第十部 第二章 第12話
見張りの交代を受けたレティアとザックは、火の気が薄れた焚き火の脇を離れ、野営地の外縁近くへと歩を進めた。
森の影がいっそう濃くなったあたりに、交互に設けられた見張り地点のひとつがある。
月光は梢に遮られ、地面にはまだらな銀の模様を落としていた。
足元では落ち葉がかすかに鳴り、夜風に乗って湿った土と苔の匂いが漂ってくる。
遠くで小川が絶え間なく流れ、その音が静寂の底を支えていた。
「……風が、少し出てきたわね。さっきより冷たい」
レティアが小さく囁くように言う。
栗色の髪が夜風に揺れ、月明かりを受けて淡く光った。
ザックは手元の結界札を確認しながら頷く。
「夜間気流の変化だ。地表の熱が抜けてきた証拠。……明朝は晴れる。雲の流れも安定している」
控えめな声音で、淡々と答える。
「ふふ、やっぱり詳しいのね。気象術、得意だったかしら? まるで空を読んでいるみたい」
「いや……分析に必要な程度だ。術というより、観察の蓄積だよ。風向き、湿度、匂い、虫の動き。全部、積み重ねだ」
そう言って、僅かに眼鏡を押し上げる。
レティアはその様子を見て、柔らかく笑った。
「ザックって、いつも理詰めで話すけれど……それが不思議と落ち着くのよね。感情より先に状況を整理してくれるから」
「……そうか?」
わずかな間。
彼は視線を森へ向けたまま、ほんの少しだけ横顔を伏せる。
「ええ。戦闘中も、今も。あなたの落ち着いた分析があると、私も冷静でいられる。アリスも、たぶんそうだと思うわ」
夜の闇の中、ザックの口元がわずかに緩む。
「……他人にそう言われるの、慣れてないんじゃない?」
「……まぁ、否定はしない」
短い返答。
レティアはくすっと笑い、肩にかかる髪を夜風に揺らした。
「でも、少し嬉しそう」
「そう見えるなら、気のせいじゃないかもしれないな」
二人の間に、静かな沈黙が広がる。
森のざわめきと虫の音、そして遠くの水の流れる音が夜の帳に溶け込み、見張りの時間は静かに流れていった。
「……私はね、ザック」
レティアがふいに口を開く。
月明かりがその横顔を淡く照らす。
「なに?」
「戦場でも、こうして静かに話せる時間を、大事にしたいと思ってるの。たとえ明日、何が起きても……今日をちゃんと覚えておけるように」
言葉は穏やかだが、その奥には確かな覚悟が宿っていた。
ザックは一瞬だけ目を見開き、やがて夜空へと視線を向け直す。
「……記憶の記録は得意じゃない。だが……そういう時間は、大切にすべきだと思う。合理性とは別の価値がある」
「ふふ、なんだかあなたらしいわね」
レティアは小さく笑い、そっと視線を月に戻した。
しばらくして、ザックがぽつりと呟く。
「……レティア」
「ん?」
「アリスと君……あれほど自然に動ける関係って、いつから築かれたんだ?」
レティアは少しだけ目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
「ふふ、意外? でも、実はアリスとは、幼いころからの知り合いなの。エクスバルド領で、よく一緒に遊んでいたわ。まだ貴族の責務も何も知らない頃」
「幼馴染だったのか……それなら、あの連携も納得だな。呼吸が合いすぎている」
「ええ。学院では専門分野は違っても同じ探索者育成部に所属しているし、演習でも何度も連携したことがあるの。でもね」
夜空に目を向け、白い吐息を星明かりに溶かす。
「信頼っていうのは、ただ長く知っているだけじゃ育たない。何度も助け合って、何度もお互いを試して、ようやく積み重なるものなのよ」
「……なるほど。アリスが君にだけ見せる表情、少しわかった気がする」
