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第十部 第一章 第12話

 アレンがふと視線を向け、少しだけ言葉を選ぶようにして静かに問いかけた。

 廊下の窓から差し込む光が、彼の横顔に淡い影を落とす。


「アリス……今、少し時間あるか? 急ぎじゃない。ただ……ちゃんと座って話したい」


 その声音は穏やかで、けれどどこか緊張を含んでいた。


 不意の言葉にアリスは瞬きをする。

 だがすぐに柔らかな笑みを浮かべ、頷いた。


「うん。このあとは夕食まで自由時間だから、大丈夫だよ。演習前だし、あまり遠くには行けないけど……」


「それでいい。遠出するつもりはない」


 短く返すアレンの口元に、わずかな安堵が滲む。


 そのやり取りを聞いた途端、グロウが大げさに両手を広げ、にかっと笑った。


「よし、だったら全員で一杯やろうぜ! せっかくの再会だ、時間なんて気にするもんか! 祝いだ祝い!」


「グロウ、ここは学院よ! お茶でしょ、せめて。あなた、演習前日に酔う気?」


 ティナが呆れたように眉を寄せる。

 だがその唇の端にはしっかりと笑みが浮かんでいる。


「ちっ、酒の一杯くらい――」


「却下」


 即座に返され、グロウは肩を落とす。


 その横で、ユリエが小さな声でぽつりと告げた。


「私も行きたい。もうちょっと、話したいから。……ちゃんと、今のアリスのこと、知りたい」


 静かな言葉。

 だがそこには、心の奥から滲む温かさと懐かしさが込められていた。


 アリスはそのひとつひとつの想いを受け止めるように、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。


「じゃあ、みんなで行こっか。演習前の作戦会議ってことにして」


 声を弾ませてそう告げると、自然と笑顔がこぼれた。


 廊下の空気は再会の余韻に包まれ、五人の間に流れる時間は、かつての冒険の日々へと戻ったかのようにあたたかい。


 一行は施設内にあるカフェルームへと移動した。

 演習参加者や関係者が利用するために設けられたその場所は簡素な作りながら、天井は高く、窓際からは夕方の光が斜めに差し込む。

 白い壁がやわらかく照らされ、木製のテーブルと椅子が整然と並んでいる。

 陶器のカップからは魔導焙煎された香ばしいお茶の香りが漂い、ほのかに甘い蒸気が立ちのぼっていた。


 六人がゆったりと座れる大きなテーブル席を見つけ、自然と隊列を組むように腰を下ろす。

 アレンが正面、アリスがその向かい。

 左右にティナとユリエ、端にグロウ。


 椅子に腰を下ろした瞬間、焚き火を囲んで語り合った夜の記憶がふっと蘇る。

 炎のはぜる音、夜風、仲間の笑い声。

 懐かしい空気が一気に流れ込んできた。


「いやー、あの頃と変わってねぇな、アリスの笑い方。なんていうか、無防備でまっすぐだ」


 グロウが豪快に笑い声を上げ、テーブルを軽く叩く。


「変わったのは見た目の落ち着きだけだね。中身は……うん、相変わらずのアリスちゃん。真っ直ぐで、無茶して、でも最後はちゃんとやり遂げる」


 ティナが柔らかく微笑みながら、からかうように言う。


「ちょっと、それ褒めてるのかどうかわかんないよ」


 アリスは照れくさそうに頬をかきながらも、どこか安心したように微笑んだ。

 胸の奥に広がるのは、学院に来てから忘れかけていた“昔の自分”を取り戻すような温かさだった。


「にしても……まさか学院の演習で、こうしてまたアリスに会えるとはなぁ。人生ってのはほんとわからねぇ」


