日常
朝は早い。
まだ空気の冷たさが残る時間、庭先に乾いた音が響いていた。
木剣が風を切る。
一定の間隔。乱れはない。
ノアは何も考えずに振っていた。
ただ、そうするものだと知っているから。
理由はない。
最初から、そうだった。
「……いいか、剣はな」
低い声が後ろからかかる。
振りを止めず、耳だけが拾う。
父だった。
「焦って振るもんじゃない。積み重ねだ」
その言葉は重い。
経験の裏打ちがある。
だからこそ、正しい。
ノアは一度だけ頷いた。
理解はしている。
だがそれとは別のところで、体はもう動いている。
少し離れた場所で、別の音が響く。
鋭く、速い。
だが整っている。
兄だった。
同じ木剣。
同じ型。
同じ教え。
違うのは、その先だけだった。
正確だ。
無駄がない。
父の剣をきちんと受け継いでいる。
そこから先に進まない。
兄は振り終え、息を吐いた。
額に汗が滲んでいる。
ちらりとノアを見る。
「……ノア」
呼ばれて顔を向ける。
「今のそれ」
少しだけ、言葉を選ぶような間。
「どこで覚えた?」
ノアは首を傾げた。
「……分からない」
本当に分からない。
気付けば、こうだった。
それだけだ。
兄はしばらく黙り、やがて視線を外した。
「……そっか」
それ以上は何も言わない。
だが、完全には納得していない顔だった。
家の中から、小さな足音がする。
ぱたぱたと、不規則なリズム。
「ノアー!」
声と同時に小さな影が飛び出してきた。
妹だった。
まだ幼い。
手には布きれのようなものを持っている。
「おてつだい、した!」
誇らしげに掲げる。
端のほつれた、小さな袋。
縫い目は荒いが、形にはなっていた。
「……すごい」
ノアが言うと妹は満足そうに笑う。
「おかーさんといっしょ!」
家の奥では母が針を動かしている。
布を裁ち、縫い、形にする。
それが金になる。
この家の、もう一つの剣だった。
父は剣を地面に立て、二人を見る。
「そろそろ行くぞ」
今日は素材集めだ。
遠くへは行かない。
低級の魔物だけを狙う。
兄がすぐに頷く。
「うん」
慣れている返事だった。
ノアも木剣を置く。
自然な動作。
迷いはない。
父は一瞬だけ、その動きを見る。
わずかに目が細まる。
「……ノア」
呼ばれて、振り向く。
「お前、その足運び」
言いかけて、止まる。
「……いや、いい」
首を振った。
言葉にできなかった。
外に出る。
土の匂い。
朝の光。
いつも通りの景色。
兄が先に歩く。
父が続く。
ノアはその後ろ。
歩幅を合わせる。
無意識に。
何も考えずに。
そのはずだった。
わずかに、ずれた。
ほんの一瞬。
自分のものではない感覚が、かすめる。
懐かしいような、何か。
ノアは、ふと足を止めた。
だが次の瞬間には、それはもう消えていた。
「どうした?」
兄の声。
「……なんでもない」
ノアは答え、また歩き出す。
後ろから、視線があった。
気配は薄い。
だが、確かにそこにいる。
離れた場所。
木陰の中。
アルカノイド=ジェスバーは、動かない。
見ている。
ただ、それだけだった。
(……やはり)
理解できる。
だからこそ、理解できない。
視線の先。
少年の歩き方。
重心の移動。
すべてが、知っているものだった。
(違う)
否定する。
(あれは――)
言葉にしようとして、止まる。
できない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
(再現ではない)
あれは。
最初から、そこにあるものだ。
ジェスバーは、ゆっくりと息を吐く。
そして動かなかった。
まだ見ているだけでいい。
そのはずなのに。
指先が、わずかに震えていた。




