第十五部 第四章 第2話
戦場の只中。
地を震わせる轟音とともに、〈ファーレン平原城塞域〉の分厚い正門が内側から吹き飛んだ。
砕けた門扉と石片が黒煙の中を飛び、前線にいた兵士たちが反射的に盾を構える。
その煙を押し分けるように、巨大な影がゆっくりと城塞の外へ踏み出した。
現れたのは、身の丈三倍を超える巨躯の魔将だった。
全身を覆う漆黒の重甲冑には禍々しい装飾が刻まれ、甲冑の隙間から濃密な闇の魔素が絶え間なく漏れ出している。
右手には人の身体など容易く両断できそうな異形の大斧が握られ、その刃には赤黒い術式が脈動していた。
背中から黒炎の翼が大きく広がる。
魔将が一歩踏み出しただけで熱を帯びた瘴気が周囲へ広がり、人族側が展開していた防御結界が低く軋んだ。
前線にいた兵士たちの間へ緊張が走り、それまで揃っていた足並みが僅かに鈍る。
「人族の勇将よ――この地で屍と化せ!」
雷鳴のような咆哮が戦場を揺らした。
空気そのものを叩きつけられたような圧力に、何人かの兵士が思わず半歩下がる。
さらに城塞の奥から、重い鎖を引きずる音が響いた。
金属が石畳を削る音が近づき、黒煙の向こうでもう一つの巨大な影が動く。
やがて姿を現したのは、太い黒鎖に繋がれた四つの首を持つ巨大な魔狼だった。
四つの頭部が別々に兵士たちを睨み、獣臭を含んだ荒い息を吐く。
黒い体毛の隙間から赤黒い魔力が滲み、四つの口が同時に開いた。
重なった咆哮が腹の底まで響き、足元の小石が細かく震える。
魔狼が前脚を踏み込むたびに地面が抉れ、繋がれている黒鎖が激しく軋んだ。
魔将と戦獣が同時に前線へ現れたことで、押し込んでいた人族軍の勢いが明らかに鈍る。
城塞側も、ここで戦力を惜しむつもりはないらしい。
「魔将に四首の魔狼か……」
レティシアは馬から飛び降り、《フレア=アリア》を抜いた。
深紅の軍装の背で純白のマントが大きく翻り、黒髪が風に流れる。
その視線は魔将と魔狼を順に捉え、すぐに周囲の戦況へ移った。
「ここで主力を出してきたな」
その直後、戦場の右翼から鋭い駆動音が響いた。
蒼白い光を引きながら敵陣を切り裂いてきたのは、《ワルキューレ》を纏ったリディアだった。
背部の機構翼を展開したまま地面すれすれを滑るように飛び、その後方では彼女に続く精鋭部隊が魔国兵を押し退けている。
リディアは進路上の敵を長剣で薙ぎ払い、その勢いを落とさず四首魔狼へ迫った。
「レティシア! 遅れてすまない!」
「よく来てくれた、リディア!」
二人の視線が一瞬だけ交わる。
細かな確認など必要なかった。
四首魔狼の一つがリディアへ向きを変え、巨大な牙を剥いて噛みつく。
リディアは右側の機構翼を強く噴かし、身体を横へ滑らせるようにして顎をかわした。
すれ違いざまに長剣を振り抜き、精霊光を纏った刃が首の付け根へ深く食い込む。
黒い血が噴き上がった。
四つあった首の一つが斬り落とされ、そのまま地面を転がっていく。
残された三つの首が一斉に怒りの咆哮を上げた。
「「――おおおおっ!」」
それまで魔将と魔狼の威圧に押されていた兵士たちから、鬨の声が上がる。
右翼から到着した精鋭部隊も戦列へ加わり、止まりかけていた人族軍が再び前へ動き始めた。
三首となった魔狼が残った口を大きく開く。
次の瞬間、三方向から黒炎が噴き出し、前線をまとめて薙ぎ払うように広がった。
リディアは急上昇して射線を外し、その背後では精鋭部隊の魔導兵が防御結界を展開する。
黒炎と結界が激突した。
赤黒い炎が半透明の障壁へ広がり、爆風が周囲の土砂を巻き上げる。
その間にも魔狼は鎖を引きずりながら前進し、三つの頭を別々の兵へ向けていた。
「まずは魔将を止める! 魔狼を自由にさせるな!」
レティシアの指示に、周囲の兵士たちが即座に動く。
槍兵が三首魔狼の進路を塞ぎ、魔導兵が足元へ拘束術式を展開した。
リディアも上空から魔狼の動きを牽制し、前線へ突入させないよう位置を取る。
その隙を、魔将は見逃さなかった。
「小賢しい!」
巨体からは想像できない速度で踏み込み、大斧を頭上へ振り上げる。
黒炎が刃へまとわりつき、そのままレティシアへ向けて一気に振り下ろされた。
レティシアは《フレア=アリア》を両手で構え、迫る斧刃を正面から受け止めた。
金属同士が激突する轟音が炸裂する。
《フレア=アリア》から迸った蒼光と大斧を包む黒炎が噛み合い、衝撃波が円を描いて周囲へ広がった。
近くにいた兵士たちが腕で顔を覆い、吹き飛ばされた石片が鎧へ次々とぶつかる。
「ぬう……受け止めるか……!」
魔将がさらに大斧へ体重を乗せる。
凄まじい膂力が《フレア=アリア》を通して両腕へ伝わり、レティシアの足元が大きく砕けた。
靴底が地面へ沈み込み、押し込まれるたびに亀裂が周囲へ伸びていく。
腕には激しい痺れが走り、受け止めた刃が少しずつ下がり始めた。
「……重いな」
レティシアは歯を食いしばり、大斧を見上げた。
