第十部 第二章 第11話
夕食を終え、片づけも一段落ついた頃、空はすっかり夜の帳に包まれていた。
焚き火の匂いと香草の残り香が、ひんやりとした夜気にゆっくりと溶けていく。
森の中にありながらも、この平坦地は周囲より開けており、頭上には無数の星々が澄んだ光を瞬かせている。
濃紺の天蓋のような空に、銀砂を散らしたような輝きが広がり、川のせせらぎが遠くで絶え間なく続いていた。
焚き火の赤い炎がぱちぱちと音を立てながら静かに揺れる。
橙色の光が仲間たちの頬を照らし、長く伸びた影を大地に映し出していた。
テントからは低く囁く声や笑い声が時折こぼれ、緊張と疲労を越えた安心感が漂っている。
薪が崩れるたびに火の粉が舞い上がり、黒い夜空へ吸い込まれる。
一瞬だけ煌めき、やがて消えるその軌跡は、まるで星々と交わるかのようだった。
そんな中、アリスが手元の簡易記録板を確認しながら、皆を見回す。
炎を映した蒼の瞳が静かに揺れ、隊長としての落ち着きを帯びていた。
「そろそろ、夜の見張り当番の割り振りを伝えるね。今日は移動も多かったし、無理のない形でいこう」
焚き火を囲んで輪になって座っていた面々が、自然と視線を向ける。
炎に照らされた瞳が、それぞれ真剣な色を宿した。
「今夜は、二人一組で四交代制にするよ。第一組はイリーナとヴィクトール。第二組は私とリゼット。 第三組はレティアとザック。そして最後、第四組がラースとミレーネ。各組、約二時間ずつ交代でお願い。異常があればすぐ起こして」
落ち着いた声が、夜の静けさに溶ける。
「了解。外周結界は私が定期確認する。魔力変動があればすぐ共有する」
リゼットが短く返事をする。
「第一かー。ちょっと眠いけど、まあ……任されたからには頑張るよ。星でも数えながら気合入れるかな」
イリーナが大きく伸びをしながら笑う。
「任せてくれ。俺が先に目を慣らしておく。暗所視は問題ない」
ヴィクトールが静かに頷く。
「レティアと同じ組ってのは、なんか緊張するな……。変な失態はできないっていうか」
ザックがぼそりと呟く。
レティアはくすりと微笑み、やや冗談めかして答える。
「安心して。私は話しかけたりしないから、静かに星を眺めましょう。沈黙も悪くないわ」
柔らかな声が夜風に乗る。
「むしろ話しかけてくれていいけどな……。沈黙二時間は、それはそれで試練だ」
ザックが苦笑すると、焚き火の周囲から小さな笑いがこぼれる。
「おいおい、二時間なんてあっという間だぞ。俺なんて最後だぜ。寝落ちしない自信はあるがな」
ラースが肩をすくめる。
「その前に、寝過ごさないでよね」
ミレーネが軽く釘を刺す。
「安心しろ、起こしてくれりゃ一瞬で目が覚める」
ラースが胸を叩く。
張り詰めていた空気が、ほんの少し和らぐ。
炎が揺れ、影がゆらりと動いた。
夜は深まりつつある。
森の奥からは虫の音がかすかに響き、川の流れは絶えず一定の音を刻む。
星明りの下、焚き火を囲む仲間たちの姿は、静かな結束の象徴のようにそこにあった。
それぞれが自分の役割を理解し、互いを信じ、夜を越える準備を整えている。
静寂の中、火の粉がまた一つ、夜空へと舞い上がった。
「さて、私は第二組ね」
アリスが立ち上がる。
焚き火の明かりが金の髪をやわらかく照らし、蒼の瞳に橙色の光が揺れた。
炎の向こうでぱちりと薪が弾け、その一瞬の閃光が横顔を際立たせる。
「よろしくね、リゼット。交代まで少し休むけど、何かあればすぐ起こして」
隣のリゼットに穏やかな視線を向ける。
「ええ。交替時間には必ず起こす。結界の揺らぎも監視しているから、異変があれば即座に共有する。今のうちに休んでおいて」
淡々としながらも柔らかい声音。
視線はすでに焚き火の向こう、暗闇に沈む森へと注がれている。
炎の光を受けた横顔には、切り替えの早さと冷静さが滲んでいた。
「俺たちは最後か。リズム崩さないように、早めに寝ておこうぜ。最後が一番眠気きついからな」
ラースが背伸びをし、肩を鳴らす。
「ええ。……ただ、ラースが寝坊しなければ、ね?」
隣のミレーネが穏やかに微笑む。
