第九部 第三章 第12話
レイラとアリスは、周囲で続いていた激闘がひとまず終息したことを確認すると、互いにほんの僅かに肩の力を抜いた。
荒く上下する胸の鼓動が、耳の奥で自らの生存を主張する。
吐き出す息は白く震え、戦闘で昂ぶった体温が冷気に押し戻されるようだった。
肺の奥に残る熱と夜気の冷たさがせめぎ合い、喉を通る空気がかすかに痛む。
指先はまだ微細に震え、握り締めた柄の感触がやけに鮮明だった。
足元には、崩れ落ちたバロール・ビースト亜種の残骸が黒煙を吐きながら横たわり、焦げた肉片や焼け焦げた装甲の匂いが風に混じって鼻腔を刺す。
地面には斬撃や爆撃の痕が無数に刻まれ、岩床のあちこちからまだ魔力の余熱が立ち昇っていた。
砕けた外殻の隙間からは赤黒い瘤が破裂した痕が覗き、そこから滲む体液がじわじわと大地を染めている。
遠方ではまだ別の戦線の衝突音が低く反響し、金属と金属が打ち合う硬質な響きと魔術の炸裂音が森の奥でくぐもっていた。
だが今この瞬間、二人の周囲だけが奇妙な静寂に包まれている。
アリスは《ルミナ=コード》を下げ、肩で荒く息をつきながらちらりと隣を見やった。
レイラの髪先は戦闘の余波で乱れ、頬には返り血の飛沫が冷たく固まりかけている。
黒鉄色の兵装には細かな傷が走り、発光ラインの青白い光がかすかに脈動していた。
それでも彼女の蒼白な瞳は揺るぎなく、次に訪れる戦況を既に見据えている。
戦場の余韻が漂う中、張り詰めていた神経がほんの一瞬だけ緩む。
そこに、互いにしか感じ取れないわずかな呼吸の重なりが生まれた。
それは安堵ではなく、次の嵐に備える前の刹那の静寂に過ぎない。
「……レイラさん。その姿は、いったい何なんですか。それに……“レティシア”って……どういう意味なんですか……?」
驚きと戸惑い、そしてわずかな期待がないまぜになった声音。
荒い呼吸の合間に絞り出された問いには、確かめたい気持ちと触れてはならない秘密に触れてしまったのではないかという迷いが滲んでいた。
しかしレイラは即座に片手を上げる。
薄く血に濡れた指先が静かな軌跡を描き、唇へと運ばれる。
人差し指をそっと添え――「――しぃ」。
音にならぬその仕草は、戦場のざわめきを切り取るかのように静謐だった。
霧が一瞬、動きを止めたかのようにさえ感じられる。
「その話は――また後で」
低く、しかし揺るぎない声。
「今ここであなたの集中を削ぐわけにはいきません。……レティシア様、いまは戦場です。生き延びることが最優先。それ以外は、後で」
呼びかけに込められた響きが、わずかに重みを帯びる。
そう言い切ると、レイラはわずかに顔を背け、戦場の奥へと視線を戻した。
その背中には問いを遮る冷淡さではなく、アリスを守るための強い意志が刻まれている。
アリスは一歩踏み出しかけた足を止め、息を呑んだままその横顔を見つめる。
胸の奥に広がるのは拭えぬ疑念と、説明を待つしかないという確かな確信。
その沈黙が、かえって二人の間に強い絆の輪郭を浮かび上がらせていた。
アリスは喉まで込み上げた言葉を押しとどめ、唇をきつく噛みしめる。
心臓は荒ぶるように脈打ち、戦闘で高ぶった魔力の余韻と混ざり合い思考を乱そうとする。
だが――今は戦場。
焦げた大地の匂い、漂う血煙、遠方で響く衝突音。
どれもが現実を突きつけていた。
(……後で。必ず、後で……絶対に聞き出す……)
胸奥で静かに誓いを結ぶと、アリスは迷いを力に変えるように《ルミナ=コード》を強く握り直した。