 グロウが大きなカップを両手で抱え、香りを楽しむように鼻を鳴らしてから満足そうに笑う。


「うん。立ち話のときに聞いたけど、ほんとにギルドにも顔出してくれてたんだよな?」


 ティナがにっこりとアリスに目を向ける。


「うん、この前ちょっとだけ。ガルドさんもマリエさんも元気だった。なんか……帰ってきた感じがして」


 アリスがぽつりと漏らすように言うと、仲間たちの顔に自然と笑みが浮かんだ。


「そりゃあ、あれだけ活躍してたんだ。今でもギルドじゃ“閃光”のアリスって呼ばれてるよ。新人にまで噂が回ってるくらい」


 ティナが茶目っ気たっぷりに言葉を重ねる。


「ちょ、ちょっと……まだその呼び方、残ってるの?」


 思わず吹き出したアリスは、慌てて口元を押さえる。


「当たり前でしょ。あれだけの魔術と剣術、忘れるほうが無理だよ」


 ユリエが静かに口を挟む。


「いや、強さはあの頃よりずっとだろ」


 その言葉に、アリスはわずかに目を丸くする。


「そんなことないよ。まだまだ……」

「ある」


 ユリエは短く断言する。


「目が違う。迷いが減った。あの頃は勢いだったけど、今は覚悟がある」


 淡々とした言葉。

 だが確かな敬意が込められていた。


 アリスは少し頬を赤らめ、手元のカップを見つめながら小さく息を吐く。


「うわ、それ、まだ残ってたんだ……」

「残るに決まってるだろ。お前が積み上げたもんだ」


 アレンが穏やかに言う。


 それぞれが温かい飲み物を手にし、テーブルを囲んで昔話や近況報告に花を咲かせていく。

 笑い声が弾み、湯気がゆらめき、午後の光がゆっくりと傾いていく。

 焚き火の周りで肩を寄せ合って語り合った日々を思い出させるように、笑い声と柔らかな空気がゆっくりと流れていった。


 カップを置いたユリエが、ふと真剣な表情で言葉を挟む。

 陶器の底が木製のテーブルに触れ、かすかな音を立てた。

 夕方の光が彼女の横顔を照らし、その涼やかな瞳に静かな決意を映し出す。


「さっき紹介のときに聞いた。魔導学院で個人総合一位って、簡単なことじゃないよね。あそこは実力主義だし、魔術だけじゃなくて剣術や座学も全部含めての総合評価でしょ? 生半可な努力じゃ届かない」


 真っ直ぐな視線。

 称賛というより、確認するような声音だった。


 アリスは少しだけ肩をすくめ、苦笑を浮かべる。


「……あはは、ありがとう。でも、まだまだだよ。上には上がいるし。学院の中だけの順位だしね。実戦経験なら、みんなのほうがずっと上だと思う」


 言葉は控えめだった。

 だがその蒼い瞳には、確かな誇らしさが宿っている。

 眠る間も惜しんで積み上げてきた日々。

 高速詠唱の訓練、魔力制御の反復、剣を振り続けた夜。

 その一つ一つを、今は自分で少しずつ認められるようになっていた。


「でも、さすがに驚いたよ」


 アレンが小さく笑い、椅子に背を預ける。

 天井の梁を見上げるようにして、ゆっくりと言葉を続けた。


「まさか演習支援で俺たちが呼ばれて、そこにお前がいるなんてな。お互いにタイミングがぴったりだった。偶然にしちゃ出来すぎだ」


「ほんとだね。最初に姿を見たとき、ちょっと信じられなかったもん」


 ティナが柔らかく微笑む。


「こりゃ運命ってやつだな! 神様も粋な計らいしてくれるじゃねぇか!」


 グロウが豪快に笑い、腕を組んだ。


 アリスも思わず笑い返す。

 胸の奥で「確かに」と深く頷いていた。


「ほんと、それ思った。まさかこんな形で再会するなんてね。でも、なんだかすごく安心したよ。アレンたちの姿を見たら、気持ちが落ち着いて……ああ、ちゃんと帰れる場所があるんだって思えた」


