ビクトルの鼓動 ダリアとビクトルのその後 2
カフェを出たビクトルとダリアは、そのまま公園のベンチに腰を下ろす。
どう考えてもおかしな話になりそうなので、人目を避けた結果だ。
ビクトルはモレノ侯爵令息であるヘンリーの侍従として、それなりに顔が知られている。
万が一にも、おかしな噂を立てられてはたまらない。
「……それで、一体何の冗談だったんですか?」
移動を経て少し落ち着きを取り戻したビクトルが尋ねると、隣に座ったダリアが肩をすくめた。
「本気ですよ? 未婚の母という手もありますが、世間体が微妙ですし。お嬢様にご迷惑と心配をかけるわけにもいきません」
「いえ、未婚の母を避ける理由ではなく、何故そんなことを言い出したのかを聞いているんです」
未婚の母より既婚がいいというのは、まあわかる。
問題は何故結婚より先に母になる前提なのかと、それを今ビクトル相手に言っているか、である。
「……もしかして、お腹に?」
既にダリアは妊娠していて、諸々の事情で結婚できなくて困っているということだろうか。
衝撃ではあるがしっくりくる理由に納得しかけたが、ダリアは眉間に深い皺を刻んでビクトルを睨んだ。
「私はそんなに身持ちの悪い女ではありません。そうではなく、今後の人生設計の話です」
「それは、すみませんでした。……今後? 今後、未婚の母になる予定なのですか?」
ダリアは深いため息をつくと、ビクトルの方に向き直した。
「私は、お嬢様の侍女です。モレノ邸にもついていきます。ですが、それだけではなく――乳母になりたいのです」
乳母。
それはつまり、イリスとヘンリーの将来の子供の乳母、ということか。
「乳母になるには、子供を産む必要があります。未婚の母は先ほど言った事情で避けたいので、結婚した上で出産したいのです」
「その相手が……私、ですか?」
ダリアは微笑んでいるが、ビクトルは混乱した。
言っている内容はわかるが、意味がわからない。
「聞く限りでは、結婚はあくまでも乳母になるための手段ですよね?」
「その通りです」
「なら、私である必要はないでしょう。ダリアさんは容姿が悪いわけでもありませんし、アラーナ伯爵令嬢の侍女を務める優秀な人です。探せばお相手の一人くらい見つかるのでは」
安定した職をもつしっかりとした女性となれば、平民としてはなかなかの好条件だ。
相手がビクトルである必要性が見当たらない。
「誰でもいいのなら、そうですね。ですが私はお嬢様第一で、最優先で、当然乳母になればさらにそれに拍車がかかります。普通の男性は家に帰ってこず、自身よりもお嬢様を優先する妻をよくは思わないでしょう」
「それは、まあ」
一般的には女性は結婚すれば家庭に入るものだ。
貴族や王族に仕える者や、商家に嫁いだ場合には表に出て働くのだろうが、決して多数派ではない。
その上、家に戻らずイリス優先となれば、難色を示す男性もいるだろう。
「ですが、だからといって浮気されるのも癪です。私の仕事の足を引っ張るような人も願い下げです」
気持ちはわかるが、ダリアの要求は結構な難易度ではないか。
「それはつまり、夫として誠実であり、子供をもうけ、その上でイリス様にべったりなダリアさんを咎めず、浮気せず、邪魔しない、自立した相手……ということですか?」
「はい。その通りです。それに加えて、最低限の経済力と清潔感ですね」
「それが……私、ですか?」
随分と高評価をつけられたものだ。
理由は置いておいて、女性に褒められるというのは悪い気はしない。
「はい。仮に私と夫婦だとして。溺れるお嬢様とビクトルさんを見つけた時に、お嬢様を最優先で助けても納得していただけるでしょう?」
「まあ……イリス様なら。確かにそちらを優先すべきでしょうが」
小柄で華奢な伯爵令嬢が泳ぎが達者だとは思えないし、どう考えてもイリスを助けるべきだろう。
「逆に、私とヘンリー様が溺れていた時にヘンリー様を優先されても、私は一切気にしません!」