横目に映るレイラの横顔は微塵の揺らぎもなく前方を見据えている。
その姿は今だけは「味方」として絶対に信じるべき存在だった。
「それより――まだ一番厄介なのが残ってます。グリフォラス……あの呪獣は放っておけません。石碑を壊されれば封印の均衡が崩れる可能性があります」
低く鋭い声が、静まり返った空気を切り裂く。
レイラは血に濡れた左手で地図デバイスを展開した。
掌上に立体投影図が浮かび上がり、青白い魔力光が幾何学的な陣を描く。
魔力探知の光点が脈打つように瞬き、そのたびに彼女の横顔を淡く照らした。
「……この一点がグリフォラス。周囲にバロール・ビースト亜種が少なくとも二体。波形から見て、出力は先ほどより高い」
迷いなく示された一点。
その指先は震えひとつない。
アリスは真正面からその視線を受け止め、小さく息を吐く。
「……わかりました。でも、後で必ず説明してくださいね。絶対に、ですから。誤魔化しは、なしです」
柔らかな声音の奥に、揺るがぬ意志が潜む。
拒絶も言い逃れも許さない強さ。
レイラの睫毛がかすかに震え、ほんの一瞬だけ険しい表情が揺らいだ。
だが次の瞬間には消え去り、静かな頷きが返る。
「バロール・ビーストの亜種も複数、あの方向にいます。暗視補助は接近してから。魔力残量……無駄にはできないので、短期決戦でいきます」
その声音は落ち着いているが、刃のように鋭い。
アリスは頷き、足元の岩くずを踏みしめた。
耳の奥では激闘の余韻が残響している。
散乱した黒い体液と砕けた装甲片の匂いが、霧の湿気に混じって重く鼻を刺した。
「了解です。……じゃあ、そろそろ“本命”に挨拶をしに行きましょうか。あの呪獣、黙って見逃す気はありません」
軽やかに口にした言葉の裏で、胸奥に冷たい覚悟が形を成す。
瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
レイラは何も言わずに前を向く。
二人の足取りは自然と揃い、霧深い森を抜ける小径へと進んでいった。
その先に待つのは、この戦場で最も厄介で、そして決して避けられぬ存在。
アリスは覚悟を込め、両手で《ルミナ=コード》を確かめるように握り直す。
柄の重みと刀身を伝う微かな振動が心を鎮める。
背後では、まだ硝煙の残る戦場が静かに息を潜めていた。
焦げた大地から立ち上る白煙が月明かりに照らされ淡く揺れる。
その空気を振り切るように、二人は素早く装備を再確認し合う。
――そして。
闇の奥に潜む《呪獣グリフォラス》の気配へと、並び立つ二つの影が、音もなく歩を進めていった。
二人は声を潜め、茂みの影から石碑の広場を見下ろした。
湿った土の匂いと、焼け焦げた外殻の残滓が混じり合い、夜気は重く澱んでいる。
ズン……ズン……と、大地を揺らす重低音が夜気に染み渡るたび、足裏に微細な震動が伝わってきた。
霧を裂いて現れたのは、漆黒の殻に覆われた巨体。
単眼・二足歩行の大型魔獣――バロール・ビーストの亜種。
硬質な外殻は赤黒い瘤で覆われ、血管のように脈打ち、右腕に握られた巨大な包丁型の剣はまるで屠殺者の凶器のように鈍い光を反射している。
その姿は確かに、先ほど殲滅した同種の個体と同じ系統――だが、数を減らしたはずのそれが、ここにも再び姿を現したのだ。
そして、もう一体。
アリスは思わず呼吸を止める。
それは、明らかに異質だった。
黒く濡れたような四肢を地に這わせ、蛇のような尾をうねらせて進む。
全身の表面からは煤のような瘴気が立ち昇り、紫に発光する双眸が茂み越しにアリスたちを射抜いた。
