1話
「これを飲めば――あなたに力を与えてくれるだろう。あなたが望む力を、欲する力を。もっとも、中途半端な覚悟では扱えませんが。それでもあなたはこれを飲みますか?」
僕はこの日のために考え抜いたセリフを言う。何度も一人で練習した成果があったのか分からないが、言いよどむことなく隣に座る女性に伝えることができた。
深夜。
初めて女性と会うにしては遅すぎる時間。こうして仕事でなければ決して入らないであろうお洒落なバーで隣り合ってグラスを交わしていた。
とは言え、僕は仕事の最中なのでアルコールは入っていない。それどころかお子様も安心して飲めるミルクを頼んでみたのだが、嫌な顔せずマスターは提供してくれた。
なんて、ここは元よりうちの会社が契約しているバーなので、多少の我儘や融通は効くのだけれど。
僕が考え抜いたセリフと共にカウンターを滑らせた袋を手に取って女性は問う。
「これがあれば――あの人に痛みを与えらるのですか?」
「ええ。本気であなたが望むならば」
こういう時、例え嘘くさくても満面の笑顔が効果的だと先輩が言っていた。この女性は藁にもすがる思いでここにやってきた。そんな人に対してこっちがオドオドしていたら、買ってもらえるものも買ってもらえなくなる。
怪しいやつの笑みなんて、人が離れていくだけではないのかと僕は思ったのだけれど、売り上げトップの先輩の言うことだ。
初めの内は聞いておいた方がいいだろう。
僕はにんまりと笑ってみせた。
「……分かりました。では、買わして貰います」
悩んだことを言いながらも、ピンクのブランドバックの中にはあらかじめ茶封筒が用意されていた。僕は受け取って中を確認する。
中にはぱっと見では数えきれない一万円札が。
女性が僕を騙そうとしていなければ、100枚の束である。
100万円だ。
「……確認します」
僕は慣れない手つきで触ったことのない大金を数え始める。こういう時、さっと数えられれば格好いいのだろうが、一枚でも足りなければ怒られるのは自分なので、ズレのないよう一枚ずつカウントする。
「確かに、受け取りました」
枚数は間違うことなく100枚。
僕はそれを受け取ってアタッシュケースに保管した。
「……」
しまった封筒を取り出して彼女に返したくなる。お金なんていりません。それを使って復讐してくださいと仕事であることを放りだしたい。
だが、そういう訳にも行かない。
僕一人ではどう足掻いたって人を救うことはできない。それが分かってるからこそ、この仕事に就いたのだ。
未知の秘薬を販売するこの仕事を――。
◇
翌朝。
初めての仕事で緊張したのか、いつもよりも遅い時間に目覚めた。真っ白な娯楽の一つもない部屋に置かれた昔ながらの頭に二つの鐘がついた目覚ましを見る。
時刻は10時。
休日と言うことも有り、昼間で寝ようと思ったのだけれど、2時間ほど早く目覚めてしまった。それも当然か。
昨日の夜は緊張でろくに食事もとっていなかったのだ。
空腹が目覚ましとなった。
上半身だけを起こして軽く背筋を伸ばす。そしてベットから降りて食堂へと向かう。
ここは夢幻寮。
僕のような営業から、研究者まで一同に暮らす巨大なマンションだ。もっとも一同に暮らすと言っても、部署で棟は分かれているので顔を見ることはないのだけれど。
ともかく、営業棟の最上階にある食堂を僕は目指す。
営業の立場は夢幻寮の中でも低く、エレベーターもないオンボロだ。作ったモノを売るだけの簡単な仕事だと他の人間から不満があるようで、中々工事を行って貰えないらしい。
もっとも、それは先輩のお陰で近々解消されるのだろうが。
最上階に付くとこれまで登ってきた階層とは異なる出で立ちだ。
踊り場からでると廊下だったコンクリはなく、暖簾の付いた扉があった。
「おはようございまーす」
扉をスライドさせて中に入る。
扉の横には自動で締まるようにするためか、白い砂の詰められた2ℓのペットボトルが紐で吊るされていた。
扉くらい自動ドアにしてくれればいいのに。
そんなことを思いながら席に付こうとすると――、
「おはよう想太くん。今朝の新聞は読みました?」
テーブルの中央に座る男性が声を掛けてきた。
オンボロな大衆食堂のようなこの場に相応しくない、黒いスーツ。胸のポケットからは赤いハンカチが出されていた。
そんな絵にかいたような気品差を身に纏う男性ではあるけれど、それと見合うようにルックスもいい。背も高いし、モデルにでもなれるだろう。
彼こそが僕に仕事を教えてくれた先輩だった。
「いえ、まだ……」
「そうですか。なら、すぐに確認してください」
