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第2巻:如月令嬢は『シャンパンのハニワを飲み干さない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『歯車とお守り』 ~Section 15:帰港の夕陽と、変わらない絶対君主~

 分厚い鉛色の雲が、まるで舞台の幕が下りるようにゆっくりと割れ、その裂け目から強烈なオレンジ色の光が海面へと差し込み始めていた。


 荒れ狂っていた外海の嵐は、烏森桐人がすべての罪を自白し、その場に崩れ落ちたのと時を同じくして、嘘のように静まり返っていた。しかし、猛烈な暴風雨と高波によって船体を激しく揺さぶられ続けた豪華クルーズ船『シンフォニー・オブ・サギリ』は、安全を確保するために大幅な速度低下と洋上での一時的な停船を余儀なくされていた。


 本来であれば昼下がりに優雅に帰港しているはずのスケジュールは完全に崩壊し、僕たちが紗霧島の白いプライベートポートの輪郭をようやく水平線の向こうに捉えた頃には、西の空はすでに、血が滲んだような深い茜色に染まりきっていた。


 長すぎた、そしてあまりにも息苦しかった数時間が終わろうとしている。


 メインラウンジに集められていた政財界のVIPたちは、船が港に近づくにつれて、ようやく自分たちが『死の密室』から解放されるのだという安堵の息を漏らし始めていた。彼らは互いに顔を見合わせ、乱れた高級スーツの襟を正し、先ほどまでの怯えきった姿を取り繕うかのように、再び権力者としての尊大な仮面を被り直そうとしている。


 だが、その仮面がどれほど分厚かろうと、如月姉妹が白日の下に晒した『時東誠也の醜悪な裏帳簿』という事実が消えるわけではない。彼らの中には、時東の不正な資金ルートに関与していた者も少なからずいるはずだ。船を降りた後、彼らを待ち受けているのは、警察とマスコミによる容赦のない追及という、別の意味での嵐に違いない。


「光太郎。……終わったんだな」


 ふと、背後から低く、掠れた声が聞こえた。


 振り返ると、父・定光が、ネイビーのサマーニットの肩を大きく落として立っていた。その顔には、一流ホテルのような船内で極上のビュッフェにはしゃいでいた朝の面影は微塵もなく、ただ、友人を理不尽に奪われ、その息子が殺人鬼へと堕ちてしまったことに対する、やり場のない深い疲労と悲哀だけが刻み込まれていた。


「うん、父さん。……終わったよ。烏森さんの無念は、如月さんが全部暴いてくれた。でも……」


 僕の言葉尻は、自然と濁ってしまった。


 真実が明らかになったからといって、失われた町工場の活気が戻ってくるわけではない。烏森精密の社長が生き返るわけでもないし、人殺しになってしまった烏森桐人の人生が救われるわけでもない。旧市街の油と鉄粉にまみれた誇り高いルーツは、権力者のエゴと復讐の連鎖によって、完膚なきまでに破壊されてしまったのだ。


「ああ、分かってる。親父さんの仇を討ちたかったあいつの気持ちは、痛いほど分かるさ。俺だって、もしお前が同じ目に遭わされたら、時東みたいなクズ野郎の頭をスパナで叩き割ってたかもしれない。……でもな、職人が自分が命懸けで作った最高の部品を、人殺しの道具にしちまったら、おしまいなんだ。それは、親父さんが一番悲しむことなんだよ」


 父さんは、夕陽に照らされた窓の外を見つめながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


 その無骨で大きな手は、怒りとも悲しみともつかない感情を抑え込むように、固く、強く握りしめられていた。僕には、父さんにかける言葉が見つからなかった。ただ黙って、隣で同じように茜色の海を見つめることしかできなかった。


 ボーーーッ、と。


 紗霧島の港への到着を告げる、重く低い汽笛の音が、船体全体を震わせながら鳴り響いた。


 タラップが下ろされたプライベートポートには、すでに無数のパトカーが赤色灯を回転させながら待機しており、物々しい数の警察官と、連絡を受けて駆けつけたであろう海上保安庁の職員たちが群れをなしていた。


 本来であれば、これほどのVIPたちが乗船している船に警察がズカズカと踏み込むことは許されない。だが、如月彰社長が事前に『事態はすべてコンツェルンが把握した。速やかに身柄を引き渡す』と直接県警本部長に通達を入れていたため、彼らは一切の混乱もなく、スムーズに船内へと誘導されてきた。