冗談めかしているが、視線はわずかに鋭い。
「寝坊しねぇよ! 俺を何だと思ってる!」
焚き火の赤い光を反射させながら、ラースがむっと声を上げる。
その大げさな反応に、周囲から小さな笑いがこぼれた。
炎が揺れ、影がゆらりと伸びる。
森の奥では夜鳥が低く鳴き、川のせせらぎが絶え間なく続いている。
そうして、見張り交代の段取りは自然と形になっていく。
炎が薪を崩す音とともに、夜の静寂がゆっくりと広がっていった。
夜の帳が完全に降りると、第一組――イリーナとヴィクトールが見張りの位置についた。
焚き火の赤い光から少し離れ、森の暗がりと川辺のせせらぎの狭間に立つ。
視界は闇に包まれているが、星明りがわずかに地面を照らしていた。
遠くで枝が軋む音や風が梢を揺らす気配がし、夜は静かだが、完全な無音ではない。
「うーん……やっぱり夜は冷えるな。昼との落差が大きすぎる」
イリーナが腕を組み、肩をすくめながら吐く息を白く揺らした。
「さっき小川で顔を洗ったの、ちょっと後悔してるかも。あれ、思ったより体温奪われてたわ」
「不用意に体を冷やすのはよくない。特に夜間は。次は気をつけた方がいい」
ヴィクトールが短く答え、静かに森へ目を向ける。
背筋は真っ直ぐに、足の位置はわずかに開き、いつでも動ける姿勢。
その佇まいは、闇に溶け込む石像のようだった。
「相変わらず真面目すぎるんだよなぁ、ヴィクトールって。もうちょい肩の力抜いてもいいのに」
イリーナが小声で笑いながら、足元の小石をそっと蹴る。
「でも、まあ……そういうとこ、嫌いじゃないけどね。安心できるし」
「……それは光栄だ」
淡々と返しながらも、口元がほんのわずかに緩む。
闇の奥で小動物が草を踏む。
イリーナの視線が一瞬だけ鋭くなる。
「ねぇ、真面目に聞くけどさ。こうやって森の中で夜番してると、妙に落ち着いてるように見えるけど、緊張とかしないの?」
「緊張はしている。常に。だが、それを表に出しても意味がない。敵に隙を見せるだけだ」
低く、揺らがない声。
「……ああ、そういうとこ。やっぱり堅いんだよねぇ。でも、それがヴィクトールなんだよね」
イリーナは苦笑しながらも、少し安心したように肩を落とした。
「逆に君は、なぜそんなに余裕そうなんだ?」
「え? 余裕なんてないよ。ただ、怖い顔して突っ立ってるより、しゃべってた方が気が楽だから。黙ってると余計なこと考えちゃうし」
「……合理的ではないが、理には適っているな。精神の均衡を保つという意味では」
「でしょ? それに、こうやっておしゃべりしてると、時間も早く過ぎるし。二時間なんてあっという間だよ」
ヴィクトールはしばらく無言で森を見つめる。
夜風が外套を揺らし、川の水音が静かに響く。
「……悪くない。君と一緒の番は」
ぽつりと落とされた言葉に、イリーナが目を丸くする。
「え、今なんて? もう一回言って?」
「……悪くないと言った。それ以上は言わない」
「ふふっ、そう言われると、なんか嬉しいな。次も一緒の時は、もっとしゃべってやるよ。覚悟しときなさい」
「……ほどほどにな」
「はーい」
静かな夜。
森を渡る風の音と、小川の水音だけが響いている。
二人の会話はときどき途切れた。
だがそれは気まずさではなく、互いに心地よい沈黙だった。
星明りの下、二つの影が並び立つ。
揺らぐことなく、夜を見守っていた。
夜も更け、空に浮かぶ星々はますますその輝きを増していた。
群青の天幕の奥で、無数の光点が瞬き、まるで静かに呼吸をしているかのように明滅する。
小川のせせらぎと、遠くで鳴く夜鳥の声だけが、しんとした静寂を彩っている。
風は冷え、草を撫でるたびにさらさらと乾いた音を立てた。
アリスとリゼットは、焚き火の残り火のそばに腰を下ろしていた。
赤い炎はすでに小さくなり、黒く炭化した薪の隙間から橙の光がとろりと滲む。
石に伝わる余熱がじんわりと身体を温め、外套越しにも心地よい。
「……静かね。森が、眠っているみたい」
リゼットが月光を映すように瞳を細め、ぽつりと呟いた。
その横顔はいつもの無機質な冷静さよりも、どこか柔らかい。
