第十三部 第一章 第2話
会議室を出ようとしたアリスの足が、不意に止まった。
背後からわずかに漂う気配――呼吸のリズム、視線の鋭さ、そして音にならない“存在の重み”が、空間の流れに微かな歪みを生じさせるように伝わってきた瞬間、彼女の意識は自然と後方へと引き戻され、振り返るという動作がほとんど反射のように行われた。
壁際、光の届きにくい陰の中に、一人の人物が立っていた。
魔導灯の光がわずかに届くその位置で、影と同化するように佇む姿は、まるで最初からそこに存在していたにもかかわらず、誰の視界にも入っていなかったかのような錯覚を伴っていた。
「……レイラ?」
黒く短く切り揃えられた髪が、淡い光を鈍く反射する。
鋭い眼差しはまっすぐアリスを射抜き、整った顔立ちはいつも通り無表情の仮面を崩さないまま、感情の揺らぎを一切外へ漏らさない静けさを保っていた。
だが、その静寂の奥にあるものを、アリスは確かに感じ取っていた。
レイラ・アスコット少尉は、ゆっくりと数歩を踏み出す。
靴底が床を叩く音は小さいが、その一歩ごとに、張り詰めた緊張と、刃のように研ぎ澄まされた気配が空気を押し広げるように伝播していく。
「……無理は、するな」
低く抑えた声。
感情を削ぎ落としたように淡々としているが、その奥底には微かな気遣いと、言葉に乗せきれない警戒と忠告が静かに滲んでいた。
アリスはその響きを受け止めた瞬間、胸の奥で小さな温もりが広がるのを感じ、自然と口元が緩み、目を細めて小さく頷く。
「うん、大丈夫。無理はしないし、ちゃんと見極めながら動くよ……ありがとう、レイラ」
その短い応答の中に、信頼と理解が重なり、言葉にしなくても通じ合う何かが確かに存在していた。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩む。
そのとき――。
柔らかな足音が近づき、白を基調としたローブの裾が視界に揺れる。
クラリス・ノーザレインが歩み寄ってきたのだ。
彼女の表情は穏やかで、だが灰青の瞳には確かな光が宿っていた。
落ち着いた気配を纏いながらも、場を支配する空気を静かに塗り替えていく存在感が、周囲の緊張を自然と整えていく。
「ふふ、やっぱりお二人とも、言葉が少なくても通じてしまうんですね……まるで長く連携してきた部隊のようで、少しだけ羨ましいくらいです。……アリス、会議、本当にお疲れさまでした」
その声に、アリスは肩の力を少し抜き、微笑みを浮かべて応じる。
「ありがとう、クラリス。……思っていた以上に、緊張してたみたいで、終わった今になってやっと実感してる」
「当然です。ここにいた皆さんは、各部門でも中枢に近い方々ばかりでしたから……あの中であれだけ落ち着いて話せたこと自体、十分すぎるほど立派ですよ。むしろ、私の想定よりもずっと“堂々としていました”」
クラリスは穏やかにそう語りながら、アリスの肩にそっと手を添える。
その掌の温もりは、冷えた緊張をゆっくりと溶かすように伝わり、張り詰めていた心を内側からほぐしていく。
「これから、調査と演習、どちらも同時に進んでいきます。判断の重さも、背負う責任も、これまでとは比べものにならないほど増えるでしょう……ですが、忘れないでください。私も、レイラも、そしてあなたの仲間たちも、必ず支えます。あなた一人で抱える必要はありません」
「……うん、ありがとう。そう言ってもらえると、少し楽になる」
その返答に、クラリスはわずかに口元を緩める。
レイラは何も言わず、ほんの一瞬だけ目を細めたように見えたが、次の瞬間には視線を逸らし、無言のまま歩き出していた。
その背中は変わらず無機質に見える。
だが、そこに込められた意志を、アリスはもう見誤らない。
クラリスはその背をしばし見送り、アリスの耳元で小さく囁く。
「……あの子、ほんの少しだけですけど、表情が柔らかかったですね。普段なら絶対に見せない変化です。あなたと話すときは、やっぱり違う」
アリスは苦笑まじりに、小さく頷く。
「……うん、そうかも。あれでも、だいぶ分かりやすくなった方だと思う」
微笑を交わし、二人が並んで歩き出そうとしたその時――。
先を行くレイラがふと足を止め、振り返ることなく、背中越しに短く言葉を放った。
「……背中、気をつけろ。気配は前から来るとは限らない」
唐突でぶっきらぼうな一言。
しかしその短さの裏には、実戦を知る者としての確かな忠告と、言葉以上の配慮が込められていた。
アリスは思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、柔らかく笑みを浮かべて答える。
「うん、ちゃんと見るようにする。前も、後ろも……全部」
クラリスも小さく笑い、レイラの背中を見つめて肩をすくめた。
「……あれでも、最大限の優しさなんですよ。本人は気づいていないかもしれませんけど」
「知ってる。ちゃんと伝わってるよ……ありがたいって、あとで言っておいて」
