エピローグ:極上の不純物と、変わらない日常
肌を焼くような紗霧島の強烈な太陽と、血生臭い潮風の記憶を海の向こうに置き去りにして、僕と父さんはようやく月見坂市の旧市街へと帰還した。
「ギィィ……」という、油の切れた我が家の安アパートのドアの軋む音が、疲労しきった鼓膜に妙に優しく響いた。
「っかー!やっぱ我が家の畳が一番だぜ!豪華客船の極上フレンチも悪かねえが、この安物の発泡酒とスルメイカには勝てねえや!」
万年床の敷かれたカビ臭い四畳半の真ん中に大の字になりながら、父・定光はプシュッと缶のプルタブを開け、豪快に喉を鳴らした。
帰りのヘリコプターに乗る前に、そそくさといつもの作業着(の休日バージョンであるヨレヨレのTシャツ)に着替えていた父さんの姿を見ると、つい数時間前まで如月コンツェルンの最高級リゾートで、政財界のVIPたちと肩を並べていたあの光景が、まるでタチの悪い幻だったかのように思えてくる。
僕も自分の部屋の、スプリングのへたった万年ベッドに身を投げ出し、深く、長く息を吐き出した。
終わってみれば怒涛のサバイバルとなっていた、この紗霧島での過酷な夏のバカンス。
初日の晩餐会で出された幻の生ハムを、なぜか不気味な『ビスクドール』が咥えていたという理不尽な騒動から始まり、極めつけは、豪華クルーズ船という逃げ場のない洋上の密室で起きた、あの『血塗られた歯車とお守り』の凄惨な殺人事件だ。
「ルーツ、か……」
僕は黄ばんだ天井の木目をぼんやりと見つめながら、独り言のように呟いた。
ありえない場所に、ありえないものがある。
それがどこから来て、誰の手に渡り、どういう経緯でここにあるのか。
如月瑠璃という少女は、そのアメジストの瞳で、モノに隠された絶対的な『ルーツ』を暴き出す。彼女の極上の鑑定眼の前では、いかなる権威も、巧妙なアリバイも意味を持たなかった。
今回の事件で彼女が暴き出したのは、悪徳政治家の醜悪な裏帳簿であり、旧市街の町工場が辿った悲劇であり、そして復讐の鬼と化した青年の、あまりにも悲しい職人の誇りだった。
凄惨な事件が終わっても、失われた命が戻ってくるわけではない。
それでも、彼女が暴き出した真実によって、泥に塗れていた『町工場の最高傑作』の本来の価値だけは、守られたのだ。そのことだけが、旧市街で育った僕にとって、唯一の救いのように感じられた。
思い返せば、季節が巡るたびに、僕は彼女の気まぐれに付き合わされ、その度に『ありえないモノ』のルーツを探る羽目になっている。
季節も、場所も、関わる人間も全く違うけれど、そこにある『極上の精度』と『人間の不純物』が入り混じる構図だけは、いつも同じだった。
──それから数日後。
夏休みも残りわずかとなったある日の午後、僕のスマートフォンに、もはや逃れることのできない絶対君主からの短いメッセージが届いた。
『サクタロウ。直ちに旧校舎の図書室へ参れ。極上の不純物が持ち込まれたゆえ、お主の鈍感な鼻で鑑定させてやる』
……断る権利など、最初から一ミリも存在しない。それに今の僕には、この『いつもの呼び出し場所』の方が、まだしも呼吸がしやすい。
僕は重い腰を上げ、通い慣れた学園へと向かって自転車のペダルを漕ぎ出した。
蝉の声が響く中、今はもう使われていない旧校舎の、ひんやりとした薄暗い廊下を奥へと進む。
カビと古い紙の匂いが漂う図書室の重厚な木の扉を開けると、そこには、無数に並ぶ埃っぽい書架に囲まれながらも、その空間だけが切り取られたように清浄な空気を纏う令嬢の姿があった。
一分の隙もなく夏服の制服を着こなした瑠璃は、どこから持ち込んだのか、アンティークのティーカップを優雅に傾けていた。
「遅いぞ、サクタロウ。到着まで十七分。お主の自転車のチェーンには、旧市街の泥でも詰まっておるのか」
「す、すみません、如月さん。これでも全力でペダルを漕いできたんですけど……。それで、今日は一体何を……?」
僕が息を切らしながら尋ねると、瑠璃はティーカップをソーサーに静かに置き、年季の入った閲覧テーブルの上に置かれた小さな桐箱を、白手袋をはめた指でスッと指し示した。
「これを見よ。またしても、吐き気がするほど不愉快で、そしてたまらなく魅力的な『矛盾』がわしの元に持ち込まれた」
瑠璃は紫色の瞳を細め、冷酷な、しかし底知れぬ知的好奇心に満ちた笑みを浮かべた。
「さあ、サクタロウ。この箱の中にある極上の不純物が、どこの誰の手を経て、どういう経緯でここに行き着いたのか。その薄汚いルーツの皮を、一枚ずつ剥ぎ取ってやろうではないか」
箱の中身が何なのか、まだ僕には分からない。
だが、ああ、やっぱりこの人は、何も変わっていない。
人が死のうが、季節が変わろうが、彼女の興味は常に『モノの真の価値』と『極上のルーツ』にしか向いていないのだ。
僕は諦めと、そしてほんの少しのワクワク感を胸の奥底に感じながら、「はい、如月さん」と深く頭を下げた。
かくして、僕の平穏とは程遠い下僕としての日常は、これからも続いていく。
極上の精度と、どうしようもない不純物が入り混じるこの月見坂市で。
絶対君主である如月瑠璃の、その美しくも冷酷な鑑定眼の傍らで。
~如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』 fin~




