半人前
地下水脈に連なる河童王国の南東部に位置する水叡殿は政治を司る王宮であり、王家や貴族階級の居住区でもある。
「またバタバタと」
長い廊下を走る音が、朝からひっきりなし。止まったかと思えば、またバタバタ。
「うるさいなあ」
居室の前を足音が通り過ぎるたびに、スボウジュは苛立った様子で頭を掻きむしる。
「さっきから同じ頁の同じ行から先に進みやしない」
静かに読書にふけりたいスボウジュは、何だか邪魔されているような気分になっても不思議ではない。
「もうちょっと静かに…」
扉を開けたスボウジュ。その足元を、ものすごい勢いで風が走りぬける。
否、風ではない。
雑巾がけの女中。
「あら、王子さま…」
へたりと座り込んで、流れ落ちる汗を拭きつつ、スボウジュを見上げた住み込み、凛。
お妃候補として地上からやって来た彼女、すっかり女中姿が板についてきた。
「ご迷惑でしたか…?」
「そうまで一生懸命にやらなくったって」
ハアハア息を切らしながら凛が答えた。
「いえ。いつお客様がいらっしゃるかわかりませんし。大事な王子さまの部屋の真ん前の廊下が汚れていては国の恥、でしょ」
ニッコリと笑う頬を汗が伝う。
なぜだか面映いような気がして、スボウジュは視線を逸らした。
「ふうん…こんなキツいだけの雑用、毎日よくやるぜ。もう二ヶ月にもなるか」
「何をおっしゃいます、王子さま。もう三ヶ月と十日になりますよ。だいぶ上手になったんですよ。ほら、見てくださいこの艶…」
凛が指差す先に、磨き上げられた板張りの廊下。
「艶か…確かに、な」
スボウジュの視線の先は、廊下の輝きではなく凛のうなじにあるようにも見える。
「王子さまに喜んでもらえれば、あたしも嬉しいのですよ」
「ん、あ、ああ。そうか…」
ふと、スボウジュは笑顔になっている自分に気付いた。
国政や自分の境遇は相変わらず好ましい状況には思えない。そんな鬱積する苛立ちを、この笑顔が和らげてくれているのだろうか。
「そうか…」
両手で雑巾を握って絞る姿、そのはだけた裾から覗く美しい脚。
一生懸命に柱を磨く、その真剣で潤んだ瞳の輝き。
初めて出会ったときから凛の美しさには些かも変わりはない。
「そうだよな…」
(このままずっと、この笑顔の隣で生きていく。そんな暮らしも悪くない)
洗い終わった雑巾を庭先に干そうと手を伸ばす凛。
後ろから、その亜麻色の長くしなやかな髪の毛に手を触れようする。甘い香りが漂っている。
その時、向かいの会議室からけたたましい怒号が聞こえてきた。
「バカモノっ。手ぬるいっ。だからお前はいつまでたってもバカだというのだっ」
凛が急に振り向き、スボウジュは慌ててその手を引っ込めた。
「またか…」
最近ますます大きくなった怒鳴り声。その主は摂政エボノ。
「五割じゃ立ち行かないのは目に見えてるだろうが。ばか者っ」
声はどんどん大きく。
「だから、六割五分というのは半年前からの既定路線なんだっ、何度言えばわかるっ」
どんどん甲高く。
「できないと言うなら、ええいっ、お前はクビだあっ。下がれ、顔も見とうないわっ」
「最近どんどんひどくなりますね…」
不安そうな凛。
「どうなっちゃうんだろ、この国」
「国?」
スボウジュは眉をひそめた。
「あいつら…」
スボウジュは凛に向かって「任せとけ」というような手振り。
「国の王は、俺なんだ」
肩をいからせて、会議室に向かった。
「おいおい、諸君っ」
会議室の扉を開けると、王国の中枢の錚々たる顔ぶれが並んでいた。
政策会議の真っ最中。あと一ヶ月半に迫った新年のからの予算が審議される丁々発止。
唾を飛ばしている摂政エボノに向かってスボウジュが声を上げた。
「なあエボノ、また癇癪か。六割五分ってまさか年貢か。なら法外だ、いくらなんでも…」
「はあ?」
目を釣り上げるエボノ。
「誰か知らんが偉そうに…」
振り返って、声の主がスボウジュと判ると急に笑顔に。
「いや、その王子さま。あはは、急に、びっくりしましたわたくし」
「高すぎる年貢は庶民の不満を…」
エボノが言葉をかぶせた。
「何をおっしゃいます王子さま。不満どころか、我が河童王国は空前の繁栄の真っ只中」
「お前はいつもそういうが…」」
「ええ、そうですとも。間違いない。これも先代の、いやいや王子さまのおかげ」
首をひねるスボウジュ。
「いや、俺は何にも…」
エボノは満面の笑み。
「いえいえ、王子さまの存在がこの国の要。万事安泰」
言い終わるや、すぐに顔を曇らせた。
「ところが農民どもときたら…繁栄を享受するばかりで、肝心の、国への感謝ということを忘れている始末」
「そうは言うが…」
「ともかく、国があっての個人なのです。それとを身に染みて理解させねばなりません」
「それだけではございませんよ、王子さま」
エボノの隣に座した男も声を張り上げた。
高官であることを誇示するような煌びやかなローブ、その胸にたくさんの勲章をぶら下げた国防長官、エグローグ=フスーブ。
「人間たちが河童王国を侵攻しようと画策している節がある。いつ戦が始まってもいいように軍備を進めねばなりません」
「人間たちが、攻めて来るだって?」
「極秘の機密事項です。王子さまだからお教えしましたが。備えあれば憂いなし。備えの一歩は国力から…」
フスーブの前には精密な図面が描かれた大きな海樹紙。気付いたスボウジュが指差す。
「で、また兵器を作ろうってのか。その図…」
「あっ、こ、これは」
「そこに描かれてある土台は古い神殿じゃないか。あんな聖地まで軍事目的に…」
エボノがサッと立ち上がった。
鋭い目つきでフスーブを制するように一瞥し、笑顔で説明を始めた。
「いえ、王子さま。競技場です。四年に一度、全河童民を挙げての運動競技の祭典、そのための競技場の図面ですよ」
「運動競技の祭典?」
「ええ、莫大な費用が要るのです、だから年貢を上げねばなりません」
「年貢を上げてまで、というなら計画に無駄が過ぎるのでは…」
「いえ、この祭典が成功すれば莫大な富が舞い込み、国が潤う」
「国民ではなく、国が、潤う?」
やれやれ、という表情のエボノ。
「王子さま。あなたはまだ政治の常識がお解かりになられていないようだ」
「そんなことはない、毎日書物を読んで…」
エボノは会議室の入り口に立つ衛兵に目配せをした。
「さあ、王子さまはお疲れのようだ。お部屋にお戻りになられる」
体格のいい衛兵が二人、スボウジュに近づいた。
「ちゃんと護衛してお部屋にお連れしろ」
締め出されたスボウジュ。ぴしゃりと締まった扉の外でぐっと唇を噛み締めた。
「わかってないのはどっちだ、くそっ」
巨大洞窟の昼を演出する発光キノコたちが傘を閉じれば、河童の王国に暗闇が訪れる。
淡い緑色に光る街の明かりもポツポツと消え、やがて空気弁が閉じるのと同時に水門が開く。
清らかな水に満たされた河童の国の夜。
つづく




