第十部 第一章 第11話
オリエンテーションが終了し、ギルベルト教官の退場を合図に、学院生たちはざわめきながら徐々に席を立ち始めた。
壇上から姿を消した教官の足音が完全に遠ざかると、張りつめていた空気がゆるやかにほどける。
椅子の軋む音が連鎖し、黒曜石の床を擦る靴底の音があちこちで重なった。
制服の布が擦れる柔らかな音、資料をまとめる紙の音、仲間同士の短い確認の声。
数百人分の息遣いが、ようやく解放されたように広間に広がっていく。
魔導灯の光は変わらぬまま天井から降り注いでいるが、先ほどまでの緊迫は薄れ、代わりに「現実」がじわりと胸に染み込むような空気へと変わっていた。
そんな中、アリスはふと隣に座るレティアに視線を向けた。
彼女の横顔は真剣さをまだ残しており、瞳の奥に静かな緊張が揺れている。
「……レティア、ごめん。先に部屋へ戻っててくれる?」
小さく抑えた声。
だがそこには、はっきりとした意思があった。
レティアは一瞬だけ驚いたように瞬きをし、それからゆっくりと微笑む。
「あら、急ぎの用? あなたが“先に”なんて言うの、珍しいわね」
柔らかな声音。
からかいではなく、心配と理解が滲んでいる。
「うん……ちょっとね。どうしても、今のうちに話しておきたいことがあって。すぐ戻るから」
アリスは曖昧に答えつつも、視線をわずかに逸らした。
その仕草に、レティアはすべてを察したように目を細める。
「《閃光の鉄壁隊》?だったかしら」
小さな声だったが、確信を含んでいた。
アリスは一瞬だけ息を止め、それから苦笑する。
「……うん。顔、見てたでしょ。驚いた」
「ええ。あなたの表情が一瞬で変わったもの」
レティアは立ち上がりながら、軽くスカートの裾を整える。
その動作は優雅で、周囲のざわめきの中でも不思議と目を引いた。
「じゃあ、行ってらっしゃい、アリス。よくわからないけど、過去から逃げる必要はないわよね?」
その言葉は穏やかで、しかし力強い。
アリスは小さく息を吐き、頷いた。
「ありがとう。ちゃんと、話してくる」
「ええ。わたしは部屋で地図の確認でもしているわ。遅くなりすぎないようにね」
レティアはそれ以上追及せず、穏やかに頷く。
椅子から立ち上がった彼女は裾を軽く整え、振り返ることなく別方向の通路へと歩み去っていく。
背筋はまっすぐに伸び、歩幅は一定。
その後ろ姿は相変わらず凛としていて、どこか背を押してくれるようでもあった。
アリスはその背をしばらく見つめる。
胸の奥に残るざわめきを静めるように、深く息を吸った。
唇をわずかに噛みしめ、指先を握り込む。
――逃げる理由はない。
そう自分に言い聞かせるように、ゆっくりと吐息を落とした。
そして、意を決したように足早にホールを抜ける。
まだ人の行き交う廊下へと向かうと、石造りの壁に反響する足音がやけに大きく感じられた。
廊下は半円状に伸び、窓から差し込む午後の光が床に長い影を落としている。
数組の学院生が地図を広げて議論し、別の班は装備の確認をしながら歩いていた。
そのざわめきの向こう側に、ひときわ落ち着いた気配がある。
――廊下には、まだ《閃光の鉄壁隊》の面々が揃っていた。
「……アレン!」
胸の奥から込み上げてきたものを抑えきれず、アリスは思わず声を張り上げた。
廊下に響いたその声は、石壁に反響してわずかに重なり、周囲のざわめきを一瞬だけ押しのける。
制服の裾がふわりと揺れ、金の髪が肩越しに流れた。
足取りは自然と速まり、ほとんど駆け出すように距離を詰めていく。
その勢いに、《閃光の鉄壁隊》の面々が一斉に振り向いた。
真っ先に目を見開いたのは、大柄なグロウだ。
巨体に似合わずぱちりと大きく瞬きをしてから、にやりと口角を上げる。
「おいおいアレン、今度は学院の学院生さんナンパしてきたのか? ほんっと油断ならねぇな、お前は。演習支援に来てまで手ぇ出すとか、さすがに職業倫理どうなってんだ?」
低く太い声が廊下に響き、周囲の学院生が思わず振り返る。
「えぇぇぇ、ちょっと! こんな綺麗な子にまで手を出すなんてどういうことよ……! しかも制服よ制服! さすがにそれは弁明の余地なしでしょう!?」