 言葉にしてみると、自分でも少し照れくさい。


「おっ、それは嬉しいな」


 グロウが肩をすくめ、にやりと笑う。


「演習期間中、後方で支えるのは任せとけ。補給も撤退路も、怪我人の搬送も全部段取りしてやる。困ったときはすぐ呼んでくれよな。前で暴れるのはお前の役目だろ?」


「……うん。頼りにしてる。ほんとに」


 アリスは真っ直ぐに頷く。

 その声には、仲間への絶対的な信頼がこもっていた。


 ティナは安心したように微笑み、ユリエはカップを両手で包み込みながら小さく頷く。

 アレンもまた、口には出さずとも穏やかな眼差しでアリスを見守っていた。


 言葉少なでも、テーブルを囲む空気はかつてと変わらぬ温もりに満ちている。

 焚き火を囲んだ夜の記憶が胸の奥で重なり、今この瞬間の絆をより強く感じさせた。


 アリスの瞳に浮かんだ微かな笑みは、懐かしさと同時に、これから先への新たな決意をも秘めている。

 学院での歩みと、かつての仲間たちとの繋がり。

 その両方が確かに自分を支えている――そう実感できる笑みだった。


 しばらくの歓談のあと、ティナがふとカップを傾けながら穏やかな視線を向ける。

 湯気がふわりと立ち上り、彼女の頬を淡く包んだ。


「そういえばアリス、あのときのケガ……本当に大丈夫だったの? あの洞窟の奥で倒れたとき、私、すごく焦ったんだから。回復魔術かけながら、手が震えてた」


「……ああ、あれ、ね」


 アリスは一瞬、懐かしい情景に引き戻されたように目を伏せる。

 暗い洞窟の奥、石壁に反響する魔物の咆哮。

 崩れ落ちる足場。

 自分の体が崩れ落ちていく感覚。


 だがすぐに、あの温かな光を思い出す。


「大丈夫だよ。ティナの回復が早かったから、すぐに立ち直れた。あのとき、私の魔力循環が乱れてたの、ちゃんと見抜いてくれたでしょ。あれがなかったら、たぶん立てなかった。本当に助かった」