「……そこは気にしましょうよ」
実際にそんなことがあれば、恐らくビクトルが助けるよりも先にヘンリーは自分でどうにかする。
というか、そもそも溺れない。
だが、今はそういうことを言っているのではない。
「私にとって、お嬢様が最優先です。それを理解し、邪魔せず、協力してくださるのはビクトルさん――あなたくらいです」
「凄くいいことを言っているようで、結構酷いですよね」
「そうですか? ビクトルさんにも都合のいい話だと思いますが」
確かに都合はいい。
やはりそれなりの年齢になると既婚で一人前のような風潮はあるし、妻という存在があった方が便利なことも多い。
ビクトルがヘンリーを優先しようとも気にせず、それを理解する相手というのは、今後もそうそう現れないだろう。
……だが、人は都合だけで生きているわけではない。
ヘンリーがイリスを選んだのが、その最たる例だろう。
「ダリアさんは愛のない相手と結婚して、子供をもうけて……幸せなんですか?」
ぽつりとこぼれた呟きに、ダリアは目を瞠り、そして優しく微笑んだ。
「私の幸せは――お嬢様と共にあります」
その気持ちは、わからないでもない。
ビクトルの幸せもまた、恐らくヘンリーと共にある。
だが何だか釈然とせず、眉間に皺が寄っていく。
「……それなら、私である必要はありませんよね」
「ですから、説明したではありませんか。それとも……理由が欲しいのですか?」
「え?」
何を言われたのかわからず問い返すと、ダリアは何故かうなずいている。
「なるほど、わかりました。男はいつまでも子供だと聞きはしますが、その通りのようですね」
「何の話ですか?」
ダリアはビクトルの手をすくい取ると、そのまま自身の両手で包み込んだ。
「ビクトルさん、好きです。――私と結婚してください」
紅茶色の瞳に見つめられ、しばしビクトルは固まる。
それを見たダリアは、満足そうに笑みを浮かべた。
「これでどうです? 愛されプロポーズからの結婚なら、文句なしですよね?」
「どこが愛されプロポーズですか……」
イリスが最優先で、イリスの子供の乳母になりたいから子供が欲しくて、だから結婚したい。
その都合にビクトルが合致しただけであって、ただの契約相手だ。
愛に溢れる家庭がいいなどと夢は見ていないが、せめてひとかけらの情くらいは欲しい。
ため気をつくビクトルを見て、ダリアは手を離し、俯く。
「……嫌いな人相手に、結婚して子供が欲しいなんて言いませんよ」
小声で呟かれたその言葉に、ビクトルの鼓動が跳ねた。
それはつまり、ビクトルに好意があるということだろうか。
いや、嫌いではないというだけで、本当に好きだとは限らない。
大体、ダリアに好意を持たれているかどうかなんて、関係ないではないか。
そう思うのに、寂し気に俯く姿を見ていたら、何だか申し訳ないような慰めたいような不思議な気持ちがこみあげてくる。
自分の感情が理解できず困り果てていると、ちらりと顔を上げるダリアと目が合った。
「……少しは、気になりました?」
「え?」
素っ頓狂な声を上げるビクトルに微笑んだダリアは、立ち上がって伸びをする。
「お嬢様の結婚まで、もう少し。是非、前向きに検討してくださいね」
可愛らしく手を振ると、そのまま立ち去る。
揺れる紅茶色の髪を見送ると、ビクトルは肺の中の空気すべてを絞り出すようなため息をついた。
「……何なんだ、一体」
乳母になりたいから都合のいいビクトルと結婚したいだけではなかったのか。
好きだとか結婚したいというのは、契約締結のための誘い文句だろう。
だが、最後のアレは……。
「気になるに決まっているだろうが。……こっちだって、別に嫌いじゃないんだよ」
ビクトルは頭をかきむしると、熱を持った頬を両手で叩いた。
明日はいよいよ、先代モレノ夫妻登場!
書籍「残念令嬢」好評発売中‼
よろしければ美麗表紙と肉を、お手元に迎えてあげてくださいませ。
m(_ _)m