ティナが腰に手を当て、呆れたように眉をひそめる。
けれどその口調はどこか楽しげで、目の奥には悪戯っぽい光が宿っていた。
柔らかな金髪が揺れ、場の空気が一気に和らぐ。
アレンは顔を真っ赤にし、慌てて両手を振った。
「してない! 俺は……さすがに、してないから! というかまずナンパなんてしてない! 誤解を広げるな!」
「“さすがに”って何よ、“さすがに”って! 今ちょっと間があったわよ!? 心当たりある顔してたわよ!?」
ティナがさらに一歩詰め寄る。
「ない! ほんとにない! 俺は何もしてない!」
廊下の端で控えていたユリエが小さく肩をすくめ、矢筒の位置を直した。
その仕草は静かで冷静だが、口元にはわずかな苦笑が浮かんでいる。
「……また始まったわね」
低く呟くその声音は、長年の付き合いを感じさせる諦観混じりのものだった。
アリスはそのやり取りを見つめながら、胸の奥がいっぱいになるのを感じていた。
懐かしさと、可笑しさと、言葉にできない安堵。
かつて幾度となく目にした、仲間たちの変わらない光景。
戦いの合間にもこうして軽口を叩き合い、笑い合っていたあの日々が、鮮明に蘇る。
そのやり取りの横で、ユリエがじっとアリスの顔を見つめていた。
涼やかな黒い瞳が、何かを探るように細められる。
視線は額から瞳へ、頬から口元へと移り、やがて確信へと変わっていく。
「……あなた……」
その声は小さく、だが抑えきれない震えを含んでいた。
「……もしかして……アリスちゃん?」
その呼び名。
耳に届いた瞬間、アリスの胸がふわりと温かくなる。
遠い日の焚き火の音、森の匂い、共に剣を振るった夜の記憶が重なった。
自然と笑みが浮かぶ。
「うん。久しぶり、ユリエ。元気にしてた? 全然変わらないね、相変わらず冷静で、ちゃんと皆を見てる」
にっこりと微笑むアリスを前に、ユリエは目を丸くしたまま言葉を失う。
しばらく呆然と見つめ、それからかすれた声で続けた。
「……本当に、アリス……。別人みたい……雰囲気が、ずっと大人になってるし、背も伸びてるし……でも、笑い方は同じ……」
その声音には、驚きと喜びと、わずかな寂しさが混じっていた。
アリスは少し照れたように笑い、自分の胸元にそっと手を当てる。
「私も、あの頃と比べたら……身長もだいぶ伸びたし。十二歳だったからね、あの頃は。今はもう十七だよ。時間、経っちゃったね」
ユリエはゆっくりとアリスの姿を見上げる。
制服に包まれた立ち姿は、もうかつての小柄な少女ではない。
背丈も、纏う空気も、確かに変わっている。
けれど瞳の奥に宿る光は、あの日のままだ。
周囲で様子を見ていたティナとグロウも、互いに顔を見合わせる。
「え……え? あのアリスって、もしかして……」
ティナが目をぱちぱちと瞬かせる。
「……ちっこかった、あの剣の速ぇガキか?」
グロウが顎に手を当て、まじまじと見つめる。
アリスは苦笑する。
「“ガキ”はひどいよ、グロウ。でも、まあ……そのアリスで合ってる」
「マジかよ……あのときのチビが、こんなに育つとはな……」
グロウは感慨深げに唸る。
アレンだけが、ずっと黙ったままアリスを見つめていた。
その眼差しは穏やかだが、奥に何かを秘めている。
再会の喜び、驚き、そして――言葉にできない複雑な感情。
廊下を行き交う学院生たちの足音が、遠くに感じられる。
時間がほんの少しだけ、止まったかのようだった。
周囲で様子を見ていたティナとグロウも、互いに顔を見合わせ、驚きと納得が入り混じったような表情を浮かべる。アレンだけが黙ったまま、静かにアリスを見つめ、その眼差しの奥に言葉にならない感情を隠していた。
「……確かに……背も伸びたし、なんか……すごく綺麗になってる」
ユリエの声は小さく、驚きと感慨が入り混じっていた。
まっすぐに向けられた黒い瞳が、昔を確かめるように、今を見つめるように、ゆっくりとアリスをなぞる。
「ありがとう。でも、私自身はあんまり実感なくて……毎日必死でやってたら、いつの間にかこうなってたって感じかな。でも、ユリエにそう言ってもらえると、ちょっと自信つくかも」