「うん。さっきまでの戦闘が嘘みたい。あの音も、衝撃も、全部遠い出来事みたいに感じる」
アリスも空を見上げながら応じる。
蒼の瞳に星の光が映り、かすかに揺れた。
「こういう時、つい考え事しちゃうのよね。静かすぎると、記憶が浮かんでくる」
「考え事?」
アリスが首を傾げる。
リゼットは夜空を仰いだまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「昔、姉と一緒に星を眺めたことがあって……その時のことを思い出すの。あの人、星の名前をたくさん知っていて、ひとつひとつ教えてくれた」
「……お姉さん、いるんだ。なんだか意外」
アリスが少し驚いたように声を漏らす。
リゼットは微かに笑った。
「ええ。あの人は、私なんかよりずっとお喋りで、行動的で、強かった。私の手を引いて、どこへでも行ってしまう人だった」
「ふふ、ちょっと想像つかないかも。リゼットが振り回されてる姿って、あまり思い浮かばない」
「でしょうね。でも――その姉が、ある日突然いなくなって」
言葉が一瞬だけ途切れる。
焚き火がぱち、と小さく弾けた。
「……正確には、“ミラージュの魔術師養成院”に進学しただけなんだけど。当時の私には、それが急に遠くへ行ってしまったように感じられたの。距離じゃなくて、世界が変わったみたいに」
夜風が二人の髪を揺らす。
「それくらい、好きだったんだね。お姉さんのこと」
アリスの声は柔らかい。
リゼットは小さく頷く。
「うん……たぶん、憧れみたいなものだった。追いつきたくて、でも追いつけない気がして。私には私の役割があるって、自分に言い聞かせていた」
「それで、“感知”の道を選んだの?」
「ええ。……何かを失くす前に、気づけるようにって。誰かが隣にいるときに、それをちゃんと感じていたいから。手が届かなくなる前に、温度を覚えておきたい」
その声はかすかに震えていたが、芯は揺れていない。
アリスはしばらく黙り、焚き火の明かりに揺れるリゼットの瞳を見つめた。
「……ねぇ、リゼット」
「なに?」
「あなたの“感知”で、私の心……読めたりする?」
少し茶化すような口調。
だが、視線は真っ直ぐだった。
リゼットは一瞬だけ驚き、目を瞬かせる。
「読もうと思えば……わかるかもしれないけれど、アリスのは特別ね。表面と奥にあるものが、まるで別みたい。静かな湖の下に、強い流れがある」
「ふふ、やっぱりバレてるか。隠してるつもりはないけど、うまく整理できてないのかも」
「でもね、今夜のあなたは、とても穏やかに見えるわ。強がってるんじゃなくて……ちゃんと安心してる。仲間の中で、力を抜いている」
その言葉に、アリスは肩を少し落とし、ふっと微笑んだ。
「誰かにそう言ってもらえると、ちょっと救われる気がする。自分では気づけないこともあるから。ありがとう、リゼット」
「こちらこそ。……私、あなたのこと、知れてよかったと思ってる。あなたの強さも、迷いも、全部含めて」
アリスは焚き火の残り火を見つめながら、そっと言葉を返す。
「私も……リゼットのこと、もっと知りたい。あの時、背中合わせで戦った時からずっと。あの瞬間、すごく安心してた」
リゼットの表情がわずかに揺れる。
だがすぐに穏やかな笑みへと戻った。
「それは……少し照れるけど、嬉しい。背中を預けられるって、簡単なことじゃないもの」
二人の間に、再び沈黙が落ちる。
けれどそれは冷たさではなく――焚き火の残り火に似た、温かい余韻を伴うものだった。
「……時間ね」
リゼットが立ち上がり、夜空に一瞬だけ視線を送る。
星の配置を確認するように、静かに。
アリスも頷いて腰を上げた。
「次はレティアとザックの番だったよね?」
「ええ。私が起こしてくる。交代は正確に」
「ううん、私が行くよ。……リゼット、ありがとう。今夜の話、忘れない」
「こちらこそ。おやすみなさい、アリス。次も穏やかな夜でありますように」
静かな森に、二人の声が溶けていく。
残り火がぱちりと弾け、星明かりの下に小さな温もりを刻み続けていた。




