第1話 ゴスロリの孫がやってきた
孫がやってきた
1 朝の咆哮
午前五時四十五分。湾岸の倉庫街は、まだ夜の底に沈んでいた。
大神運輸の整備場に、六台のトラックが鼻先を揃えて並んでいる。冷え切ったディーゼルエンジンが白い息を吐き、作業着の襟を立てたドライバーたちが、缶コーヒーで指先を温めていた。古いラジオから流れる天気予報と、誰かが空気圧を確かめるタイヤの軋み。それだけが、冷たい空気を震わせていた。
午前七時。
本社の鉄の扉が、ぎい、と開いた。
出てきたのは、一人の老人だった。
銀髪のオールバック。黒い革ジャン。七十をとうに過ぎているはずなのに、その背筋は工場の鉄骨のようにまっすぐだった。
大神鷹三郎。この会社の社長だ。
その姿が見えた瞬間、整備場のざわめきが、すっと引いた。誰に命じられたわけでもない。ドライバーたちは無意識に缶コーヒーを置き、背筋を伸ばしていた。
鷹三郎は六台のトラックの前に立ち、男たちを見渡した。
そして、ひとつ。
――ゴホン。
咳払いだった。
ただの咳払いだ。それなのに、ラジオの音さえ消えたように感じた。
入社二週間の新人ドライバー・佐藤は、思わず生唾を飲み込んだ。何が起きたのかわからない。ただ、心臓が勝手に縮み上がっていた。
その隣で、古株の山崎力也だけが、口の端をかすかに上げていた。
――変わらねえな、総長。
力也は知っている。三十数年前、この咳払い一発で、深夜の国道に集まった数百台の単車が一瞬で静まり返ったことを。
関東連合 雷神会。関東最強と恐れられた伝説の暴走族。
その初代総長、通り名をディーター。
誰も本当の由来を知らない。ただその名を聞くだけで、関東中の不良が道を空けた。
「安全第一だ」
低い声が響いた。
「押忍ッ!!」
男たちの返事が、倉庫街に反響した。ディーゼルが一斉に吠える。六台のトラックが、朝靄を切り裂いて走り出していく。
事務所の奥では、一人の女が帳簿を閉じていた。
大神涼子。鷹三郎の妻。六十五歳。銀髪を後ろで一本に束ね、黒革ジャンの袖を肘までまくっている。引き締まった前腕に、色の褪せた入れ墨がちらりと覗いた。
かつて「女帝」と呼ばれた女の名残だった。
戻ってきた鷹三郎に、涼子は帳簿から目も上げずに言った。
「ディーター。あんた最近、甘くなったね」
「何がだ」
「目つき。丸くなった」
鷹三郎は鼻で笑い、煙草に火をつけた。
「細胞は老ける。魂は老けねえ」
「言ってな」
三十年前に足を洗った今も、この二人は伝説のままだった。
その時、事務所のドアが開いた。
ドアの上の銀の風鈴が、ちりん、と鳴った。
入ってきたのは――
黒だった。
黒いフリル。黒いレース。黒いリボン。胸元で揺れる銀の十字架。足元は、十センチはありそうな漆黒の厚底ブーツ。そしてその頭には、朝日を浴びて燃えるような金髪の縦ロール。
運送会社の油臭い事務所に、全身漆黒のデコレーションケーキが立っていた。
外でトラックの見送りをしていた佐藤が、窓越しにそれを見て、ぽかんと口を開けた。
――え、女の子? なんで?