力だけで競えば、このまま押し切られる。
そう判断した瞬間、内側に抑えていた魔力を一気に解放した。
白銀の光が全身を包んだ。
膨大な魔力が足元から噴き上がり、周囲を覆っていた黒炎と瘴気を押し返す。
黒髪は白銀の光を帯び、蒼い瞳の奥にも強い輝きが宿った。
《フレア=アリア》の刀身へ同じ光が走り、押し込まれていた刃が止まる。
――白銀化。
「ここからは――私が押し返す!」
レティシアは沈んでいた足を踏み直した。
《フレア=アリア》を握る両腕へ力を込め、一気に大斧を押し上げる。
それまで動かなかった巨大な斧が持ち上がり、魔将の腕が初めて押し戻された。
足元の地面が爆ぜ、魔将の巨体が僅かによろめく。
その瞬間、リディアの機構翼が大きく開いた。
「側面へ回ります!」
背部機構が高い駆動音を上げる。
蒼白い残光が横へ走り、リディアは魔将の視界から外れるように左側面へ回り込んだ。
大斧を立て直すより早く、その長剣が黒甲冑の脇腹を斜めに斬り上げる。
硬い金属が裂ける音が響いた。
甲冑の継ぎ目が開き、その奥から黒い血が噴き出す。
「ぐっ……!」
魔将が大斧を横薙ぎに振るう。
リディアは機構翼を噴かして一気に後退し、迫る斧刃から離脱した。
空を切った大斧が地面へ食い込み、砕けた土砂が高く跳ね上がる。
「レティシア!」
「ああ!」
その隙にレティシアが踏み込む。
《フレア=アリア》を下段から振り上げ、リディアが裂いた脇腹の傷へ白銀の斬撃を重ねた。
甲冑がさらに大きく割れ、魔将の身体が横へ流れる。
レティシアは追撃へ移ろうとする。
だが、その背後から三つの咆哮が重なった。
三首魔狼が槍兵たちの包囲を力任せに突破していた。
拘束術式を引き千切り、数人の兵士を弾き飛ばしながら、魔将を援護するようにこちらへ駆けてくる。
三つの顎が大きく開き、それぞれ別の方向から二人を狙った。
「こっちは私が!」
リディアが即座に魔狼へ向きを変える。
一つ目の首が正面から噛みつく。
リディアは身体を沈めながら機構翼を噴かし、その牙の下を潜り抜けた。
長剣を横へ振り抜き、精霊光を纏った刃が一つ目の首を根元から斬り落とす。
間を置かず、二つ目の首が横から迫る。
リディアは空中で身体を捻り、その勢いをそのまま次の斬撃へ繋げた。
蒼白い軌跡が弧を描き、もう一つの首が黒い血を撒き散らしながら宙を舞う。
残された最後の一首が怒り狂って咆哮した。
巨大な前脚が地面を叩き、真正面からリディアへ突進する。
「残りは――任せる!」
「任された!」
レティシアが地面を蹴った。
白銀の残光を引きながら魔狼の正面へ割り込み、《フレア=アリア》を右下から左上へ振り抜く。
最後に残った首の根元を白銀の刃が走り、そのまま巨大な頭部が斬り飛ばされた。
四つすべての首を失った魔狼が数歩だけ惰性で進む。
やがて脚から力が抜け、巨体が横倒しになって地面へ叩きつけられた。
重い地響きが戦場へ広がり、土煙が二人の周囲を覆う。
その煙の中で、レティシアとリディアはほぼ同時に魔将へ向き直った。
「……次は、お前だ」
レティシアが《フレア=アリア》の切っ先を魔将へ向ける。
黒甲冑の各所には深い斬撃痕が刻まれ、脇腹からは黒い血が流れている。
それでも魔将は大斧を両手で持ち上げ、背中の黒炎を再び大きく燃え上がらせた。
「人族ごときが……!」
魔将が地面を蹴る。
大斧が横からレティシアへ迫る。
レティシアは《フレア=アリア》を斜めに当て、正面から止めるのではなく斧刃の軌道を上へ逸らした。
振り抜かれた大斧が頭上を通過した瞬間、リディアが右側から低く飛び込む。
「リディア、右を任せる!」
「了解しました!」
リディアの長剣が魔将の右腕を守る装甲へ叩き込まれた。
すでに傷んでいた装甲が割れ、魔将の腕が大きく跳ねる。
レティシアも間を置かず正面へ踏み込んだ。
白銀の魔力を纏った《フレア=アリア》を胸部へ振り下ろし、厚い黒甲冑へ新たな亀裂を刻む。
二方向から続けて攻撃を受け、魔将の巨体が数歩後退した。
「ぐ……おおおおっ!」
魔将が吠え、大斧を振り回す。
レティシアが正面から攻撃の向きを逸らし、リディアがそのたびに側面へ回る。
二人は互いの位置を確認することなく動き、片方が魔将の視線を引けば、もう片方が空いた側へ斬撃を入れていった。
大斧がレティシアへ振り下ろされる。
《フレア=アリア》が斧刃を受け流し、地面へ叩き込ませる。
動きを止めた魔将の右側へリディアが滑り込み、先ほど割った腕部装甲の隙間へ長剣を突き込んだ。
黒い血が飛び散る。
魔将が右腕を振ってリディアを払い除けようとするが、その前に機構翼が蒼白く輝き、リディアの身体を射程外へ運んだ。
レティシアは空いた胸部へ踏み込む。
《フレア=アリア》が白銀の軌跡を残しながら横へ走り、胸甲の亀裂をさらに広げた。
甲冑の一部が砕け落ち、魔将が初めて片膝を地面へつく。
だが、そのまま倒れることはなかった。




