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第九部 第三章 第4話

 異変の中心に立つアリスの眼差しは揺らいでいなかった。


 霧は相変わらず岩棚を包み込み、足元の岩肌には冷たい湿り気が滲んでいる。

 だがその空気の中で、彼女だけが別の位相に立っているかのようだった。


 周囲に漂う霧のざわめき。

 耳に届かないはずの、微細な魔力の流れ。

 皮膚の表面を撫でる、ごく薄い圧力の変化。


 それらすべてを、アリスは確かに感じ取っていた。


 さらに――腰に携えた《ルミナ=コード》が、かすかに震える。


 鞘の内側で、青白い光がごく淡く脈打つ。

 それは警戒ではない。

 敵意への反応でもない。


 もっと静かな、しかし明確な“応答”。


(……あなたも、分かってるんだね)


 剣と自分の意識が、わずかに重なる。

 霧の奥に消えた何かが、まだ残響としてこの場に漂っていることを。


 深く息を整え、アリスは静かに言葉を紡ぐ。


「……これは門じゃありません。門の“残響”に反応して、埋め込まれていた《トラップ》が作動したんです」


 一度、視線を石碑に向ける。


「本体はすでに沈黙している。でも、門を通った“痕跡”だけがここに残っていた。その痕跡に反応するように、術式が起動した……そう考えるのが一番自然です」


 その声音には揺るぎがなく、確信と冷静さが同居していた。


 観測班の術者たちは思わず顔を見合わせる。


「……残響に対する反応……?」


 マーロ・ディルヴィン中尉が低く繰り返す。


「つまり、本体機能とは別系統の自律術式……防衛、あるいは確認用……?」


「ええ」


 アリスは頷く。


「門が開いた“事実”そのものに反応する術式。だから、門本体が消えても発動した。そして……役目を終えたから、消えた」


 セシリア・グレオール准尉が一瞬だけ息を呑む。


 その視線は、分析者としてではなく、現場指揮官としてのそれだった。


「……つまり、私たちは門そのものではなく、門に付随した確認機構を見ていた可能性が高い、ということですね」


「はい」


 アリスは迷いなく答える。


「そして、その確認対象は……たぶん、私です」


 その一言に、空気がわずかに重くなる。


 石碑が沈黙した今、その解釈を下せるのは、中心に立っていた彼女だけなのだ。

 誰もがそう直感していた。


 直後、レイラ・アスコット少尉の魔導兵装が低く唸りを上げる。


 外装のラインを走る光脈が淡い蒼光を帯び、再スキャンを開始した。

 背部ユニットの補助魔力炉が静かに点火し、霧を押し広げるように微振動が広がる。


 展開アームが小さく駆動音を響かせ、複数のセンサー群が石碑とその周囲を細かく走査していく。

 空間座標を示す薄い光線が幾重にも重なり、岩棚の輪郭を立体的に描き出した。


「石碑からの魔力反応、消失……門の機能は完全に沈静化」


 ヘッドセットに流れる無機質な数値を確認しながら、レイラはわずかに眉をひそめる。


「残留干渉波なし。熱量変化なし。空間歪曲値も平常域。……術式の主機構は存在していない」


 指先の操作に応じて、視界内に複数の測定ラインが拡張される。


「スキャン範囲拡大。半径二十メートル……三十……。魔力干渉波、検出なし。異常値なし」


 蒼い視覚補助ラインが霧の中を走り、岩棚の端までを描写する。


「……だが、微弱な“残響”はある。通常の観測では拾えないレベルだ。アリス、お前の言う通りだな」


 短く、しかし確信を込めた声。


「門はもうない。だが“確認”は行われた。その対象が誰かも、明らかだ」


 レイラの視線が、わずかにアリスへ向く。


 そこには試す光はない。

 ただ、事実を認める冷静さだけがある。


 霧が静かに流れる。

 石碑は、ただの岩塊に戻っている。


 だが、その沈黙は空虚ではなかった。

 確かに何かが起こり、確かに何かが“選ばれた”。


 そしてそれを、中心で受け止めていたのは――

 アリス・グレイスラーだった。


 次の瞬間、耳を劈くような警告音が兵装内に響き渡った。

 甲高い電子音が鼓膜を震わせ、ヘッドセットのバイザー越しに赤い警告表示が幾重にも投影される。

 視界の隅で数値が乱れ、周辺領域の一角に異常を示す赤いマーカーが激しく瞬き始めた。