人形のように整った顔。長い睫毛。だが、その目だけが違った。
鋭い。刃物のように鋭い。ナイフを呑んでいる目だった。
肩には、黒いベースケースを担いでいる。
人形は、ぶっきらぼうに顎を上げた。
「よぉ。じいちゃん、ばあちゃん」
低く、太く響く声だった。
――男の声だった。
窓の外で、佐藤が缶コーヒーを落とした。
2 血の視線
LUY。本名、大神ルイ。
鷹三郎と涼子の、たった一人の孫だ。
三年前、高校を出ると同時に家を飛び出し、東京の大学へ行った。バンドでベースを弾いているらしい。連絡はほとんどなかった。正月に一度、「生きてる」とだけ書かれたメールが届いた。鷹三郎が孫について知っていることは、それで全部だった。
先週、そのLUYから電話があった。
「東京の家賃、高えんだよ。しばらく居候させてくれ」
鷹三郎が何か言う前に、受話器を奪い取った涼子が一言で片をつけた。
「好きにしな」
それで、今日だ。
涼子が椅子の背にもたれ、上から下まで孫を睨めつけた。
「その格好で来たのかい」
「普通じゃねえ方がいいだろ」
LUYは片方の口の端だけを吊り上げた。挑むような笑みだった。
だが涼子は見逃さなかった。その笑みの奥に、ほんの一瞬だけ、影が差したのを。
鷹三郎は無言で煙草を灰皿に押しつけた。そしてゆっくりと、孫の前に立った。
百八十五センチの祖父と、厚底ブーツ込みでようやく目線が近づく孫。
鷹三郎は、値踏みをするような目でLUYを見下ろした。
――三年前の、ひょろっとしたガキじゃねえ。
フリルもレースも、どうでもよかった。鷹三郎が見ていたのは、その奥だった。
危うい。今にも何かを踏み外しそうな、ぎりぎりの縁に立っている目だ。追い詰められた獣の目だ。
だが――
「……いい目だな」
LUYの表情が、揺れた。
ほんの一瞬だった。挑発の仮面が剥がれ、その下から、迷子の子どものような顔が覗いた。
涼子も、鷹三郎も、それを見逃さなかった。
「上がれ」
それだけ言って、鷹三郎は事務所の奥へ消えた。
LUYは、その広い背中を見送った。ベースケースの肩紐を握る指に、知らず知らず力がこもっていた。
3 音の迷い
二階の角部屋。
LUYの母親が、生前使っていた部屋だった。
涼子が掃除をしておいてくれたらしい。畳はきれいに拭かれ、窓辺には小さな花瓶に野の花が一輪挿してあった。箪笥の上には、写真立てがひとつ。若い女が、赤ん坊を抱いて笑っている。
LUYは写真立てを、そっと伏せた。
それから、窓に黒い布を張った。アンプを置き、エフェクターボードを並べ、壁にはポストハードコアのバンドのポスターを隙間なく貼り巡らせる。化粧台にメイク道具を一列に揃える。
三十分後。真昼だというのに、部屋は夜になっていた。
LUYはベッドに腰を下ろし、ベースを膝に乗せた。
アンプの電源は入れない。生音さえ、ほとんど鳴らさない。左手の指が、蜘蛛のように指板の上を這い回る。右手は、弦に触れるか触れないかのところで止まっている。
音を出さないのは、近所に気を遣っているからではなかった。
――音を出すのが、怖い。
東京のバンド、ノイジー・クレイドルは、メジャーデビューの話が来ていた。レコード会社のプロデューサーは、もっと売れる曲を、もっとわかりやすいサビをと言った。メンバーは、全員それに乗った。
LUYだけが、乗れなかった。
言われた通りに弾けば弾くほど、自分の音が自分のものじゃなくなっていく。指先が、少しずつ冷たくなっていく。最近では、ステージの上で手が震えるようになった。
「帰ってきた理由、言いな」
不意に声がした。
ドアが開いていた。涼子が、腕を組んで立っている。
「……ノックしろよ」
「自分ちだ。必要ないね」
涼子は黒い布で覆われた部屋を、じろりと見回した。伏せられた写真立てに、一瞬だけ目が止まる。だが何も言わなかった。
代わりに、ずばりと言った。
「逃げてきた顔だね」
「逃げてねえ」
「じゃあ何だい」
LUYは、しばらく黙っていた。指板の上で止まった自分の左手を見つめる。
「……音が、ズレた」
「音?」
「バンドの方向性。プロデューサーが売れ線にしろって言って、みんなそれに乗っかった。俺だけ、外れた」
涼子は、ぷっと噴き出した。
それから、腹を抱えて笑い出した。
「はっ! 昔とおんなじじゃないか。群れたがるくせに、気がつきゃいつも一人。あんたの母親そっくりだよ」
LUYの目が、すうっと細くなった。
図星だった。
「……褒めてんのか、それ」
「さあね」
涼子は笑いを収めると、ドアノブに手をかけた。そして背中を向けたまま、去り際に一撃を放った。
「一人で立つ奴はね、誰よりも強くなきゃいけないんだよ。あんたはまだ、そうなれてない。だから逃げてきたんだろ」
ドアが閉まった。
足音が、階段を降りていく。
LUYはしばらく、閉まったドアを睨みつけていた。
それから、右手を振り上げた。
――バチンッ!
