
そして、ページの端には小さく、
『夏木と夏祭り』
と書かれていた。
(ちゃんと勉強してたんだ……)
原田さんは心の中でそう呟いた。
ただ遊びたいからではない。
誰かのために必死になっている。
そんな結城の姿は、学校で見てきた「キモオタ」の印象とは少し違って見えた。
「……はぁ」
原田さんは小さくため息をつく。
「ほんっと、お人好しなんだから」
「え?」
「いいよ」
「ただし条件がある」
「条件?」
「私が教える以上、中途半端は許さない」
「目標は学年トップ10」
「もし入れなかったら……その時は覚悟しなよ」
「はい!」
俺は勢いよく返事をした。
「よろしくお願いします!」
「元気だけは一人前ね」
原田さんは呆れたように笑う。
「じゃあ明日から放課後」
「毎日付き合ってあげる」
こうして俺は、原田さんによる少し厳しく、だけど誰よりも分かりやすい特別補習を受けることになった。
この時の俺はまだ知らない。
この勉強会が、俺と原田さんの関係を少しずつ変えていくことになるなんて――
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