ザックの声には感心の色が滲む。
「彼女、強いけど……本当はとても繊細なの。だからこそ、彼女の“本当の姿”を知るには、相応の覚悟と誠実さが必要になる」
「……君は、それを全部受け入れてきたんだな」
「そうね。たとえ今、彼女がどれほど遠くへ進もうとしても、私は支えになりたい。だって、あの子は私の――かけがえのない親友だから」
言葉の余韻が夜気に溶ける。
ザックは焚き火の赤い残光を見つめ、静かに目を細めた。
「……裏付けは?」
「女の勘と、幼い頃から彼女を見てきた“家族みたいな目線”」
肩をすくめる冗談めいた仕草。
火花がぱちりと弾ける。
「それは、否定しようがないな」
短い答え。
やがてレティアが、ふと笑みを深める。
「……ねぇ、ザック。これ、絶対誰にも言っちゃダメよ?」
「ん?」
「アリスが男だったらね――私、絶対に結婚してみせるって思うくらい、好きなのよ」
さらりと告げられた言葉。
ザックは眉を上げるが、何も言わず耳を傾ける。
「でもね、残念ながら……あの子は可愛い女の子で。私は、どうしようもなく惹かれてるのに、叶わないって分かってるのよ」
小さなため息が月光に溶ける。
「だからこそ……せめて隣に立って、支え続けたいの。私の気持ちは、それ以上に変わらないから」
切なさと決意が混ざる声。
「……なんで私、こんなことザックに話してるのかしらね。明日から顔合わせるのが気まずくなったらどうしよう」
わざとらしく笑う。
だが瞳は焚き火の光に揺れていた。
「ぜ~ったい、内緒だからね?」
「安心しろ。口は堅いほうだ」
静かな声音。
そこには確かな信頼があった。
「……そうですよね。ザックって、なんだかんだで一番秘密を守りそうなタイプだもの」
二人の間に、焚き火のぬくもりと秘めた想いだけが残る。
「さて、もうすぐ交代の時間かしら」
「次はラースとミレーネか……起こしてこよう」
ザックが腰を上げかける。
「ううん、私が行くわ。……ありがとう、ザック。静かな時間、とても心が落ち着いたわ」
「……こちらこそ。意外と、悪くなかった」
口元をわずかに緩めたその言葉に、レティアは穏やかな笑みを返し、静かに歩き出した。
やがて野営地に戻ると、焚き火はすでに小さくなり、熾火が赤く脈打つように燃えていた。
崩れた薪の隙間から覗く橙の光が、まるで心臓の鼓動のように静かに明滅している。
周囲の空気は昼間よりもはっきりと冷え込み、吐く息がわずかに白く滲んだ。
テントの布が夜風に揺れ、かすかな擦過音を立てる。
「次はラースとミレーネよ。……お願いするわね。外周は安定しているけれど、北東の森が少しざわついていたわ」
レティアが穏やかな声音で告げる。
だがその瞳は、見張りを終えた者の緩みを許さない静かな緊張を宿していた。
寝具から半身を起こしたラースが、大きく伸びをして立ち上がる。
肩と首を鳴らし、眠気を振り払うように深く息を吸う。
「おう、任せとけ。今度は俺たちの番だな。最後の二時間、きっちり締めてやる」
声は低く、冗談交じりだったいつもの調子よりも少しだけ引き締まっている。
隣では、ミレーネが毛布を丁寧に畳み、結界符の束を確認しながらゆっくりと立ち上がった。
符の刻印を指先でなぞり、魔力の流れを確かめる。
「外周結界はそのまま維持するわ。念のため、簡易感知も重ねておくわね。夜明け前は気配が動きやすいから」
落ち着いた声音。
その言葉には、術者としての責任感が滲んでいる。
「冷えてきたから、羽織ものを忘れないように。体温が落ちると判断も鈍る」
ザックが一言添える。
「ありがとう。ちゃんと着ていくわ。――ラース、行きましょう。足音は抑えて」