 最初にタラップを降りたのは、両脇を屈強な警察官に固められた烏森桐人だった。


 彼の両手には、冷たい銀色の手錠がかけられている。五年間にわたって着こなしてきた第一秘書の完璧なスーツはヨレヨレに乱れ、銀縁眼鏡の奥の瞳は、夕陽の光を一切反射しないほどに虚ろに濁っていた。彼は報道陣のフラッシュが焚かれる中を、一度も振り返ることなく、まるで魂の抜け殻のようにパトカーの後部座席へと押し込まれていった。


 その後ろを、鑑識課の捜査員たちが、厳重にプラスチックケースに保管された『血塗られた歯車とお守り』を慎重に運び出していく。


 僕たちの夏休みを文字通り破壊したあの凶器は、もはや職人の最高傑作でも、悲しい復讐のシンボルでもなく、ただの『証拠品第一号』として、冷たい警察の保管庫へと送られていくのだ。


「あら、そんなにしんみりした顔をして、どうしたの光太郎君。事件を解決した探偵の助手にしては、随分と冴えない表情じゃない」


 不意に、ふわりと高級な甘い香水の匂いが漂い、横から蠱惑的な声がかけられた。


 顔を上げると、エメラルドグリーンのサマードレスを夕風に揺らしながら、姉の翡翠さんが悪戯っぽい微笑みを浮かべて立っていた。彼女の手には、相変わらずあの薄型のタブレット端末が握られている。


「翡翠さん……。いえ、ちょっと、旧市街の知り合いの工場がこんな形で終わってしまったのが、やっぱり少しキツいなって思って。僕、ただの高校生ですし、こんなドロドロした事件を見るの、初めてですから」


 僕が正直な気持ちを吐露すると、翡翠さんは「ふふっ」と小さく笑い、タブレットの画面を軽く指先で叩いた。


「同情する気持ちは分かるけれど、経理担当としての私から言わせてもらえば、感傷は一円の利益にもならないわよ。むしろ、これからが本番ね。時東誠也という巨大な不純物が消え去ったことで、明日の朝には月見坂市の関連株は間違いなく大暴落を引き起こす。……でも、それは私たち如月グループにとって、邪魔な利権を安値で買い叩き、再開発の主導権を完全に握るための絶好のチャンスでもあるの」


 翡翠さんの瞳の奥で、再びあの冷徹な数字の計算が、凄まじい速度で弾き出されているのが分かった。


 人が一人死に、一人の青年が人生を狂わせたというのに、この人にとってはそれすらも、巨大なビジネスチャンスを知らせるただのアラームに過ぎないのだ。如月家の人間が持つ『価値観のスケール』の異常性に、僕は改めて背筋が寒くなる思いだった。


「でも、今回の光太郎君の働きには、少しだけ感謝してあげるわ」


 翡翠さんは、夕陽を受けてキラキラと輝く海面を見つめながら、ふと口調を和らげた。


「あなたのような『旧市街の泥臭いルーツ』を持った人間がいなければ、烏森精密の歯車とお守りの矛盾に気づくことはできなかったし、あの裏階段を走って物理的なタイムラインを証明することもできなかった。……庶民の無駄の多いアナログな知識も、時には最先端の計算式を補完するための良い駒になるってことが分かったわ。これなら、あなたのお父様がコンツェルンの自動車整備工場で働いている分の給料くらいは、十分に見合っていると言えるわね」


 それは、彼女なりの最大限の賛辞なのだろう。言葉の端々に容赦のない毒が含まれてはいるが、僕は素直に「ありがとうございます」と頭を下げた。役に立ったと言われて、嫌な気はしなかったからだ。


「おい、姉よ。わしの専属の下僕を捕まえて、勝手に経理部の備品のように扱うのはやめてもらおうか。サクタロウの価値を鑑定し、運用する権限は、このわしにしか与えられておらん」


 その時、僕の背後から、一切の妥協を許さない、氷点下の絶対君主の声が飛んできた。


 振り返ると、漆黒のサマードレスを着た如月瑠璃が、黒いフリルのついた日傘を優雅に広げながら、こちらに向かって歩いてくるところだった。彼女の歩く道筋だけ、まるでそこが王宮のレッドカーペットであるかのように、周囲の空気がピンと張り詰めている。


