4話
「はい! 約束の30万!」
「……随分早いんだね」
三か月かかっても厳しい金額だろうと考えていたのだが、予想よりも遥かに速い時間で稼いだようだ。一週間ではバイトという訳ではないだろう。
一体、どんな魔法を使ったのか。
僕のそんな疑問を感じ取ったのか何食わぬ顔で一条 日華が言った。
「うん? 簡単だよ。身体を売って稼いだ。それだけ」
好きな人を兄から奪うために自分の肉体を売った一条 日華。確かに、彼女レベルの容姿ならば、かなりの金額を払う男もいるだろう。
犠牲を払った一条 日華の思いは本物だ。
ならば、僕に残された仕事は秘薬を渡すことだけだ。僕は事前に用意していた白い封筒を渡そうとする。
一条 日華が手を伸ばして、袋を受け取ろうとした瞬間――、
「やはり、お前が――!!」
人間離れした力に引き上げられて宙を舞った。何が起こったのか頭が状況を判断するよりも先に、体が壁にぶつかった。
どうやら、僕は俵を投げるように放られたらしい。
「がっ……。ああ……」
痛みに蹲る僕にゆっくりと近づく足。僕はその足が誰なのかを把握するべく顔を上げた。そこに居たのは、一条 陽。
何故、彼がここに……?
「お兄ちゃん! なんでここにいるの!?」
椅子に座ったままの姿勢で、固まっていた一条 日華が僕の元に駆け寄ってきた。
「いきなり人を投げ飛ばすなんて」
僕の腰に触れながら兄を睨んだ。
「うるさい! お前がこいつからクスリを買うために身体を売ったことは知ってるんだ! これを見ろ!」
証拠だと喚きながら何枚もの写真を放り投げた。ヒラヒラと舞いながら落ちてくる写真。地面に落ちた一枚が僕の視線に入ってきた。
それは、裸で太った男のベットで横たわる一条 日華がいた。
「こんなことまでして、何が欲しいんだ! 金で女性を買おうとする男と身体を重ねるなんて恥ずかしいと思わないのか!!」
叫ぶだけでは怒りが収まらないのだろう。
右手に作った拳でテーブルを殴った。
「なっ……!?」
瓦が割れるようにして木製のテーブルが二つに折れた。空手をやっているからできたなんて理由にならない。
怒りで尋常じゃない力が出ているのか――。
いや。
それは違う。
全身を走る血管が波打つその姿は、僕は何回か目にしたことが有る。
「秘薬を使ったのか?」
僕は咄嗟に考えたのは、今回の件で僕が実績を残すことを妬む人間だ。僕みたいな下っ端で、ただ、先輩に気に入られているだけの無能は憎まれても仕方がない。
「俺がお前たちを潰す。こんなクスリのために妹を……!」
「参ったね……」
僕は秘薬も使っていなければ空手も習っていない普通の肉体だ。壁にぶち当てられた痛みは中々治まらない。
このまま、僕は一条 陽に殺されるのか。
怒りという感情で理性を失いかけている彼ならば、僕を殺すことを躊躇わないだろう。
「お兄ちゃんには分からないよ。欲しくても絶対手に入らないものがあるってこと」
「なに……?」
「私を守るとか言ってるけど、私はお兄ちゃんになんか守られたくない。私は守られても絶対に満たされないんだから」
「どういうことだ……?」
秘薬を受け取ったとはいえ、今回の事情は全て説明を受けている訳ではないようだ。妹の言葉に動きを止める。
この隙に次の一手を考えなければ。
「守るって言ってるくせに、私の気持ちも知らないんだね」
「だから、なんのことだ?」
「私は、私は――紅葉 万葉が好きなの! 彼女と付き合いたいしお兄ちゃんにずっと嫉妬してた。でも、私は女だし、友達だし、一緒に笑える今の関係を崩したくなかった! なのにお兄ちゃんが万葉と付き合って、なのにデートもろくにしないで悲しませるし。守るのは私より万葉でしょ!?」
「お前」
「だから、望む力を与えてくれるクスリが欲しかったの。私はね! 知らないおじさんに抱かれるよりも――お兄ちゃんに守られる方がずっと気持ち悪いんだよ!」
今まで堪えてきたものを、溜め込んでいたモノを吐き出す一条 日華。妹を守るために秘薬を飲んだ兄は、守るべき妹からの拒絶に完全に自我を無くした。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」
お前は俺のモノだ。
過保護なまでの一条 陽の態度。それは一条 日華が親友を愛しているのと同じように、妹を愛していた。好きだった。
秘薬を口にして居なければ、互いが心に傷を負うだけで済んだだろう。
今更、そんなことを考えた所でもう遅いのだろうが。
怒りに支配された一条 陽は、妹の頭を掴んで握りつぶした。
「あ、ああ……、あああああ!」
自分で殺しておきながら、頭が無くなった一条 日華を強く抱きしめる。力のコントロールを放棄した一条 陽の抱擁はバキバキと音を立て血を流す。
「お前が……お前が、妹を!!」
どうやら、一条 陽の中で妹を殺したのは僕と言うことになったらしい。
何でこんなことになったのか。
やっぱり、僕に大きな仕事は難しい。
引き受けなければ良かった。
僕は後悔しながら命を潰された。
◇
「ごめんね、ここまで来るのに時間が掛かったね」
血の海と化した夢幻寮の屋上で星を眺めているのは、想太が先輩と慕っていた男だった。夜空に瞬く星々に誰かを重ねているのか、愛しそうに呟く。
その姿に余裕はなく、親に甘える子供の様だった。
「でも、作戦通りに上手く言ったよ。彼らは自分たちの開発した悪魔のクスリで滅んだんだ。うん? ああ、大丈夫。彼にはちゃんとお礼を言ったよ?」
彼と言いながら地面を見下ろす。夜空の闇で隠れているが、この下には一条 陽が死んでいるはずだった。
秘薬の効果が切れ、後悔の念で自ら飛び降りたのだった。
「でも、逃げた奴らもいるから、彼らも同じ場所に送らないと」
秘薬を使って自分の勤めていた上司、同僚、後輩。年齢、肩書に関係なく殺す。それがこの男の目的だった。
今回の一条 陽の暴走。
それもまた、男が裏で描いた理想通りの絵。
秘薬の新たな使い道を提案し、重役たちの興味を移す。そして、その仕事を後輩である想太に託すことで、自分の注意を反らした。
更にはフォローするという項目で、一条 陽に近づいた。
想太が尾行に気付いていたのは、忠告したから。
「ふふふ。本当は彼に近づくために、一条 日華をスカウトしたとは――結局誰も気付かなかったみたいだね」
普段通りの紳士然とした態度に戻り夜風に両手を広げる。
「格闘経験があり、思い込みの激しい熱い性格。そんな彼に秘薬を使えば、こうなることが分かってましたから。これで仇は討ちましたよ、母さん」
そう――男は秘薬によって母を殺されていた。20年前のことだった。まだ、開発段階であった秘薬を、甘言と共に持ってきたのは夢幻寮に住む社員だった。
父親のDVに悩まされていた母は、立ち向かうために、子供を守るために実験体になることを了承した。
了承して――死んだ。
その口封じとして父親は大量の金を受け取り、子供たちはDVを受けながら成長した。
復讐するために勉強を重ね、遂に殺した。
元々酒におぼれていた父親だ。事故死に見せるのは簡単だった。
そして今夜、もう一つの復讐が始まった。
クスリが危険だと分かりながら、弱い人間に付け込んだ相手を、自らの薬で滅ぼすのだ。
「僕がそっちに行くまでは――もう少し待っててね、母さん」