ミレーネが外套を羽織り、軽く顎で合図する。
「ああ。騒がず、だな。わかってる」
ラースは腰の双剣の位置を確かめ、柄に触れて感触を確かめる。
刃は抜かない。
だが、いつでも抜ける距離にある。
二人は焚き火の淡い光を背に、夜の静寂が支配する外縁へと歩み出す。
熾火の赤が背後で揺れ、やがて影の中に溶けていく。
頭上には凛と澄んだ星空が広がる。
無数の星が瞬き、森の輪郭をかすかに浮かび上がらせていた。
川のせせらぎが遠くで響き、一定の音を刻む。
外縁に立つと、夜はさらに深く、闇は濃く、木々の間はほとんど黒に近い。
「……静かだな」
ラースが小声で呟く。
「ええ。でも“何もいない”とは限らないわ。静寂は、ときどき前触れになる」
ミレーネは目を閉じ、わずかに魔力を広げる。
空気の震え、地面の振動、魔力の流れ。
微細な違和感がないかを探る。
「異常は……今のところなし。小動物の動きだけね」
「了解。俺は西側を見る。川沿いは足場がいいからな」
二人は互いに背を預ける位置に立ち、視界を分け合う。
呼吸を整え、耳を澄ませる。
夜は深いが、決して油断はしない。
焚き火の残光は遠く小さくなり、星明かりだけが二人を照らしている。
こうして、夜番の静かな時間が新たに始まろうとしていた――。
ラースとミレーネは、夜の冷たい空気を切るように森の外縁へと歩み出した。
頭上の星は冴えわたり、無数の光が黒い天幕に穿たれた針穴のように瞬いている。
吐く息が白く溶け、足元の落ち葉がわずかに湿った音を立てた。
遠くで川が低く唸るように流れ、夜鳥の声が一度だけ鋭く響いて、また静寂が戻る。
「……ふあぁ、眠い。交代ってわかってても、夜中は体が重いな。まぶたが鉛みたいだ」
ラースが大げさに背伸びをして、腕をぶんぶん振り回す。
肩関節が小さく鳴り、剣帯がかすかに軋んだ。
「ほら、静かに。声が森に響くわ。今は小さな音でも目立つ時間帯よ」
ミレーネが結界符を確認しながら眉をひそめる。
指先で符の縁をなぞり、魔力の通りを確かめる動作は無駄がない。
「おっと、悪い悪い。でもさ、なんで俺とミレーネが同じ組なんだ? 寝坊防止か? それとも俺の暴走防止?」
「両方よ。ラース一人じゃ絶対に見張りどころか二度寝するでしょ。それに、気配に反応して飛び出して、森に突っ込む未来が見えるわ」
「ぐっ……それ、反論できねぇ。未来視かよ」
肩を落とすラースに、ミレーネは小さく吹き出した。
「でも、意外と頼りにはしてるのよ。さっきの戦闘だって、あなたの踏み込み一つで空気が変わった。あの一瞬、敵の動きが止まったわ」
「お? 褒められた? それって正式な評価?」
「ええ。ただし、一度だけよ。調子に乗ったら即撤回」
「相変わらず手厳しいなぁ。でも、そうやって釘刺してくれるやつが隣にいると、俺は暴走しなくて済む。だから安心できるんだ」
「なによ、それ。子ども扱い?」
「違う違う。ブレーキ付き高出力型ってこと」
にやにや笑うラースと、少しむっとしたミレーネ。
――カサリ。
森の奥で小枝の割れる音が響き、乾いた裂音が、夜気を鋭く切り裂く。
次の瞬間、空気が変わる。
ラースの眠気は完全に消え、視線が一点に収束する。
右足が半歩前へ、腰が落ち、重心が低くなる。
ミレーネはすでに結界符を展開していた。
符が淡く蒼白に発光し、空気中に薄い膜が張られる。
魔力の糸が地面へと広がり、侵入経路を封じる準備が整う。
「……三時方向、低い位置。距離十五メートル」
ミレーネの声は静かだが、張り詰めている。
「了解。飛び出したら俺が前に出る。結界は後方カバー」