「あら、ごめんなさい瑠璃。あまりにも優秀な働き蟻だったものだから、つい私の部署に引き抜きたくなっちゃったのよ。……でも安心して、これ以上あなたのおもちゃを取ったりしないから。私はお父様と一緒にお馬鹿な政治家たちの事後処理をしなければならないしね。じゃあね、光太郎君。また本邸のディナーで会いましょう」


 翡翠さんは優雅にウインクを残すと、ヒールの音を響かせて、足早に警察官たちが集まるポートのテントの方へと歩き去っていった。


 残された僕は、ゆっくりと近づいてくる瑠璃の前に、条件反射のように直立不動の姿勢をとった。


「如月さん……。お疲れ様でした。その、あの歯車、警察に持って行かれちゃいましたね」


 僕が恐る恐るそう言うと、瑠璃は心底不快そうに、チッと舌打ちをした。


「全く、虫唾が走るわ。あの1000分の1ミリの狂いもない極上のルーツを持つ最高傑作を、価値も分からぬ無能な警察の連中が、指紋一つ採取するのにもガサツな手つきでビニール袋に放り込みおった。あれでは、職人の魂が泣くというものじゃ。……だが、まあよい」


 瑠璃は日傘の柄を握り直し、夕陽に照らされた僕の顔を真っ直ぐに見つめた。


「あの歯車は、確かに極上のルーツを持っておった。じゃが、復讐という醜い情念と、時東の薄汚い血を吸いすぎたことで、その本来の美しさは完全に損なわれてしまっていた。……わしの鑑定眼が真に求めているのは、あのような血塗られた不純物ではない。もっと純粋で、もっと圧倒的で、世界そのものをひれ伏させるような、完璧な『モノのルーツ』じゃ」


 瑠璃の言葉には、殺人事件を解決したという達成感や、人の命が失われたことへの感傷など、一切含まれていなかった。


 彼女にとって、この凄惨な豪華客船の密室殺人すらも、自分の求める『極上のルーツ』を探すための、ほんの退屈しのぎの寄り道に過ぎなかったのだ。彼女のその一切ブレることのない絶対的な傲慢さに、僕は疲労を通り越して、一種の清々しさすら感じてしまっていた。


「サクタロウ、何をボサッと突っ立っておる」


 瑠璃が、日傘を僕の胸元へと突き出した。


「わしは、あの愚かな人間どもの醜い嘘を一つ一つ鑑定して回ったせいで、喉がひどく渇いておる。それに、夕陽とはいえ、この島の日差しはわしの肌には強すぎる。今すぐこの日傘を持ち、わしの肌に一ミリの紫外線も当たらぬように完璧な角度で影を作れ。そして、本邸に戻る車が到着するまでに、氷を入れた極上のブラッドオレンジジュースを用意しておくのじゃ。」


 矢継ぎ早に繰り出される、理不尽極まりない命令の数々。


 人が死に、犯人が捕まり、血生臭い事件が終わった直後だというのに、彼女の僕に対する扱いは、昨日の朝から一ミリたりとも変化していなかった。


「は、はいっ! すぐに用意します、如月さん!」


 僕は慌てて日傘を受け取り、彼女の頭上に完璧な影ができるように高く掲げた。


 足の筋肉はパンパンに張り詰め、精神的にも肉体的にも疲労の限界をとっくに超えている。それでも、僕の身体は彼女の命令に従って、勝手にウェイターを探すために動き出していた。


 茜色に染まる紗霧島の港。


 吹き抜ける夏の夕風は、潮の香りと一緒に、僕の額の汗を心地よく冷ましてくれた。


 豪華クルーズ船で起きた悲劇は、一つの歯車とお守りが導き出した残酷な真実と共に、こうして幕を閉じた。


 だが、僕にとっての本当の試練は終わっていない。この圧倒的な権力と美貌を持つ絶対君主の気まぐれに付き合わされる、理不尽で、過酷で、そしてほんの少しだけ刺激的な『終わらない夏休み』は、まだまだこの先も続いていくのだ。


 僕は深い溜息を一つだけこぼし、ブラッドオレンジジュースを求めて、再び全力で走り出した。



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