親指が、四弦を叩いた。
アンプを通さない生音が、部屋の空気を震わせる。窓に張った黒い布が、かすかに揺れた。
低く、太く、荒々しい音だった。
LUYは、自分の指先を見つめた。
震えていなかった。
――まだ、生きてる。
4 食卓の喧嘩
大神家の朝飯は、昔から決まっている。
味噌汁。焼き魚。白飯。漬物。それだけだ。鷹三郎の掟だった。贅沢はしない。残さない。食卓で携帯は触らない。
LUYが来てから三日。その食卓の空気は、少しだけ変わっていた。
ゴスロリのドレスの上に割烹着を羽織った孫が、黙々と鯖の骨を外している。その光景に、涼子はまだ慣れなかった。
三日目の朝。鷹三郎が、ことりと箸を置いた。
「バンド、続けるのか」
「やめる理由がねえよ」
「食えるのか」
「知らねえ」
「じゃあ、覚悟が足りねえ」
空気が、凍った。
涼子が新聞を広げたまま、その陰から二人の様子をうかがう。
LUYの箸が止まった。
「……じいちゃんに、何がわかんだよ」
「わかる」
鷹三郎は、湯呑みの茶をひと口すすった。
「俺は食えねえ道も走った。何度も死にかけた。腹を刺されたこともある。二百キロでガードレールに突っ込んだこともある」
淡々とした声だった。昨日の天気の話でもするように。
「だが、てめえのオトシマエは全部てめえでつけた。だから今がある。誰かに言われて走ったんじゃねえ。自分で選んだ道だからだ」
LUYは黙った。
祖父の言葉が、喉の奥に刺さった小骨のように、ちくりと痛んだ。
「お前はどうだ」
鷹三郎の目が、まっすぐに孫を射抜いた。
「自分で選んだのか。それとも、流されただけか」
LUYの手が、膝の上で震えた。
バンド。大学。家出。全部、自分で決めたはずだった。誰にも頼らず、自分の意思で選んできたはずだった。
それなのに今、その全部が、足元からぐらぐらと揺れている。
売れ線に乗れなかったのは、信念だったのか。それとも、ただ怖かっただけなのか。
LUYは、ゆっくりと顔を上げた。
「……自分で選んだよ」
声は、かすかに掠れていた。
だが、目は逸らさなかった。
鷹三郎は、しばらく孫の目を見ていた。それから、短く言った。
「なら、死ぬ気でやれ」
それだけだった。
鷹三郎は再び箸を取り、味噌汁をすすった。話は終わりだ、という合図だった。
LUYは、祖父の横顔を盗み見た。
皺だらけの顔。白い眉。だがその奥にあるものは、少しも錆びていなかった。
鋼だった。
5 伝説の検索
その夜。
LUYは黒い布に覆われた部屋で、ベッドに寝転んでスマホを眺めていた。
指が、勝手に検索窓に文字を打ち込んでいた。
雷神会 初代総長 ディーター
ヒットは多くなかった。だが、古い個人ブログや、昭和の暴走族を扱ったまとめサイトのアーカイブに、その名前はぽつりぽつりと残っていた。
『関東最強。ディーターの咳払い一発で、数千台が沈黙した』
『決して自分から喧嘩を売らない。だが売られた喧嘩は一人で買い、必ず勝った』
『静かなカリスマ。怒鳴る姿を見た者はいない』
――数千台って。盛りすぎだろ。
LUYは鼻で笑った。笑いながら、スクロールする指が止まらなかった。
掲示板の書き込み。『親父が昔、ディーターの集会を遠くから見たことがあるらしい。二度と見たくないって言ってた』。『ディーターって由来なんなの?』『誰も知らない』『ドイツ人とのハーフって噂』『いや、ただのあだ名だろ』。
そして、一枚の写真に行き当たった。
白黒の、粒子の粗い写真だった。
深夜の国道。地平線まで続く、無数の単車のヘッドライト。その光の海を背にして、一人の若者が立っている。
黒い革ジャン。風に流れる銀色の髪。
笑っていなかった。カメラを、まっすぐに睨みつけていた。
LUYは、息を止めた。
――じいちゃんの目だ。
そして、気づいた。
――俺の目だ。
今朝、鏡の前でアイラインを引いたとき。黒いレースの奥から、自分を睨み返してきた、あの目。
そっくり同じだった。
LUYはスマホを胸に伏せ、天井を見上げた。
フリルも、レースも、厚底ブーツも、じいちゃんとは何ひとつ似ていない。似ないように生きてきた。暴走族の孫だなんて、ダサいと思っていた。
だが、血は嘘をつかない。
胸の奥が、じわりと熱くなった。何か、ずっと眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ましていくような熱だった。
