106
それから午前の授業が終わるまで、俺は一度も左後ろを振り返らなかった。
いや、正確には――振り返らないように必死だった。
斜め左後ろに原田さんがいる。
ただそれだけのことを、ずっと意識してしまう。
おかげで授業の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
◇
午前の授業がすべて終わる頃には、朝よりも疲れていた。
別に授業が難しかったわけではない。
余計なことを考えすぎたせいだ。
「……飲み物でも買ってこよう」
昼休み。
俺は財布を持ち、教室を出た。
少し頭を冷やした方がいい。
廊下の突き当たりにある自動販売機へ向かう。
購買へ向かう生徒が多いからか、自動販売機の前には誰もいなかった。
俺が財布から小銭を取り出していると、後ろから足音が聞こえてきた。
「何を買うの?」
「え?」
振り返る。
そこにいたのは、原田さんだった。
「原田さん」
「そんなに驚かなくてもいいじゃん」
「ごめん。別の人だと思ってた」
「誰だと思ったの?」
「誰ってわけじゃないけど」
原田さんは俺の隣に並ぶと、自動販売機を見上げた。
「何にしようかな」
「原田さんも飲み物を買いに来たの?」
「うん。優奈たちは購買に行っちゃったから」
そう言いながら、原田さんは財布から小銭を取り出す。
俺は先にボタンを押し、落ちてきた缶コーヒーを取り出した。
「白金、コーヒー飲めるんだ」
「微糖だけどね」
「ちょっと大人っぽい」
「高校生なら普通じゃない?」
「そうかな。私、苦いの無理だよ」
原田さんが選んだのは、ミルクティーだった。
ガコンッと音を立てて落ちてきたペットボトルを拾い上げる。
それから原田さんは、すぐには教室へ戻ろうとせず、その場でこちらを見た。
「ねえ、白金」
「何?」
「朝の話、本当はどうなの?」
「朝の話?」
「授業中、私の方を見てたって話」
やっぱり聞かれるのか。
「……少しだけ見てたかもしれない」
「やっぱり見てたんだ」
「ずっとじゃないよ」
「それは分かってるけど」
原田さんはミルクティーのラベルを指でなぞりながら、少しだけ視線を下げた。
「どうして私のことを見てたの?」
「それは……」
すぐには答えられなかった。
原田さんが何かをしていたからではない。
話したかったわけでもない。
ただ、気づくと原田さんの方を見ようとしていた。
その理由を考えると、思い当たることは一つしかなかった。
「昨日のことを思い出してた」
「昨日?」
「帰り道のこと」
原田さんの指が止まる。
「別れた後、原田さんが振り返っただろ?」
「……あれ、見てたんだ」
「目が合ったんだから、そりゃ分かるよ」
「そうだけど……」
原田さんは少し照れくさそうに頬をかいた。
「そこを思い出してたの?」
「うん」
「どうして?」
「それは俺にも分からない」
「分からないのに、何回も思い出してたんだ」
「……悪い?」
「ううん」
原田さんが小さく首を横に振る。
その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「ちょっと嬉しいかも」
「嬉しい?」
「白金も、昨日のことを覚えてたんだなって」
「原田さんも覚えてるの?」
「もちろん覚えてるよ」
原田さんはミルクティーを胸元で両手に持った。
「私が振り返った理由、気になる?」
「……少しだけ」
本当は、かなり気になっている。
だが、それを素直に言うのは何となく恥ずかしかった。
「白金が、まだこっちを見てるかなって思ったから」
「俺が?」
「うん」
どうして、そんなことを気にしたのだろう。
その疑問が顔に出ていたのか、原田さんは慌てたように言葉を続けた。
「その……昨日は白金と話しながら帰るのが楽しかったから」
「…………」
「別れた途端に一人になって、急に静かになったから、ちょっと変な感じがしただけ」
そう言う原田さんの頬は、ほんの少しだけ赤くなっていた。
「白金は?」
「え?」
「どうして、私が振り返るまで見てたの?」
「俺は……」
言われてみれば、どうしてだろう。
別れたのだから、そのまま帰ればよかった。
それなのに、俺は原田さんの後ろ姿を見ていた。
振り返った原田さんと目が合った瞬間、なぜか胸がざわついた。
そして、今朝まで何度も思い出していた。
「俺も、原田さんと話しながら帰るのが楽しかったから……かもしれない」
「かもしれない?」
「そこは自分でも、まだよく分からない」
「何それ」
原田さんは少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
それからすぐに、小さく笑う。
「でも、そっか」
「何?」
「じゃあ、私たち、お互い様だね」
「お互い様?」
「私も白金も、昨日のことを気にしてたってこと」
「ああ……」
そういう意味か。
そう納得したはずなのに。
『お互い様』という言葉が、なぜか妙に嬉しく感じた。
「へぇー。何がお互い様なの?」
「っ!?」
突然、背後から島崎さんの声が聞こえた。
俺と原田さんは同時に振り返る。
そこには、パンと飲み物を抱えた島崎さんと小林さんが立っていた。
「優奈!?」
「何でそんなに驚くの?」
「いつからいたの?」
「たった今だけど?」
島崎さんは俺と原田さんを交互に見る。
「二人で何の話してたの?」
「何でもないよ!」
原田さんが慌てて答える。
「何でもないにしては、随分楽しそうだったけど」
「普通に話してただけ!」
「ふーん」
島崎さんがニヤニヤしながら顔を近づける。
「朝まで白金のことをからかってたのに、その白金と二人でこそこそ話してたんだ?」
「こそこそしてないから!」
「じゃあ、何がお互い様だったの?」
「それは……」
原田さんが言葉に詰まる。
「ほら、やっぱり何かあるじゃん」
「優奈、その辺にしておきなよ」
小林さんが島崎さんの制服の襟を後ろからつかんだ。
「えー、楓だって気になるでしょ?」
「気にはなるけど、今聞いても二人とも答えないでしょ」
「じゃあ、後で美玖だけに聞く」
「それもやめて!」
原田さんの声が廊下に響く。
島崎さんは楽しそうに笑いながら、小林さんに引っ張られて教室へ戻っていった。
その後ろ姿を見送った後、原田さんが小さくため息をつく。
「もう……優奈はすぐああいうこと言うんだから」
「大変だね」
「他人事みたいに言わないでよ。白金のことでもあるんだから」
「俺のことでもあるの?」
「あるでしょ」
原田さんはそう言うと、俺より先に歩き出した。
俺もその隣に並び、教室へ向かう。
教室の前まで戻ったところで、原田さんが足を止めた。
「白金」
「何?」
「さっき話したこと、優奈には内緒にしてね」
「言わないよ」
「絶対だからね」
「分かってるって」
「……ちょっと恥ずかしいから」
そう言って、原田さんは逃げるように教室へ入っていった。
俺も後を追い、自分の席へ座る。
原田さんも斜め左後ろの席へ戻った。
これで、ようやく落ち着ける。
そう思った直後。
後ろから、俺の肩が軽く叩かれた。
振り返る。
原田さんが、教室の前を指差していた。
「午後の授業は、ちゃんと前を見てないとダメだよ」
「誰のせいで集中できないと思ってるんだよ」
「私のせいなの?」
「……知らない」
「ふふっ。何それ」
原田さんは楽しそうに笑う。
俺は再び前へ向き直った。
二、三日もすれば、元に戻る。
朝はそう思っていた。
けれど、このままでは元に戻るどころか――。
原田さんのことが、ますます気になってしまいそうだった。