ラースの指が剣の柄を握るり、刃の冷気が手のひらに伝わる。
闇が揺れ、草陰から飛び出した影が、月光に一瞬だけ輪郭を晒した。
小さな体躯に長い耳。
ひょい、と跳ねる野兎だった。
こちらをちらりと見ただけで、すぐ森の奥へ逃げ込んでいく。
落ち葉を蹴り、影に溶ける。
「……野兎かよ」
ラースがゆっくりと剣を下ろす。
緊張が解け、肩から力が抜けた。
「ふぅ……緊張させないでほしいわね。今の連携、完全に対魔獣仕様だったわ」
ミレーネも結界符を仕舞いながら小さく息をつく。
「いやぁ、今の俺たち、完全に“最強の野兎討伐部隊”だったな。森の平和を守る精鋭」
「威勢だけは立派ね。相手は草食よ」
「おいおい、本気で野兎とやり合ったら、勝てる保証あるか? あいつら足速いぞ。絶対翻弄される」
「情けないこと言わないの。……まあ、ラースが全力疾走して転んで、兎に逃げられる姿は簡単に想像できるけど」
「おい! せめて勝たせろよ! そこは俺が華麗にキャッチだろ!」
「あなたが華麗って言うと、だいたい地面に転がる未来がついてくるのよ」
ミレーネがくすっと笑い、ラースが大げさに頭を抱える。
「でもさ、今の俺たち、無駄に連携完璧じゃなかった? 合図も呼吸もぴったり」
「野兎に?」
「そうそう。“来るぞ”“構えろ”“結界展開”“斬撃準備”……で、結果野兎」
「まるで茶番ね」
「おう、立派な茶番劇団《ルーン座》だ。今夜の演目は“兎と勇者”」
「……ラース、真夜中に騒がしい」
「でも笑ってるじゃん」
「笑ってないわよ。これは呆れてるだけ」
「ほら、口角上がってる」
「これは夜風のせいよ」
「……そんな風初めて聞いたわ」
二人の小声の掛け合いは、森の静けさを壊すことなく続いていく。
見張りの番は厳粛であるはずなのに、気づけば周囲の空気は妙に明るい。
「……なぁ、これが演習でよかったよな。本物の実戦だったら、今の物音で魔獣が様子見に来て、そのまま突撃だった」
「そのときは、さっきみたいに笑ってられないわね。でも、あなたの踏み込みなら時間は稼げる」
「お、また評価上がった?」
「事実を言っただけよ」
「……それでも嬉しいもんだな」
東の空が、わずかに白み始める。
黒一色だった森の輪郭が、少しずつ色を取り戻していく。
鳥のさえずりが一羽、また一羽と重なり、川の音がどこか軽やかに聞こえる。
「……おーい、みんな。夜が明けたぞー。生還報告だー」
ラースが伸びをしながら声を上げる。
「新しい朝だね。冷たいけど、嫌いじゃないわ」
ミレーネが小さく微笑み、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
「新しい朝がきた。……希望の朝かな? ほら、なんかそれっぽいだろ」
ラースが芝居がかった調子で言う。
「……ラース、それ、絶対どこかで聞いたでしょ」
アリスが寝袋から顔を出し、半眼で睨む。
「いいだろ? 名言っぽいじゃん。朝はだいたい希望だ」
「名言“っぽい”って自分で言っちゃったらダメじゃない」
イリーナがくすっと笑いながらツッコミを入れる。
「でも、確かに……希望の朝、って言葉は悪くないわ」
レティアが立ち上がり、まだ眠そうな目をこすりながらも、金の髪を朝日に輝かせてそう呟いた。
「よし! 希望の朝にふさわしく、朝ごはんは倍盛りで! 俺は夜を守った英雄だからな!」
「はいはい、寝起き早々よく食べる宣言ね。英雄はまず顔を洗ってきなさい」
ミレーネが肩をすくめる。
野営地に、夜の緊張が解けた明るい笑い声が広がった。
こうして、二つの班は新しい朝を迎え、次なる一日に向けて再び歩み出そうとしていた――。