6 ステージの闘い
一週間後。下北沢SHELTER。
地下へ続く狭い階段の壁には、何十年分ものステッカーが地層のように重なっている。湿った空気。こもったドラムの残響。煙草とビールの匂い。
今夜は、ノイジー・クレイドルにとって特別な夜だった。メジャーデビュー前のお披露目ライブ。レコード会社の人間が、客席の後ろで見ている。
LUYは、楽屋の裏口から出た非常階段の踊り場で、膝をついていた。
胃が焼けるように熱い。心臓がうるさい。指先が、氷のように冷たい。
――また、ズレる。
リハーサルで、新曲の売れ線のフレーズを弾いたとき、指が止まった。体が拒否していた。本番で、また止まったら。客の前で、自分の音が死んだら。
「情けないねえ。臆病者」
頭の上から声が降ってきた。
顔を上げると、非常階段の手すりにもたれて、涼子が煙草をくわえていた。黒革ジャンが、夜の闇に溶け込んでいる。
「……なんで来てんだよ」
「暇だからさ」
六十五歳の祖母が、下北沢の地下のライブハウスの非常階段にいる。どう考えても暇つぶしで来る場所ではなかった。
LUYは荒い息のまま、吐き捨てるように言った。
「客、二十三人だってよ。チケット、全然売れてねえ」
「関係ないだろ」
「あるよ」
「ないね」
涼子は煙草を指で弾き飛ばすと、階段を二段降りた。そしてLUYの顎を、がしりと片手で掴んだ。
マスカラが滲みかけた目を、無理やり上に向けさせる。
「あんたは今日、何しに来たんだい」
「……」
「客の数を数えに来たのか? 偉いさんのご機嫌を取りに来たのか? 違うだろ」
涼子の目が、まっすぐにLUYを射抜いた。
「自分を見せに来たんだろ。だったら逃げんな」
――震えが、止まった。
LUYは、ゆっくりと立ち上がった。涼子の手を払い、手の甲で目元を拭う。滲んだマスカラが、黒い線を引いた。
「……メイク、直してくる」
「さっさと行きな」
午後八時。照明が落ちた。
暗闇の中、LUYはステージの中央に立った。客席は、確かにまばらだった。後ろの壁際で、スーツ姿の男が腕を組んでいる。
セットリストの一曲目は、プロデューサーに言われて作った新曲だった。
シンゴのカウントが鳴る。
LUYは、弾かなかった。
メンバー三人が、ぎょっとしてLUYを見た。
LUYは目を閉じた。そして右手を振り上げ、親指を四弦に叩きつけた。
――ドゥゥゥンッ!!
セットリストにない音だった。
昔、まだ誰にも何も言われなかった頃に、四人で作った曲。荒くて、速くて、どこにも売れそうにない曲。そのイントロだった。
照明が点く。
その瞬間、全部が消えた。
不安も、迷いも、母の写真も、プロデューサーの顔も。残ったのは、音だけだった。
低音が爆ぜる。床が震える。壁が震える。天井から、埃がぱらぱらと降ってくる。指が勝手に走る。止めようとしても、止まらない。
シンゴが、笑った。スティックを握り直し、LUYの音に飛びかかるように叩き始めた。ケンイチのギターが続く。ユウヤが、マイクに噛みつくように叫んだ。
二曲目の途中、LUYの四弦が切れた。
――バチンッ。
客席が息を呑む。
LUYは、止まらなかった。残りの三本の弦だけで、切れた弦の音域まで指を滑らせ、フレーズを繋いだ。むしろ、さっきよりも速く、さっきよりも荒く。
地下の音が、階段を駆け上がり、下北沢の路地に漏れ出した。
通りすがりの若者が、足を止めた。一人、また一人と、階段を降りてくる。三曲目が終わる頃、二十三人だった客席は、壁際まで人で埋まっていた。
最後の一音が、地下の空気に吸い込まれて消えた。
一瞬の静寂。
それから、地鳴りのような歓声が、狭い地下室を揺らした。
客席の一番後ろ。非常口の扉の前で、涼子が腕を組んで立っていた。
口の端が、ほんの少しだけ、上がっていた。
7 バンドの決別
ライブ後の楽屋は、熱気で窓ガラスが曇っていた。
「お前、今日ヤバかったぞ!」
シンゴが、汗まみれのタオルを首にかけたまま、LUYの背中を思い切り叩いた。
「弦切れてから、逆に速くなってたじゃねえか。化け物かよ」
「いつもだろ」
LUYは、切れた四弦を巻き取りながら答えた。指先の皮が剥けて、血が滲んでいる。
楽屋のドアが開いた。入ってきたのはユウヤだった。さっきまでスーツの男と話し込んでいたのを、LUYは見ていた。