アリスは照れを隠すように微笑む。
けれどその蒼い瞳には、素直な喜びが揺れていた。
その笑みに引き寄せられるように、ユリエの口元もわずかにほころぶ。
「……そっか。うん、ほんとに。なんていうか……ちゃんと“自分の場所”を見つけた顔してる」
その一言は、何よりも嬉しかった。
「ユリエのほうこそ、なんか前よりもっと綺麗になった感じするよ。雰囲気も落ち着いたし、弓を構えてなくても格好いい」
「なっ……ちょ、やめてよ。そういうの、言われ慣れてないし……それに格好いいって何よ、格好いいって……」
ユリエは慌てて視線を逸らし、耳まで赤らめる。
矢筒の紐を無意味に直しながら、落ち着きを取り戻そうとするその姿は、昔と変わらない。
不器用で、でも真っ直ぐで。
その仕草が、アリスの胸に懐かしさを蘇らせた。
すぐ隣から、グロウの豪快な笑い声が響く。
「はははっ! まーた照れてるな、ユリエ! けどアリスが無事だったってわかって、ほんとによかったぜ! あのときは急にいなくなるし、手がかりもねぇし、正直どうなったかと思ったぞ!」
大きな掌で腰のベルトを叩きながら笑う姿は、まさに以前と同じ「隊の盛り上げ役」。
廊下の空気が明るく弾む。
「ありがとう、グロウ。変わらないね、あの頃と……声の大きさも、その安心感も」
「おうよ! そこは変わらねぇさ! けどな、お前もずいぶん立派になったなぁ。学院の制服なんて、似合いすぎてて一瞬わからなかったぞ? あのチビが、こんな凛とした顔して立ってるとはな」
「チビは余計だよ」
アリスは小さく笑いながら肩をすくめる。
「ふふ、まだまだ勉強中だけどね。強くなりたくて、ちゃんと守れる力を持ちたくて……だから、ここにいる」
その言葉に、グロウは一瞬だけ真面目な表情を見せる。
「……そうか。なら安心だ。お前が選んだ道なら、きっと間違いねぇ」
その場の空気がふっと和らぎ、かつて共に過ごした日々の延長のような温かさが廊下に広がっていく。
石壁に差し込む午後の光が、柔らかく彼らを包んでいた。
そのやりとりを見ながら、ティナが穏やかに歩み寄ってくる。
柔らかな金髪が肩に揺れ、慈しみのこもった微笑みがアリスを包み込む。
「もう……心配してたんだから。何の連絡もなしに、いきなり姿を消して……私たち、ずっと探したんだよ? 街も森も、ギルドにも何度も顔出して……あなたの足取り、少しでも辿れないかって」
その声音には、責めるよりも寂しさと安堵の色が強く滲んでいた。
アリスは視線を落とす。
胸の奥に押し込めていた後悔が、じわりと溢れる。
「……ごめん、ティナ。でも……あのときは、どうしても一人で決めなきゃいけなかった。みんなに甘えたら、きっと揺らいじゃうと思って……。ちゃんとみんなにお礼も言えなくて、ほんとにごめん」
唇を噛みしめるようにして絞り出す言葉。
だがティナはゆっくりと首を振り、柔らかく微笑んだまま答える。
「いいの。怒ってないよ。ただ、寂しかっただけ。今こうして会えたから……それで十分。ほんと、元気でいてくれて嬉しい。それだけで、もう何も言わない」
言葉と共に伸ばされた手が、アリスの手をそっと包み込む。
温かなぬくもりが、指先からじんわりと広がる。
戦場でも感じたことのある、癒し手の優しい魔力のような安心感。
アリスの胸に、ゆっくりと安堵が満ちていく。
「……ありがとう、ティナ」
小さな声だったが、確かな感謝が込められていた。
廊下の空気は一瞬だけ静まり返る。
行き交う学院生の足音も、遠くに感じられた。
グロウもユリエも、言葉を挟まずに二人を見守っている。
その眼差しには、再会の喜びを共に分かち合う仲間の情があった。
そして、少し離れたところで黙っていたアレンが、ふっと長い息をついて前に出た。
廊下の窓から差し込む夕方の光が、彼の黒髪を淡く縁取る。
仲間たちの視線も自然と彼に集まり、空気がわずかに静まった。
「お帰り、アリス。……ずっと、どこかでまた会えるって思ってた。理由はない。ただ、お前は簡単に消えるようなやつじゃないって、そう思ってた」