まるで、見られている――逃げ場など存在しないと告げるような、異様なまでの圧力。
その巨躯の周囲では、草木すら枯れ落ちていた。
歩むごとに大地が黒ずみ、石はひび割れ、空気そのものが軋む。
《呪獣グリフォラス》。
地上の災厄と呼ばれる存在。異常な再生能力を誇り、既存の魔術体系では解析すら困難とされる構造を持つ、禁忌級の魔獣。
「……グリフォラス……っ!」
レイラが低く息を呑む。
その声音には、ただの敵を前にしたものではない、本能的な畏怖が混じっていた。
グリフォラスと、隣に並ぶバロール・ビースト亜種の二体は――
石碑の基部に群がり、鈍重な力で岩を抉り取っていた。
「……破壊してる。何かを隠すため? それとも……」
アリスが小さく囁き、眉をひそめる。
霧に包まれた広場の中で、淡い光を帯び始めた石碑は、まるで必死に抗っているかのように脈動を繰り返していた。
封印紋様が明滅するたび、空気がわずかに震え、低い共鳴音が地面を伝う。
アリスが小声で呟いた瞬間――グリフォラスの頭部が、ピクリとこちらを向いた。
紫の双眸が、霧を裂いて茂みの奥を射抜く。
『……ニンゲン……、ジャマ……、ココ……来ル、ナ……』
「え……いま、言葉を……しゃべった?」
「まさか……知性が……?」
アリスは息を呑み、レイラも驚愕に目を見開いて言葉を失う。
グリフォラスの喉奥から漏れる音は、砕けた岩を擦り合わせるような濁声。
耳を劈く不協和音でありながらも、確かに“言葉”として意味を成していた。
片言ながらも、それは明確な意志を帯びている。
人語を持たぬはずの呪獣が、意志を伝える――それ自体が禁忌に近い異常だった。
『……石……壊ス……ゼンブ、コワス……ナイ……ト……』
鈍重な外殻を軋ませ、グリフォラスは巨腕で再び石碑を叩きつける。
その一撃で石の基部にひびが走り、封印光紋が激しく明滅する。
砕けた石片が飛び散り、光が一瞬だけ強く脈打った。
「まさか……石碑の意味を……理解してる? それを――恐れてる……?」
アリスは思わず呟き、背筋に冷たいものが走った。
脳裏に閃いたのは、過去の断片。
記録の中で“封印獣”が言葉を持ちかけた例――数百年に及ぶ人魔大戦の記録の中で、ほんの数行にしか現れない、稀有な事例。
だが、いまアリスの目の前で起きているのは、まさにその一例だった。
(……意思疎通すら不可能なはずの呪獣が、“恐れ”を抱いている……? それも、この石碑に――)
グリフォラスの声は低く、濁った唸り声に戻る。だが、確かにそこには言葉を持つ存在の“意志”が宿っていた。
バロール・ビースト亜種の一体が咆哮し、単眼を爛々と赤光に染め上げる。
外殻に刻まれた瘤が脈動し、轟々と膨れ上がる魔力が空気を震わせた。
石碑の残骸に走る光紋が共鳴し、戦場全体を覆うように不気味な低音が鳴り響く。
「っ――きます、構えて!」
「はいっ!」
アリスとレイラは即座に魔力を集中させた。
アリスの全身を淡い蒼光が包み、剣に流れる魔力が脈動する。
レイラの両手には青白いエーテルソードが浮かび上がり、鋭い光刃が空気を切り裂いて震えた。
――再び、戦いが始まる。
だが二人の胸の奥にはなお、さきほど呪獣グリフォラスが放った“言葉”の残響が重く沈殿していた。
(……あれは偶然じゃない。確かに意志を持っていた……)
(封印を壊すことを“恐れていた”? なぜ――?)
疑念と恐怖と、そして抗えぬ予感。
それらが戦場の霧の中で溶け合い、アリスとレイラの心を静かに蝕んでいく。