 黒鉄色の装甲表面を走る青白い発光ラインが、警告信号と同期するように明滅を強める。


「……異常領域、確認。石碑と仮拠点の中間地点……地上魔力が、局所的にねじれている。圧縮率、通常値の三倍……いや、まだ上昇中だ」


 低く抑えたレイラの報告が、外部スピーカーから拡声され岩棚全体に響いた。

 黒鉄色の兵装は鈍い光を放ち、淡い蒼白のラインだけが鋭く霧を切り裂く。


 その言葉とほぼ同時に――。


 岩棚の下方から、地鳴りのような低い唸り声が響いた。

 腹の底を震わせる振動が岩盤を伝い、足元の小石が跳ねる。

 空気が圧縮されるような圧迫感が一帯を覆い、白い霧が外へと弾き飛ばされた。


「っ、来ます……来ます……!」


 セシリア・グレオール准尉の声は、叫びに近かった。


「全員、遮蔽へ! 観測機を固定! 兵装未展開班は後退距離三十メートルを確保!」


 彼女の号令が鋭く飛ぶ。


 だが、この場で即応できる完全展開兵装はレイラのみだった。

 ナディア、ミリエル、フロリアらは、格納していた重装ユニットの再装着を急いでいる。

 外骨格を再展開するには時間がかかる。

 背後では装甲パーツが接続される金属音と、魔力圧縮器の起動音が重なり合っていた。


『レイラ少尉! 他の兵装はまだ再接続中です、単独対応は危険です!』


 通信が飛ぶ。


 しかしレイラは応じない。

 黒鉄色の重装を纏ったまま、石碑の前に立ち続ける。

 青白い発光ラインが戦闘モードへと移行し、輝度が一段階引き上げられた。


 その背に集まる視線はひとつの事実を突きつける。

 今この瞬間を防げるのは、彼女だけだという現実。


 地面が裂けるように光った。


 岩棚の中央に、突如として青白い巨大な魔方陣が三つ浮かび上がる。

 それはこの場の誰の術式とも一致しない構造。

 魔人族特有の、禍々しい転移術式だった。


 六重の円環が重なり合い、回転しながら空間を削る。

 円環を縁取る古代語の文字列は現代解析では意味を成さない。

 だが一字一字が生き物のように脈動し、地脈から強引に魔力を吸い上げていく。


「構造不明……解析不能……魔人族式転移陣と推定!」


 マーロ・ディルヴィン中尉が叫ぶ。


「干渉波が合致しません! 既知データとの一致率ゼロ……!」


 エルネアの声が震える。


 中央から、黒紫に染まった魔力の柱が立ち昇った。

 岩床が軋み、空気そのものが悲鳴をあげるように震える。

 圧力は皮膚を締め付け、肺の中の空気まで押し潰すようだった。


「……転移確率八十パーセント以上。顕現まで推定三秒」


 レイラの声は冷静だった。


「迎撃に移行する。全員、後退。ここは私が止める」


 黒鉄色の装甲がわずかに沈み込み、脚部スラスターが青白い光を噴く。

 右腕の兵装ユニットが展開し、魔力収束陣が多層展開された。


『レイラ少尉、単独は――』


「黙っていろ。今は時間を稼ぐ」


 短く遮る。


 岩棚に轟音が走った。

 魔方陣の中心が裂け、内部から異様な影が蠢く。


 空気がさらに重くなる。

 霧が地面に叩きつけられ、視界が開ける。


 黒鉄色の兵装を纏ったレイラは、ただ一歩前に出た。

 青白い発光ラインが脈動し、彼女の周囲に防御結界が展開される。


 転移の光が爆ぜる。


 そして――。


 魔人族の気配が、完全に顕現した。


 やがて、その中心から現れたのは――異形の魔物たちだった。


 転移陣の黒紫の柱が裂けるたび、粘つくような音を立てて影が押し出される。

 単眼・二足歩行の大型魔獣。

 全身は硬質な黒い外殻に覆われ、節々には赤黒く脈打つ瘤が浮き上がっている。

 その瘤は鼓動のように膨張と収縮を繰り返し、内側で濁った魔力が蠢いているのが見て取れた。


 手に握られているのは、肉塊を断ち割るためだけに造られたような巨大な包丁型の片手剣。

 刃は幅広く、刃こぼれした縁からは黒煙が立ち昇る。

 数体が同時に地を踏み締めるたび、岩棚が震え、耳をつんざく唸り声が空気を裂いた。


 ――バロール・ビースト亜種。


 だが、その群れの奥。


 ひときわ重い気配が、空間を圧し潰していた。


 四肢を地に這わせる巨躯。

 黒々とした筋肉質の脚部は地面を抉り、そこから伸びる尾は蛇のようにしなりながら岩肌を叩く。

 頭部から覗く二つの瞳は紫の焔を宿し、視線が触れた空間の魔力を焼き切るかのような威圧を放つ。


 血の匂いすら幻視させる腐敗と呪詛の気配。