静かな言葉。
飾り気のない声音は、胸の奥にしまっていた本音のように真っ直ぐアリスへと届く。
アリスの胸が、きゅっと締めつけられた。
「ただいま、アレン。……なんだか、みんな変わってないようで、でもちゃんと変わってて……嬉しい。あの頃のままじゃなくて、でもあの頃をちゃんと持ったまま前に進んでる感じがして」
声は柔らかく、瞳には安堵と懐かしさが混じった光が宿っていた。
「お前のほうこそ、驚いたよ。まさか学院生になって、こんな場所で再会するなんてな。剣一本で突っ走ってたやつが、今は学院の制服を着てるなんて……人生、わからないもんだ」
アレンはわずかに口元を緩める。
かすかな、しかし確かな優しい笑み。
そこには懐かしさと誇らしさが滲んでいた。
「でも似合ってる。ちゃんと“選んだ道”を歩いてる顔してる」
その言葉に、アリスは小さく目を伏せてから頷いた。
「うん。逃げたわけじゃないよ。ちゃんと、自分で選んだ。もっと強くなるために。守れるものを増やすために」
「……そうか」
短い返事。
だがそこには、深い納得があった。
廊下の空気は、ほんのひととき戦場でもなく訓練でもない、再会を祝う温かな静けさに包まれていた。
石壁に反射する光がやわらかく揺れ、時間が少しだけゆるやかになる。
その空気に、しんみりしすぎないようにグロウが勢いよく両手を叩いた。
「よっしゃ! 湿っぽいのはここまでだ! 再会できたんだ、めでてぇ話だろ! じゃあ今度また何か一緒にやろうぜ! 俺たちはまだまだ現役だしな! 演習終わったら腕試しでもするか?」
豪快な声に、廊下の張り詰めた空気が一気に和らぐ。
「ちょっとグロウ、いきなり勝負はどうなのよ。せめて食事くらいにしなさいよ」
ティナが肩をすくめて苦笑する。
「……でも、また並んで戦うのは悪くないかも」
ユリエが小さく呟く。
照れ隠しのように視線を逸らしながらも、その声には確かな期待が混じっていた。
「うん、ぜひ。また一緒に。今度は、ちゃんと並んで」
アリスは力強くうなずき、笑みを浮かべて応えた。
その姿はもう、かつて仲間の背中を追いかけていた小さな少女ではない。
今は自らの足で並び立ち、共に歩める仲間としてそこに立っている。
――こうしてアリスは、大切な仲間たちとの再会を果たした。
懐かしさと温かさが胸に満ちるその瞬間、彼女は心の奥底で確かに“繋がっている”ものを感じていた。
過去も、今も、そしてこれからも――自分は決してひとりじゃない。
そんな余韻に浸っていると、ふと思い出したようにティナが口を開いた。
「そういえばアリス、最近ギルドに顔を出したんだって? あの騒ぎ、ちょっとした事件だったのよ?」
「うん、この前ちょっとだけ。ガルドさんとマリエさんにも会えたよ。久しぶりなのに、何も変わらなくて……ちょっと安心した」
アリスが頷くと、ティナの表情がぱっと明るくなる。
「やっぱり! ギルマスがさ、珍しく真顔で『アリスが戻ってきた』って言うから、最初みんな冗談だと思ったのよ。だってあの人、ああいう顔するの滅多にないじゃない?」
「俺なんか『それは幻覚じゃねぇのか?』ってツッコミ入れちまったぜ。だって突然すぎるだろ! あのガルドが真顔だぞ?」
グロウが腕を組みながら豪快に笑う。
「ほんとに。でも……実際にこうして目の前にいるんだから、信じるしかないね」
ユリエがしみじみと呟く。
その視線はアリスの姿に向けられ、瞳には安堵と感慨がにじんでいた。
アレンがその様子を見て、ふっと息をつき、穏やかな声で口を開く。
「まあ、あいつがわざわざ冗談言うわけないしな。……ガルドさん、あの時すごく嬉しそうだったぞ。口ではいつも通りだったけどな」
「うん、会えてよかった。またちゃんと挨拶に行きたいな。今度はゆっくり話せるといいな」
アリスは微笑みながら答える。
その言葉には、かつての居場所への想いと、今も変わらぬ絆への確信が込められていた。
その笑みにつられるように、ティナも、グロウも、ユリエも、そしてアレンも自然と笑顔を浮かべる。廊下に響くのは、再会を喜ぶ温かな空気だった。