 柔らかな笑みとともに言葉を返す。


「そっか……」


 ティナはわずかに頬を染め、照れたように笑う。

 その短い返事には、当時どれほど必死だったかという思いと、今こうして元気な姿を目にできる安堵が込められていた。


 ユリエは静かにそのやり取りを見守り、グロウは腕を組んだまま「お前らしいな」と笑う。

 アレンは何も言わない。

 だがその眼差しはどこか誇らしげで、同時に少しだけ優しさを滲ませていた。


 ユリエが少し身を乗り出す。


「私、今でも思い出すよ。初めて一緒に遠距離支援やったとき、アリスの動きが早すぎて……狙いが間に合わなかったの。矢を放つ前に、もう次の敵に向かってた」


「それ、覚えてる」


 アリスがくすっと笑う。


「私が前に出すぎて、ユリエに怒られたんだよね。“連携って言葉知ってる?”って」

「言った」


 ユリエは淡々と頷く。


「でも、今ならちゃんと合わせられると思う。私もあの頃より速くなった。視界も広がった。……今度、またやってみたい」


 その静かな言葉には、控えめながらも確かな決意が宿っている。


 アリスは真っ直ぐ頷く。


「うん、ぜひ。今度はちゃんと、呼吸合わせよう。私、前に出る前にちゃんと合図する」


 そのやり取りを聞いていたグロウが、隣でニヤニヤと肘でアレンをつつく。


「アレンは?」

「え、俺?」


 不意を突かれたアレンが肩をすくめる。


「いやあ、お前、アリスと二人で話したそうだったろ? なんならこのまま席を立つか? 俺たちは気を利かせてどっか行くぞ?」

「や、やめろって……」


 アレンは慌ててお茶に口をつける。

 わずかに頬が赤くなる。


 ティナが小さく吹き出し、ユリエも目を細めて微笑む。


 だが次の瞬間、アレンは視線を落としつつも、真剣な声で口を開いた。


「……でも、本当はちょっと、また一緒に戦いたいとは思ってる。あの頃みたいに、背中預けてさ」


 空気が、わずかに引き締まる。


 アリスは一瞬だけ言葉を飲み込み、それから穏やかで、それでいて真剣な声で答えた。


「……うん。私も。今度はもっと、ちゃんと隣に立てると思う」


 その短いやり取りに、テーブルを囲む空気がふっと温かく、しかしどこか引き締まる。

 かつての仲間としての絆が、再び確かな形を取り戻しつつあることを、全員が感じていた。


 グロウはその様子を見て、にやりと笑う。


「いいねえ。じゃあ、今度の演習で俺たちが後ろを守る。前は任せたぜ、“閃光”さん。派手にやれよ」

「やめてよ、もうその呼び方……。学院でも噂になってるんだから」


 アリスは苦笑しつつも、どこか嬉しそうだった。

 口元に浮かんだ笑みは照れ隠しのようでいて、心の奥ではその言葉を誇らしく受け止めている自分に気づいている。


 仲間たちもそれぞれ笑みを交わす。

 近況や他愛ない話が次々と飛び出し、笑い声が重なる。


 窓の外では夕方の光が少しずつ色を変え、空は淡い橙から茜へと移ろい始める。

 カフェルームの中に柔らかな陰影が落ち、テーブルの上のカップの縁が金色に縁取られた。


 温かな飲み物の香りと仲間たちの声が重なり、アリスの胸には心地よい充足感が広がっていた。


 ――けれど、やがて誰からともなく時計に目をやり、現実の時間が戻ってくる。

 壁際に掛けられた真鍮の振り子時計が、静かに時を刻んでいた。

 規則正しい音が、穏やかな空気の中にわずかな緊張を運び込む。


 窓の外では、夕陽がさらに傾き、石畳の中庭を長い影が横切っている。

 演習準備のために行き交う学院生たちの姿が遠くに見え、鎧や装備の金属音がかすかに響いた。


 演習の準備も、学院生としての責務も待っている。

 再会のひとときは、いつまでも続くわけではない。


 それでもアリスは、胸に宿った温かさを手放さずにいようと、そっと深呼吸をした。

 肺の奥まで空気を満たし、静かに吐き出す。

 その仕草は、自分の中の揺らぎを整えるための小さな儀式のようだった。


「……そろそろ戻らなきゃな。アリスの自由時間が終わる時間になるし。学院は時間管理、厳しいんだろ?」


 アレンが静かに言う。

 穏やかな声音の奥に、名残惜しさが滲んでいた。


「うん。あと少しで集合時間。準備確認もあるから……ちゃんと戻らないと」


 アリスは頷きながら答える。

 だがその瞳には、別れを惜しむ柔らかな光が宿っている。


「演習中に、また会えるといいけど――」


 ティナが言葉を濁す。

 カップの縁を指でなぞりながら、視線を少しだけ伏せた。


「前線と後方、配置が違うかもしれないしね。忙しくて顔合わせる余裕ないかも」


 ユリエが淡々と補足する。


 その現実的な言葉に、テーブルの空気がほんの少しだけ重くなる。


 アリスは小さく首を振る。


「ううん、大丈夫。もし演習中に会えなかったとしても……また日を改めて、絶対に再会しよう。今みたいに、ゆっくり座って話せる時間を作ろう。約束」


 その声音には、揺るがぬ強さと優しさがあった。

 ただの希望ではなく、必ず叶えるという意志。


「……ええ。そうね。約束、ね」


 ティナが胸に手を当てるようにして微笑む。


「私は覚えておく。次は私が日程を決める」


 ユリエが静かに言う。


「おう、任せとけ! 次はもっと派手に集まろうぜ。酒はなしでもいいからよ!」


 グロウが豪快に笑い、場の空気を和ませる。


 アレンは真っ直ぐにアリスを見据えた。

 その視線は静かで、けれど強い。


「約束、だな。今度は“たまたま”じゃなくて、ちゃんと予定合わせて会う」

「うん。絶対」


 アリスはしっかりと頷き返す。


 視線が交わった瞬間、互いの心に残っていた距離はすっと埋まる。

 再会の驚きや照れくささは消え、代わりに確かな絆が静かに結び直された。


 椅子を引く音が重なり、カップが片付けられる。

 それぞれが装備の位置を確認し、外套を整える。


 窓の外では、夕陽が最後の光を石壁に投げかけていた。

 空は茜から紫へと移ろい始めている。


「じゃあな、アリス。演習、派手にやれよ」

「後ろは任せて。無理しすぎないこと」

「またな」

「気をつけて」


 短い言葉が交わされる。


 こうして、短いが懐かしさに満ちた再会のひとときは、温かな余韻を残して解散となった。


 それぞれが演習という新たな役目へ向け、静かに歩みを進めていく。

 アレンたちはカフェルームを出て、別方向の通路へ。

 背中越しに手を振るグロウの姿が、曲がり角の向こうへ消えていった。


 アリスはその背を見送る。

 胸の奥に灯った光を、大切に抱きしめるように。


 そして一度だけ深く息を吸い、学院生としての顔を取り戻す。


 仲間たちとの絆は、確かにここにある。

 それを胸に、今は前を向く。


 アリスは踵を返し、学院生としての自分の居場所へと戻っていった。

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