僕が新聞を確認しないことを想定していたのだろう。手に持っていた新聞――ご丁寧に指定したいページには赤い付箋が張られていた。
僕は表紙に掛かれた政治家のスキャンダルに目を通すことなく付箋を開いた。
子供のころからの癖で後ろのテレビ欄と4コマだけ読みそうになるが、先輩の手前、そんな真似はできない。
ページを開くと先輩がどの記事を伝えたいのか直ぐに分かった。
「水商売の女性。同居人の男を殴り殺す」
地元の記事でもこれだけ小さい扱いなのだ。全国区ではニュースにもならないだろう。
いや、そんなことより――、
「捕まっちゃったんだ。でも――解放されたんだ。良かった……」
欲を言えば捕まることなく、復讐を果たしてほしかったのだけれど贅沢は言うまい。
初めての仕事で目的を達して貰えたのだ。
それだけで充分ではないか。
僕は心が満たされたのを感じながら朝食を食べる。今日は白米、ししゃも、みそ汁という和食のようだった。
普段ならばボリューミーに感じるメニューなのだが、今の僕には丁度いい量だ。ししゃもを頭から食べようか尻尾から食べようか悩んでいると(これは別に頭から食べると頭がよくなり、尻尾から食べると足が速くなるという小学生染みたことで悩んでいるのではない。ただの食感の問題だ)、
「全然良くないよ、想太。まず、小さいとは言え、記事になるのは防がないと上に迷惑がかかるでしょう。そして二つ目。最後までどうなるか見届けるのも私たちの仕事ですよ」
先輩は食後の一杯だろうか。持参した高そうなカップを手に持って注意してきた。
「……はい」
「不満そうですね。一々態度に出していたら、良い営業マンにはなれませんよ?」
不満だとアピールするつもりはなかったのだけど、どうやら態度に出てしまったらしい。
反省だ。
まあ、アピールする気はないのだけれど、不満には思っているので素直に謝る。そんな僕に優しく微笑み、不満の内容を吐き出すように促す先輩は、成績だけでなく性格まで優秀なようである。
「……はい。僕たちは、あくまでも復讐をさせるための力を与えるのが仕事。そこからは下手に干渉しない方が――」
例え、今回力を与えた女性のように、人を殺めたとしても、その後処理までは関与する必要はない。そこから先は自己責任だ。
僕がそうしてきたように――どう足掻くのか。当人が決めるしかない。ターニングポイントで都合よく手助けをするほど僕は人が出来ていない。
だが――、
「違いますよ」
使用後のアフアーケアをするのが目的ではないと先輩は言った。
「結果、どうなるのかまで確認するのが仕事です。そんな売って終わりなんて三流の仕事ですよ。売って得るのが金銭だけでは、実りが少ないですからね」
「……」
「ですから、最低限、我々の痕跡を消しておくべきなのですよ」
「でも、別に僕たちの与える薬は使用後、一時間もすれば薄まり痕跡も残らないんですよね?」
「ふふふ。痕跡とはクスリのことではありません。我々が「売った」という事実です」
僕たちが売っているのは新薬である。
とは言っても麻薬やら大麻のように人体に悪影響もなければ、中毒性もない。ただ――少しの間、新薬を使用した人間が望む力を与えるだけだ。
筋力の増加。
知能の上昇。
動じぬ心。
風邪を引いたから風邪薬を飲むように、力のない人々が立ち向かうために使用する。そんな薬だ。本当はもっと広く表立って活動したいのだけれど、多少の問題点があるため、極秘裏にデータを集めているのが現状だった。
「ただですら、改良に時間も人も取られるんですから、これ以上、警察やらマスコミやらに時間を割くわけには行かないんですよ」
「分かってます」
力強く頷く僕の頭を掻いて先輩は立ち上がった。
「本当、君は変わった子だ。誰よりも使用者に対して親身になるくせに、誰よりも冷酷だ。だからこそ、私が目をかけているのだけどね」
「……ありがとうございます」
先輩は食堂から出ようと扉に手を掛けた。そこで、ふと何かを思い付いたように僕に一枚の写真を投げた。
回転しながら、僕の座るテーブルに止まる一枚の写真。
この人、営業よりもサーカスとかタレントになった方がいいんじゃないかと思ったが、そんな冗談を口にする前に、先輩が言う。
「その子、次のスカウトなんだけど、良かったら想太が受けてくれない?」
「僕、仕事終わったばかりなんですけど……?」
「頼んだよ」
受けてくれないかと質問したくせに、僕の答えは聞かずに去って行った。テーブルに残った写真は女子高生。
笑顔でピースサインを作ってカメラに映っていた。