笑みを交わした二人の声は、どこか温かい響きを帯びていた。
そうして三人は、重い空気をほんの少しだけ軽くしたまま、それぞれの目的地へと歩を進めていく。
石造りの回廊に差し込む光が三つの影を長く引き延ばし、その歩調は自然と揃いながらも、それぞれの意志に従ってわずかにずれていく。
――それぞれが、自分にできることを果たすために。
講義棟を出て、演習施設内の陽の差す通路を抜けた先――。
石畳に落ちる光が揺らぎ、壁面に刻まれた術式紋様が淡く反射する回廊を抜けると、空気の温度がわずかに変わり、外界に近い開放感を帯びた居住棟の中庭近くへと視界が開けた。
そこに設けられた簡易テーブルの並ぶスペースには、すでにアリスの仲間たちが腰を下ろしていた。
木漏れ日のように差し込む魔導灯の光が、昼下がりの穏やかな空気を柔らかく包み込み、白い石床の上にまだらな影を落としている。
微かに風が通り抜け、草の匂いと温かな食事の香りが混ざり合い、張り詰めていた緊張を少しずつ解きほぐしていく。
「――おかえり、アリス」
最初に気づいたのはミレーネだった。
膝に置いた器から顔を上げ、手をひらひらと振りながら小さく笑みを浮かべ、その仕草はどこか安堵と歓迎の気配を帯びていた。
「ただいま。待たせちゃって、ごめんね……思ってたより長引いちゃって」
アリスが少し足早に駆け寄ると、リゼットが背筋を伸ばし、椅子からわずかに身を乗り出す。
「会合、無事に終わったの? 変な追加任務とか、急な変更とか……なかった?」
その問いには、ただの確認以上の気遣いが含まれていた。
「うん。いろいろ話は出たけど……大きな問題はなかったよ。想定通り、というか……むしろ、これからの方が大変になりそうだけどね。細かい内容は、夜にまとめて話すね」
アリスがそう答えると、ザックが片手で資料をめくりながら、もう片方の手でパンを齧り、軽く頷く。
「そっか。それならよかった……ってことは、少なくとも今この瞬間は“通常行動”で問題なし、だな。余計な制限もかかってないってことだし」
「そうそう、だからね――」
ミレーネがすぐに言葉を継ぎ、手元の容器を軽く持ち上げる。
蓋を開けると、温かなスープの湯気がふわりと立ち昇り、ハーブと野菜の優しい香りが空気に広がった。
「お昼、先に食べてから出発しようって思ってたの。アリスが戻ってくるの待ってたから、ちょうどいいタイミング」
「お昼過ぎには第十三層に転移して、そのまま次の地点を目指したいし……時間的にも、ここでしっかり整えておいた方がいいよね」
ミレーネの言葉に、自然と全員の意識が次の行動へと向く。
「そうね。……次の階層も、きっと気を抜けないわ。ここまで来たからこそ、むしろ慎重に行動しないと」
レティアが静かに言いながら、懐から布で丁寧に包まれた小さな包みを取り出す。
その動作は落ち着いていて、同時に仲間を気遣う温かさが滲んでいた。
「アリスの分も、ちゃんと取っておいたわ。温かいスープと、ベリーのサンド……今朝、少し多めに用意しておいたの。こうなる気がしていたから」
「レティア……ありがとう。本当に助かる、ちょうどお腹空いてた」
アリスは微笑みながら包みを受け取り、木製のベンチに腰を下ろす。
包みを解いた瞬間、甘酸っぱいベリーと焼き立てのパンの香りがふわりと立ち上がり、空腹が一気に刺激され、身体の奥から力が戻ってくるような感覚が広がった。
「そろそろ、折り返し地点に差しかかるころかな……ここまで来るのも、結構あっという間だった気がする」
アリスが思わず口にすると、すぐにザックが冷静に数字を口にする。
「いや、まだだね。ここから先も含めて考えると、あと七層以上はあるから……全体で見れば、まだ半分に届いたくらい。むしろこれからが本番だと思った方がいい」
「そうか……まだ、これからだね。でも、それならなおさら、丁寧に進まないと」
アリスが小さく笑みを浮かべると、ラースが大きく肩を回しながら立ち上がった。
背筋を伸ばし、拳を軽く鳴らす音が乾いた空気に響く。
「ともかく、やるしかねえ。ここまで来たなら、最後まで行くってだけだ……飯食って、気合い入れてこうぜ。中途半端で終わるのは性に合わねえしな」
その声に、仲間たちが次々と頷き合う。
誰一人として言葉にしなくても、同じ方向を見ていることが伝わっていた。
スープを啜る音、パンをちぎる音、茶器を置く乾いた音――小さな音が心地よく重なり合い、張り詰めていた空気の中に、短くも確かな安らぎの時間が形づくられていく。
そのひとときは、これから待ち受ける緊張と危険を前にした、ほんの束の間の呼吸のようなものだった。
それぞれが昼食を終え、装備の確認や簡単な調整を済ませ、腰に剣を差し、魔導具の位置を確かめると、自然と動きが揃っていく。
アリスたち第十五班は、互いに視線を交わし、わずかな頷きを交わしたあと、転移装置のある中央塔地下へと向かった。