 その存在は、ただそこにいるだけで周囲の空気を濁らせていた。


 ――地上の災厄《呪獣グリフォラス》。


「数……多数! 最低でも十二体……いや、十三……まだ増えています!」


 マーロ・ディルヴィン中尉の報告が悲鳴のように響く。


「距離、あと六十メートル……急速接近中! 呪獣は最後尾から圧力をかけている……統率個体です!」


 エルネア・カース中尉が即座に補足する。


 護衛班と戦闘班は一瞬で陣形を切り替えた。

 結界術者が前方へ走り、両手を広げて多重防御陣を展開する。

 淡い蒼光の半球が重なり合い、魔力衝撃に備える。

 後方では魔術師たちが詠唱を開始し、火と氷の陣が地面に描かれた。


 未装着の魔導兵装部隊は急ぎ外骨格を再展開している。

 金属フレームが嵌合する重い音、魔力コアが通電する低音が連続する。


 だが前線には、すでに一つの影があった。


 黒鉄色の重装を纏い、青白い発光ラインを強めたレイラ・アスコット少尉。


 彼女は一歩踏み出す。


 アリスは静かに《ルミナ=コード》を構えた。

 蒼銀の瞳が戦場全体を射抜く。


「敵の目標は、おそらく……“記録の抹消”です。あれが残された魔人族の罠なら、今回の調査成果も、私たちも――存在ごと消し去るつもりでしょう」


 その声音は澄んでいた。


「だから守る。ここで、終わらせます」


 短い宣言が、霧の中に鋭く落ちる。


 戦場の空気が変わった。

 恐怖は怒りへと転じ、全員の視線が敵へ向く。


「全員、戦闘態勢! 迎撃戦――開始!」


 セシリア・グレオール准尉の声が魔力拡声器を通して轟く。


「ナディア、ミリエル、フロリア! 援護に回る。順次、魔導兵装を装着――急いで!」


 セシリア自身は腰の展開式魔導盾を解放。

 金属の駆動音と共に盾面が展開し、《障壁展開術式:シールド・フォールド》が起動する。

 半透明の蒼光が弧を描き、前線を覆った。


「起動完了! 衝撃受け止めます!」


「了解っ!」


 ナディアが《G-M19タイプ》の胸部アーマーを固定する。

 背部ユニットが連結され、光脈が一気に走る。


「ミリエル、後衛支援ラインを確保! 接近反応を迎撃!」


「了解!」


「フロリア、突出禁止! 左翼保持!」


「了解!」


 装着音と魔力の唸りが重なり、戦場の緊迫が加速する。


 その間に、霧を裂く影が一つ。


「……一体目、距離詰める」


 レイラの声は冷徹だった。


 次の瞬間、黒鉄色の兵装が地を蹴る。


 靴底が岩床を擦る音は、加速と同時に消えた。

 空気が圧縮され、衝撃波が周囲を叩きつける。

 霧が左右へ弾け、視界が一瞬で開ける。


 右腕から展開された強化型貫通術式 《ランス・ブレイカー》。

 刀身延長線上に蒼白の光槍が形成され、術式紋様が高速で回転する。

 空間を穿つ軌跡が一直線に伸びた。


「……排除対象、確認。攻撃、開始」


 刹那。


 レイラの一閃は、光そのものだった。


 バロール・ビーストの胸部装甲に正面から突き刺さる。

 硬質な黒殻が悲鳴をあげ、内部の赤い瘤が爆ぜる。

 貫通衝撃が背面へ抜け、衝撃波が円形に拡散。


 巨体は宙へ浮き上がり、数メートル先の岩壁へ叩きつけられた。

 岩が砕け、赤黒い体液が飛散する。


 断末魔は、発せられる前に潰えた。


 レイラの黒髪が風圧で乱れ、額に張り付く。

 蒼光を映した瞳は、すでに次を捕捉している。


 喜びも憤怒もない。

 あるのは冷徹な排除意志のみ。


 だが、敵は止まらない。


 別個体が包丁型の刃を振り上げ、地面を抉りながら突進する。


 その瞬間、アリスが動いた。


 《ルミナ=コード》が青白く脈動する。

 刃が低く唸り、空気が震える。


 彼女は一歩踏み込み、斬撃を放つ。


 蒼い閃光が横一文字に走る。

 敵の膝関節を正確に断ち、体勢を崩させる。


 続けざまに返しの一太刀。

 術式破断能力が発動し、外殻内部の魔力回路を断絶する。


 黒い巨体は地に崩れ落ち、重い衝撃が足元を震わせた。


 霧の奥で、呪獣グリフォラスが低く咆哮する。


 その紫の瞳が、アリスを捉えた。


 戦場の圧力が一段と増す。


 アリスは視線を逸らさない。


 ただ、剣を握り――迎え撃つ。

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