「レコード会社の人、めちゃくちゃ褒めてたぞ。客が勝手に増えたのにも驚いてた」
「そりゃよかった」
「でな」
ユウヤは、少しだけ言いにくそうに続けた。
「次のシングル、やっぱり方向性はあっちで行こうって。今日みたいな勢いを、もっとわかりやすい曲に乗せれば絶対売れるって」
LUYの手が、止まった。
「……また売れ線か」
楽屋の空気が、ぴんと張り詰めた。ケンイチがギターケースの留め金をいじる手を止める。シンゴが、タオルで顔を覆った。
「メジャーだぞ、LUY」
ユウヤの声に、苛立ちが混じった。
「遊びじゃねえんだ。食っていくには、それなりの覚悟がいるんだよ」
LUYはゆっくりと顔を上げた。
「覚悟?」
「ああ」
「俺の覚悟なら、さっきステージで見せた」
LUYは、血の滲んだ指先をユウヤに向けた。
「あれが俺の音だ。二十三人が、百人になった音だ。あれを捨てて売れる覚悟なんか、俺にはねえ」
「じゃあお前、バンド――」
「やめねえよ」
LUYは、ユウヤの言葉を遮った。
「やめねえ。でも、曲作りは俺に任せろ。俺は妥協しねえ。はぐれ者で上等だ。自分の道を、ぶっちぎる」
誰も、何も言わなかった。
LUYはベースケースを背負い、楽屋のドアを開けた。
階段を上がると、下北沢の夜風が、火照った頬を冷やした。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面を見る。じいちゃん、と表示されていた。じいちゃんがメールを打てることさえ、LUYは知らなかった。
『見た。悪くねえ』
――ばあちゃん、動画撮ってたのかよ。
LUYは、思わず笑った。そして返信を打った。
『まだ満足してねえ』
数秒で、返事が来た。
『てめえの人生だ。満足するまで走れ』
LUYは、スマホを握りしめたまま、空を見上げた。
下北沢の夜空に、星は見えなかった。
だが、果てしなく広がっていた。
8 出発の朝
十日後。午前六時。
大神運輸の整備場で、六台のトラックが目を覚ましつつあった。ディーゼルの低い唸りが、まだ薄暗い倉庫街に響いている。
その列の端に、LUYが立っていた。
黒いゴスロリのドレス。金髪の縦ロール。背中には、黒いベースケース。足元には、着替えを詰め込んだトランクがひとつ。
十日前は、この油臭い整備場で、場違いなデコレーションケーキにしか見えなかった。
だが今朝は、不思議と浮いていなかった。黒いベースケースが、黒いトラックのタイヤと、同じ色をしていた。
ドライバーたちが、ちらちらとLUYを見ている。新人の佐藤だけが、まだ目を合わせられずにいた。
本社の扉が開いた。
鷹三郎が出てきた。黒い革ジャン。銀髪のオールバック。手には、湯気の立つ湯呑み。
「行くのか」
「ツアーだ。全国、ぶっちぎってくる」
結局、バンドは割れなかった。LUYが一晩で書き上げた新曲を聴いて、ユウヤが黙り込み、それから「……クソ、悔しいけどこっちの方がいい」と言った。レコード会社も、渋々それを呑んだ。
全国十か所。そのツアーが、今日から始まる。
鷹三郎は湯呑みの茶をすすり、しばらく孫を見ていた。
それから、短く言った。
「戻る場所は、ある」
それだけだった。
だが、LUYにはそれで十分だった。
事務所の二階の窓が、がらりと開いた。涼子が身を乗り出していた。
「死ぬんじゃないよッ!」
朝の倉庫街に、女帝の声が響き渡った。ドライバーたちが、一斉に首をすくめる。
LUYは、振り返らずに右手を突き上げた。
「生きてる限り、ぶっちぎるぜ!」
三人の頭上を、朝の光が照らし始めていた。
LUYは、トランクを引きずって歩き出した。振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、少しだけ泣いてしまう気がした。
厚底ブーツの足音が、倉庫街の角を曲がって消えた。
鷹三郎は、湯呑みを涼子に渡した。
そして六台のトラックの前に立ち、男たちを見渡した。
――ゴホン。
エンジン音さえ、一瞬、静まった気がした。
点呼の時間だった。
「安全第一だ」
「押忍ッ!!」
ディーゼルが一斉に吠えた。
トラックの音か。ベースの音か。それとも、三十年前に国道を震わせた単車の音か。
どれでもよかった。
それは、血の音だった。
消えることのない、音だった。