居住棟から続く石畳の回廊を抜け、厚い扉を通り過ぎるたびに空気がひんやりと冷たく変わっていく。
足元に伝わる石の硬質な感触と、壁面に刻まれた術式紋様が微かに放つ魔力の気配が重なり、地上の穏やかな空気から徐々に隔絶されていく感覚が、肌の内側からじわりと染み込んでくる。
やがて現れたのは、螺旋状に下へと延びる階段。
淡く青白い魔導灯が壁に沿って点々と灯り、その光が階段を降りる一行の影を長く引き延ばし、揺らめきながら重なり合うことで、まるで別の存在が背後を追ってくるかのような錯覚を生んでいた。
「……やっぱり、何度来ても緊張するな。ここに来ると、嫌でも“境界を越える”って実感が湧く」
ラースが小声で呟き、手にした剣の柄を無意識に握り直す。
その動作に連動するように、周囲の空気もわずかに引き締まり、誰もが自然と歩幅を揃え、意識を前方へと集中させていく。
足音が石の階段に反響し、乾いた音が幾重にも重なって耳の奥へと響く。
その規則的な反響は、心拍と重なり合うことで、隊列の中に見えない緊張の糸を張り巡らせていた。
術式光が走る通路を抜けると、そこには厳重な警備結界が張られた転移装置が静かに佇んでいた。
円環状の基盤は淡く脈動し、刻まれた多層の術式紋様が呼吸するかのように明滅を繰り返し、空間そのものがゆっくりと揺らいでいるような錯覚を与える。
その前で、一人の人物が装置に向かって端末を操作していた。
指先が光のパネルをなぞるたびに、淡い線が空中に描かれ、結界層の状態が逐一更新されていく。
「……あら、あなたたち。ちょうどいいタイミングで来たわね、今ちょうど最終確認を終えたところよ」
振り向いた声に、アリスたちの足が止まる。
そこに立っていたのは、制服姿の女性教官――学院管理局教導課の指導教官、ルシア・アルメリアだった。
栗色の髪をきちんと後ろで束ね、落ち着いた雰囲気の中に知性を漂わせる女性。
その表情は柔らかく穏やかでありながら、背筋には隙のない気品が宿り、ただ立っているだけで場の均衡を保つような安定感を放っていた。
「ルシア教官、こんにちは。お疲れ様です……転移装置の確認、ありがとうございます」
アリスが丁寧に会釈すると、ルシアは端末から手を離し、優しく頷いた。
「こんにちは。ええ、もう次の階層へ向かうのね? 転移装置の安定状態と、周囲結界の再調整を行っていたところだったの。ちょうどあなたたちが来る頃だと思って、最終チェックをしていたのよ」
ザックが小声で「この人、話しやすくて助かるんだよな……説明も的確だし」と呟き、隣のミレーネが小さく笑みを漏らす。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかに和らいだ。
「第十三層ですね。進行状況、かなり順調だと聞いています……第四層や第五層で足止めされている班も多い中で、この進度は本当に優秀と言っていいわ。無理をしている様子もないし、判断が安定している証拠ね」
ルシアの言葉に、レティアが姿勢を正し、控えめに答える。
「ありがとうございます。でも、私たちはただ……慎重に行動しているだけです。状況を見て、無理をしないことを最優先にしていますから」
「ええ、その姿勢が何より大事。焦って進んだ班ほど、戻ってこれなくなる可能性が高いのがこの演習ですから……あなたたちの進み方は、理想的よ」
ルシアはそう言ってから、ゆっくりと視線をアリスへと移す。
その瞳には、評価と同時に、明確な注意の色が含まれていた。
「アリスさん――特に、あなたは今、学院内でも王国側でも注目されている存在です。評価されることは悪いことではないけれど、その分、無理をしがちになる……だからこそ、忘れないで。あなた一人の判断が、班全体に影響するということを」
「はい。承知しています……自分だけでなく、全体を見るようにします」
アリスは真っ直ぐに返し、深く頷いた。
その声には迷いがなく、意識がすでに次の段階へ進んでいることが感じられた。
一同が頭を下げると、ルシア教官は一歩下がり、端末から完全に手を離す。
「転送はいつでも可能よ。術式も安定しているし、誤差範囲も問題なし……安心して踏み込んで大丈夫。気をつけて、いってらっしゃい」
その穏やかな声が、背中を押すように響いた。
班は整然と隊列を組み、転移装置の円環へと歩を進める。
足元の術式円が淡く光を帯び、細かな魔力粒子が舞い上がり、空気がわずかに震え始める。
円環の内側へ踏み込むと、重力の感覚が一瞬だけ曖昧になり、周囲の音が遠ざかる。
術式が層状に起動し、光が幾重にも重なりながら彼らの身体を包み込んでいく。
やがて転送術式が完全に発動し、揺らめく光が一人、また一人と彼らを覆い尽くしていった。
アリスが最後に見たのは、扉の前で静かに見守るルシア教官の微笑みだった。
その表情は穏やかで、どこか送り出す者としての静かな覚悟を帯びていた。
光が視界を満たし、世界が無音に変わる。
――第十五班は、第十三層へと踏み出していった。




